古本市の思い出
マニュアルの文章を読み返しながら

芦立秀朗

 ユニトピア100号達成おめでとうございます。ユニセフクラブの活動の第一線から退いて永くなりますが、今でも私は毎年桜前線のニュースを聞くと古本市シーズンの訪れを実感しています。「マニュアル型人間」という言葉がネガティブに使われることが多い時代にあって、1995年に古本市担当者であった私が作成した古本市マニュアルが永く後輩の皆さんに愛用されていることは、一種喜びでもあります。マニュアル作成は元々、永野浩二さんから私に提案されたもので、運営方法についての知識の散乱或いは無形文化財的継承に不便さを感じながら職責を果たしたという自分自身の経験もあり、後進のためにもと私も即賛成したのでした。そのマニュアルを久しぶりに紐解いてみて、冒頭の文章に目が留まりました。少々長めではありますが引用します。

『ユニセフクラブでは毎年4月下旬(主に4/22のアースデー)に古本市を開いている。これは、第一に引っ越しシーズンに捨てられるだけの卒業生・上回生の本を主として新入生に有効に利用してもらうためのものであり、第二に収益金をユニセフクラブが共感できるNGOに話を聞いた後で(全額を分けて)配るというプロセスを通じて、ユニセフクラブと同じく南北問題などを扱っているNGOとネットワークを持つと共に、私達学生が「できることをする」為のものである。もっとも、古本市を通じてサークルとしての一体感を深めるということも重要なことであるが。』

 古本市にまつわる諸問題は以上の3点に尽きると思います。この3つの内、第2点目はユニセフクラブの存在理由とも絡み大きな議論を巻き起こしてきました。収益金の送り先をどこにするのかあるいは額をどうするかに関しては1995年以前から先輩方も頭を悩ませてきたところですが、1995年の古本市は折しも阪神大震災の後でしたので、緊急救援金に充てる原資をどうするかが重要なテーマになったのです。緊急救援金に関してはその後も、古本市の収益金の一部を採っておくという方法と、1999年の様な古本市特別会計とユニセフ一般会計を一緒にする方法との間で試行錯誤が続いているようです。お金を扱うということの難しさを痛感する次第です。

 今となって考えると、この時はおそらくは付け足し程度の意味で書いたであろう「もっとも」以下の第3点目、つまり出会い・連携の『場』の創設ということこそ古本市のユニセフクラブにとって最も重要な意義であったような気がします。というよりむしろ、私にとってそうであったと言った方が正確かも知れません。思えば、1994年4月知り合いもいない京都に来て心細い思いをしていた私をユニセフメンバーに変え、それ以降のすばらしい仲間達に囲まれた充実した学生生活を提供してくれたのは他ならぬ古本市でしたから。また、1995年の第1回古本市の打ち上げで、多くの新入生・在校生の笑顔を見たときほど責任者としての達成感に浸った時もなかったと思います。これからの古本市においても、こうした実り多き出会いが数多く生まれるであろう事を願ってやみません。

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