西村 宣彦
目次
- 私たちの暮らしとダム
- ダムに反対する村・木頭村
- ダムは地域を活性化させるか?
- 木頭村の選んだ道
- ダムの必要性を論ずる前に
- 洪水に備える
- 水資源を確保する
- コストと効果を考えて(1)
- コストと効果を考えて(2)
- ダムのコストと意思決定のあり方
- 決定プロセスを見直す
- 日本、そして世界にて
- 私たちの暮らしとダム(再び)
- おわりに
1.私たちの暮らしとダム
あなたはダムを見たことがありますか?日本にはたくさんのダムがあります。おそらく多くの人が、山や川に出かけた際に、谷間にそびえるダムという建造物を目にしたことがあるのではないでしょうか。
現在日本には、高さ16メートル以上のダムが約2500あります。これは単純に計算して1県当たり53のダムが存在するということを意味しています。日本広しと言えども、今どきダムや堰に塞き止められることなく、上流から下流まで「流れて」いる川はほとんどありません。(例えば、建設省の管轄する一級河川は109水系。)もし地図が今手元にあるならば、ダムのない川を探すことがどれほど困難であるかを簡単に知ることができるでしょう。 これほどたくさんのダムが造られたのにはもちろん理由があります。ダムは、私達が普通に暮らしていくためにはなくてはならない存在とされてきました。例えば、水道水。京阪神地域に住む人は、琵琶湖があるために実感がわきにくいかもしれませんが、私たちの飲み水や、工業用水、水田を中心とした農業用水を安定的に確保するため、多くのダムが建設されました。また、洪水対策としてダムが造られることもありました。豪雨となった時、上流部で降った雨を塞き止めておくことで、資産の集積する下流部で洪水が発生するのを防ごうというわけです。逆に、渇水の時には、上流に溜めた水を放出することで、川が涸れるのを防ぐことができるといえば一石二鳥です。これは流水の正常な機能の維持という役割です。ダムの必要性3本柱のもう一つの柱は、水力発電です。原油価格が下落し、また原子力発電が国家的方針の下で推進される中、水力発電はすっかり脇役といった感がありますが、原子力発電とセットになった揚水式発電も含めて、水力発電を目的としたダムもたくさんあります。ダムは、これらの目的の一つ、もしくは複数の目的をもって建設されます。
2.ダムに反対する村・木頭村
ダムは私たちが、日常生活を送る上では不可欠な存在という見方がある一方、ダムの建設は、いくつかの問題を内包していました。ダム建設は、しばしば地元の住民らとの摩擦を引き起こしました。徳島県の西部、高知県境にある木頭村(きとうそん)という村を流れる那賀川に建設される予定の細川内(ほそごうち)ダム。このダムは、今から約30年前に構想されたダムで、治水(洪水対策)と利水(農業・工業・水道用水の確保)が主な目的とされています。このダムが建設されると、2つの集落および那賀川源流の美しい渓谷が水没することになります。木頭村では、計画が伝わった当初から村内でダム建設の是非に関する議論を重ねた末、1976年より今まで20年以上にわたって反対の立場を採っています。現在村民の約8割がダムに反対の立場を採っており、村議会も10人中7名がダム阻止派、村長もまたダム阻止を掲げて、この4月のはじめに再選しました。
木頭村および村人たちがダムに反対する理由はシンプルなものです。それは、ダムの建設は村の振興の役にも立たないし、それだけではなく下流域の人々の利益にもならないと判断したからです。
3.ダムは地域を活性化させるか?
一般にダムが建設されるのは、過疎化の進む農山村です。ダムは、下流地域には上で述べたような利益をもたらします(とされている)が、ダムの建設される上流地域には、建設需要およびその波及効果による短期的な利益を除けば、たいした利益はありません。それどころか、ダムによる水没に伴い、人口の流出、経済基盤の喪失(農業適地の水没など)といったマイナスの影響を考えるのは極めて容易です。にもかかわらず、ダムは、実際には、過疎地域の活性化に役立つと、大いに宣伝されているのです。そして、ダム建設の話を突然持ってこられた地域で激しく議論される(ときには、地域を分裂させる)一番のテーマが、「ダムは地域を活性化させるか」ということなのです。
これには、制度上の仕掛けがあります。ある一定以上の規模のダムが建設される際には、法律に基づいて「水源地域整備計画」というものが策定され、水源地域(ダム建設による水没の影響を受ける地域のことをこう呼ぶ)へのマイナスの影響を緩和するための様々な国庫補助事業(道路建設、農地改良から、観光拠点の整備、学校、老人ホームの建設までいろいろ)が、短期間のうちに集中的に実施されるのです。しかもこの場合、下流の受益(?)自治体が、その費用の一部を負担することになるので、ダム抜きでは何十年かかるか分からないような事業を、一気にやっちゃうことができるわけです。財政難に苦しむ地方自治体にとっては、これは大変魅力的なことです。近年は、水源地域の重要性を考慮して、地域振興のための補助がますます手厚くなる傾向にあります。また、ダムおよびダム湖が織りなす「景観美(?)」を利用して、大いに観光客を誘致することができるというのも、推進側がいつも口にする常套文句です。
4.木頭村の選んだ道
木頭村は、ダムによる地域振興ではなく、ダムなしでの地域振興を模索しようとしています。木頭村にはすでに、村の入口にあたる最東部に大規模ダムがあります。このダムの建設が、偶然か必然か、結果的には川の水を濁らせ、ダム湖畔の集落を衰退させたという経験が、細川内ダムに対する村民の判断に影響を与えたようです。また、ちょっと周りを見渡すと、ダムによる地域振興の失敗事例が日本全国に溢れかえっていました。国がダム建設に伴って、面倒を見てくれる事業というのは、基盤整備のための土木工事と施設の建設ばかりです。それらの工事によって、結果的に活性化がうまく行かず、それどころかその地域本来の魅力も喪失してしまったために、人がますます出ていった、都会にいる親戚ですら遊びに来なくなったなんてことになっても、それは「自助努力が足りない」と片づけられてしまうのが落ちです。村民はそれらをよく知っているため、ダムで地域は活性化できないという結論に達したようです。県や建設省は、今もなお強硬にダム建設の方針を貫いているので、国土庁が水源地域の活性化の重要性を切々と説いているにもかかわらず、木頭村独自のダム抜き地域振興策を支援するわけには行きません。法律体系の中では、ダムが造られないならば、そこは水源地域ではないからです。それでも、木頭村は、地域の資源を生かした村作りに、地道に取り組もうとしています。木頭村は、柚子と杉の名産地です。また那賀川の源流域に近づくにつれ、大変美しい自然が残されています。生きた川がそこにはあります。農業と林業およびその加工業を柱に、美しい自然環境を活かして、地域主導による滞在型の観光業をおこそうとしています。
地域活性化は中山間地域共通の深刻な課題です。ダム建設の問題を地域活性化の問題にすり替えて、ダム建設を推進しようという手法は、ダムが本当に必要なのかいらんのかという部分で大きな過ちを犯させる可能性があるという点で問題なのですが、ダムによる地域活性化という謳い文句自体も色褪せてきつつあります。とはいえ、ダムによらない地域活性化への道も依然険しく、木頭村を先駆けとして、その取り組みは今始まったばかりです。
5.ダムの必要性を論ずる前に
あなたがもし功利主義的なものの考え方に関心があるのならば、このように考えるかもしれません。「ダムによる地域活性化は問題の本質ではない。ダムは公共財なわけだから、百歩譲って水没地域にとっては確かに不利益の方がでかいとしても、下流に住む人々の安全とか、飲み水の確保とかそういったことも考えると社会全体では、利益の方が大きいのならば、ダムはやはり造るべきなんじゃないか」と。このような感覚を持つ人は、全く普通の感覚を持っていると思います。木頭村の人々もダムの必要性について、極めて難解な河川工学の知識も動員して、理論武装しています。ただ、話の順序として地域振興の話を先にしたのは、これから述べるような表面上のダムの是非に関する議論の前提として、中山間地域での過疎の進行という構造的な問題が横たわっていることを知らずに、ダム問題全般に関する議論(何故ダムが造られてしまうのか)はできないと考えたからです。岡山県のあるダム事業に対して40年近くも反対運動を続けた挙げく、ついに力尽き、立退きに同意した方(今は下流の町に移転)の言った言葉が私には印象に残っています。「もしダムがほんまに必要なものなら、下流の人たちが喜ぶものなら、私たちも最後には割り切ることができたでしょう。今になっても、ダムが必要という納得できる説明がないから、何ともやり切れんのです。」ダム問題を地域エゴの問題に決めつけて片づけてしまうのは時期尚早です。
6.洪水に備える
本題に入ります。細川内ダムの場合、推進側は、治水と利水の必要性を訴えています。治水に関しては、いまの那賀川は20年に一度の確率で起こる洪水を防ぐことができるレベルであり、これを100年に一度の確率レベルに引き上げるために、ダムが必要ということです。ここで言う20年に一度、100年に一度というのは、過去の豪雨時における流量の実績を元に、確率分布を求めて導き出される、言ってみれば机上の計算です。数学の問題なので計算結果だけを見せられると、ああそうなのかと言うしかないのですが、計算過程を見ていくと、これは恣意的なのではという点が多々出てきます。あまり数学的な話に深入りしてもしょうがないのでこの辺にしておきますが、取りあえず、100年に一度の確率で起こるとされたような流量は、計測以来一度も起こったことはないことは確かですし、また、建設省が行ったのと別の計算方法を用いると(なんと18通りの計算方法がある)、100年に一度といえどもダムは不要という結論が出てきたりするのです。
7.水資源を確保する
利水については、この計画が30年前の高度成長期に生まれたものであるといえば充分でしょうか?水を大量に用いる重化学工業は衰退し、また経費節減のため水のリサイクルが普及したことから、工業用水需要は減退しているのをはじめとして、是非はともかく水田も減少しているので農業用水需要も停滞気味、水道用水もまた伸び悩んでおり、その結果過去の水需要予測は、ことごとく現実を遥かに上回るものとなっています。また夏に水不足が起こると、渇水対策にやっぱりダムが必要だと言う声が出てきますが、ダムが一つできたところで、たかだか数日間持ちこたえられるだけです。
ダムを作ったって水が増えるわけではありません。抜本的な渇水対策を行おうというのならば、緑のダムである「山」の再生にお金をかけた方が良さそうです。森林の手入れをし、山の保水力を高めれば、洪水対策にも、渇水対策にもなるのですが、その担い手である林業は熱帯産材に押されて、長らく苦境にあり、山は荒廃する一方です。洪水からの安全や水資源の安定的確保が、仮に私たちになくてはならないものだとしても、その目的を最もうまく達成するにはどのような手段が良いのかということに、もっと知恵を絞る必要があるのです。「建設行為」そのものが目的なのではないのですから。
8.コストと効果を考えて(1)
ダムを建設するのがいいのか、堤防を強化するのがいいのか、それとも、何もしないのがいいのか?いくつかのアイデアの中からどの手段が目的達成のためにいいのかを考えるには、それぞれの手段の費用と効果を見比べる必要があります。しかし、現在のダム事業は、そのような作業がなされているとは言い難いのです。それを端的に示すのが、長期におよぶ事業を見直す仕組みの欠如です。事業が30年、40年と長期化した場合、社会情勢は大きく変化します。30年前といえば、1960年代後半であり、東京オリンピックの開催や東海道新幹線の開通があった時代です。この頃の水需要見通しは、現在のものとはまるで違うはずであるのに、事業の見直しはなされません。一旦実施が決まれば、何年かかってもやる、その間にやっぱり要らなさそうということになってきても、断固としてやるというのが、昨今までの姿勢でした。これは、最近話題の行財政改革という文脈の中で厳しい批判にさらされ(言うまでもなく、草の根レベルでの批判は昔からなされていた)、ようやくいくつかの事業で見直しの機運が生まれつつあるものの、まだまだ緒についたばかりであり、ガス抜き程度のいい加減なものに終わらせないためにも、しっかりと監視する必要があります。
9.コストと効果を考えて(2)
いくつかある手段の費用と効果を見比べてと書きましたが、これは言うほど易しいことではありません。ダムの費用と言いましたが、ダムの費用とは一体何でしょう?ダムの建設費用、補償のための費用、維持管理費用。これだけでしょうか?ダムができることによって漁業が衰退することの不利益はどう考えたらいいのでしょう?ダムによる立退きで集落が消失し、地域の文化が失われるとすれば、これはダムが生み出す社会的な費用といえるかも知れません。また、ダムの建設は、環境に重大な影響を及ぼします。ダムによって川の水が淀み、清流が失われることは、ダムの費用なのでしょうか?それまでそこに生息していた魚や植物がいなくなってしまうことは?下流に流れる土砂が減り、砂浜が無くなってしまうことは?
効果についてもじっくり考える必要があります。ダムによって、100年に一度の洪水を防ぐことができるといいますが、実際のところ、100年に一度の洪水に対処できるのは、完成当初だけです。川は、水だけではなく生物や土砂も流れる場です。それらを考慮せずに造られたダム(そう言えば魚道なんてものもありましたね・・)は、やがて土砂に埋まり、巨大な産業廃棄物になります。ダムへの土砂の堆積については、しばしば半分程度に過小評価されており、計画以上にダムの寿命は短いことが知られるようになっています。ダムに土砂がたまると、当然のことながら、水を保持することのできる容積は減ります。将来世代の人たちにとっては、ダムは洪水を防ぐどころか、洪水の危険をもたらす存在となるかもしれません。もちろん水資源の確保もできません。そうならないためには、どんどんと追加投資する必要が出てきます。
10.ダムのコストと意思決定のあり方
ダムの費用や利益を計測する方法は、経済学の分野で開発されており、環境コストなどといった抽象的な費用をどう評価するかについても研究されています。そのような専門的なウンチクはさておき、重要なことは、自然が失われることの費用というのは、裏返して言えば、私たちがその自然にどれほどの価値を置いているのかということです。それはすなわち、私たちが失われる自然をどれほどに評価するかによって、ダムの費用は変わり、その結果ダムを造るべきか否かの結論も変わるだろうということです。人々が自然の恩恵を当たり前と考える時代には、ダムは安上がりな手法ですが、自然の価値を高く評価するようになると、環境へのマイナス影響の大きいような事業は高くつくということになります。このことをもうちょっと普通の言い方に変えると、ダムのように環境への影響が大きい事業については、ダムを造るべきかどうかを決めるプロセスに人々が関与することが極めて重要であるということです。言ってみれば、人々の声を反映することで、最も適当な事業を正確に選択できるというわけです。(おそらく環境の価値をお金で換算したりすることよりは、はるかに正確でしょう。)
11.決定プロセスを見直す
もちろん、その前提として、ダムやその代替案それぞれのコストや効果、また環境への影響に関する知識が共有される必要があります。残念ながら、今の日本の制度では、ダム事業に対して住民や関心を持つ市民らが意見を述べる場は、十分に保証されているとはいえません。また、事業推進者がその必要性を訴える根拠を示すようなデータについても十分に公開されていませんし、環境への影響を調べる「環境アセスメント」も、現状では事業の「実施のための1プロセス」を構成するに過ぎず、「事業を実施するか否かを判断するための手段」としてはまだまだまともに機能していません。現在、国会でも法制化に向けて議論がなされていますが、手続き・内容とも、大幅に改善する必要があります。
このように現状では、ダム(もしくは河川政策)をどうするかを真剣に考えている人は、それをまともに議論するための土俵作りに関する議論も同時平行で行わねばならず、その結果、論点も極めて拡散してしまっています。(この文章のようにね。)しかしどれもが重要であり、すべてが克服すべき課題なのです。
12.日本、そして世界にて
目を世界に転じると、各国でもやはり大規模なダム開発が問題を引き起こしていることが分かります。特に開発途上国では、それらの事業は日本をはじめとする先進国の「援助」で実施されていることが少なくありません。
ネパールのアルンVダムは、1980年代後半に日本のJICAが発掘し、日本のODAや多国籍金融機関である世界銀行(以下、世銀)、アジア開発銀行らの融資で実施される予定でしたが、1995年に中止されることが決まりました。総事業費がネパールの国家予算の1.5倍に達し、重大な債務問題に発展する可能性があること、水没予定地付近は希少な生物種の生息地であり、また、森林の伐採が進むことで、周囲の環境に悪影響を及ぼす可能性があること、先住民約350世帯が立退きを余儀なくされ、社会的・文化的な影響も大きいこと、地震の多発地帯であることなどを理由に、内外のNGOから強い批判を受け、世銀内部でも、事業実施を見直すべきとの声が強くなり、最終的に中止に至ったわけです。 ダム開発が引き起こす問題は、事業によってほんとに様々ですが、大胆にまとめるならば、@決定プロセスの問題A立退きの問題(先住民族の文化破壊の問題を含む)B環境問題Cダムという手法の効率性の問題、といえるでしょう。事業が国外のコンサルタントらの手により立案され、現地住民を決定プロセスから排除した場合、事業が引き起こす様々な環境や社会への影響を見落としてしまいがちです。そのような事業は現地の人が納得しないでしょうから、立退きの問題もこじれがちであり、暴力的な強制立退きなどの人権侵害につながることもあります。建設してみると、見落としていた問題が後からいろいろと出てきて、実は極めて非効率なものだった、様々な禍根を残したなどという事例は枚挙に暇がありません。日本、そして世界で開発のあり方(哲学)・開発のやり方(技術)が問われています。アメリカは昨年、今後新規にダム建設を行わないという画期的な宣言をしました。
13.私たちの暮らしとダム(再び)
私は以前思ったことがあります。私の水道使用量は、最低料金の上限使用量の半分程度なので、ぜんぜん節約する気せーへんなあと。そんなことはない。水をたくさん使えば、水需要の実績が高まり、将来の水需要に万全を期したい人たちにダムを造る口実を与えることになるのです。(京阪地域は琵琶湖があるから大丈夫と思いがちだが、琵琶湖の水がまた減ったりすると、それに備えてダムを造ろうということになるのは目に見えている。)ちなみに今私が住んでる所は、水道料金は共益費に含まれている・・、うーむ。
ダムの問題はまた、森の大切さを教えてくれました。きっちりと手入れをされた森林は、放置された杉林(日本の大部分の山の現状)よりはるかに保水能力が高いそうです。手入れの行き届いた山は、豪雨の時にも小雨の時にも比較的安定した水量を供給します。森を皆伐し、ダムの底に沈めることが、100年先を見越した川のあり方といえるのでしょうか?真の洪水対策・水資源対策とは何かと考えると、「あらゆるところをコンクリートで塗り固めることが開発」という発想そのものが怪しいのではないかという気がしてきます。また日本の森林が荒れているのは、熱帯地方の森林が荒れているのと表裏の関係にあります。(きっとY.K.君が詳しいことでしょう。)熱帯林と私たちの関係がこんなところからも見えてきます。
14.おわりに
「新一回生向けに分かりやすく」ということだったのですが、あまりに総花的に書きすぎて、読んでくれた人に多大な苦痛を与えたのではないかと大変恐縮しております。読んでくれた人、どうもどうもありがとう。書かれていた様々なテーマ(地域活性化、河川開発のあり方、意思決定システム、環境、援助etc.)の中で、どれか一つでも関心を持ってくれたら、自分でもっと調べたり、実際に出かけてみたりしたらいいと思います。(うー、説教臭いな。)ま、またもっといろいろお話しましょう。
(にしむら のぶひこ/京大ユニセフクラブ)