1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと労働―」
1999年、秋。
早い秋の夕暮れを窓越しにながめながら
タイの、フィリピンの働く子どもに思いを馳せる。
働く子どもの存在。
遠い国の、遠い「現象」
貧しさゆえの、やむを得ない「現象」
本当にそれでいいのだろうか?
危険や搾取と隣り合わせで、仲間と助け合いながら必死でいきるストリートの子ども という「現象」
だが、そんな子どもたちのことをもう少し詳しく知ったとき、人間としての彼らの姿が見えてくる。
ストリートにだって怠け者はいるだろう。仲間もいず、孤独な子もいるだろう。家族に守られてあまり差し迫った危険にさらされてはいない子もいるかもしれない。
遠い「現象」ではなく、同時代をともに生きる「にんげん」として、働く子どもの、その存在を考えていきたい、そう思うのである。
しかし、それでもまだ何か違和感が残る。
働く子どもの存在。
それは本当の意味で私たちにとって「遠い現象」だろうか。
あるいは、貧しさは「仕方のないこと」なのだろうか。
外国企業が潤う工業化を欠いた産業発展、農業の近代化、その流れの中で農村を追われる人々。
外貨獲得政策の波で破壊されてゆく豊かな森林。失われていく生活基盤。そしてユーカリの木を植えて育てるODAプロジェクト。
子どもたちの作った製品を消費する日本の私たち
働く子どもの存在。
それは、決して「遠い現象」ではないのではないだろうか。
子どもが働いている、
その状況を作り出している、
その世界の中に、
まさに今生きている、わたしたち。
生きていることは、関わっていること、
関わることは、生きていくこと。
子どもが危険な目に遭わず、それぞれの才能を十二分に発揮してのびのびと育っていける世界に向けて、
「遠い現象」ではなく考えていきたいと思うのである。
困難な状況で働く子どもたちのことを
そして
そのような状況に子どもたちを陥れているこの世界のあり方そのものについて。
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