第3章 識字の暴力


1◆変わる識字の基準 

 今現在の社会では文字なしでは生活しづらくなっています。それは日本のような先進工業国に限らず、発展途上国と言われる国でも同様です。国家の経済発展、近代化、産業化には識字を教える教育が必要とされたことで、これだけの読み書きができなければならないという識字の基準が高くなっていったのです。国家の求める識字は個人の求める識字とは異なります。国家の求める識字は、個人の発達のための識字よりも技術としての識字を重視し、主流派の識字(多数の人が使う言語の識字)を押しつける傾向が強くなります。

2◆「識字率」の危険性              

 識字率という概念も考えてみればおかしなものです。識字というものを数値でとらえることは元々できないはずです。どれだけ読み書きできれば識字者なのかその基準は国によってまちまちです。またあくまで国全体の平均値なので地域や階層、性別における識字率の違いは反映されません。

 このように識字を数値化してとらえることの根底には識字=知識という見方があるのではないでしょうか。これは識字および知識を試験などを通して点数化する事にもつながります。そして、個人を点数化された知識量や能力によって判断し、その点数が低い者(つまり、社会の定める識字の基準を満たせない者)は社会から排除され、差別されていくのです。識字率が低いと困るというのはつまりは国家が困るという視点に立っていると言えます。このような識字観においては識字はそれが使われる社会と切り離された読み書きの技術や手段ということになり、識字の過程において様々な価値観や態度、思考力、行動力の習得をする事がなおざりにされる恐れがあります。

3◆識字の生む差別

◇少数民族…上記のように識字は捉え方が異なれば暴力にもなります。国家(社会)の求める識字はその社会が効率的に動くための識字であるため、主流派の識字(つまり、多くの人が使う言語の識字)を教育することになりがちで、社会は主流派の文字で動くことになります。そうなると少数民族などの少数派は不利な立場に置かれます。主流派の識字を獲得しなければ差別され、それが貧困にまでつながります。貧しければ、その民族の言語の識字を獲得しようにもテキストを作り学校を開く財力がないということになります。このように差別されてきた人がとる道は主流派の識字を獲得するしかないのでしょうか。これについては単純な解決法は無いと言わざるをえませんが、識字を考える際にこのような識字の暴力性に配慮する必要はあるでしょう。

◇学校内で…識字を点数化する事で、読み書きの上手な子はほめられ、下手な子はしかられたりばかにされたりします。できないという烙印を押された子は自身をなくし落ちこぼれていきます。

4◆文字がすべてなのか?

 では識字なくしてはフレイレの言うような批判的思考は得られないのでしょうか。そうだとすれば文字を持たない社会にはそのような思考は存在しないことになります。ここで注意しなくてはならないのは識字はそのような思考を身につけるための一手段であるということです。識字そのものが重要なのではなく、その過程で人々の抱える問題に気付き、その解決にむけて話し合い、考え合い、協力し合い、行動していくのが重要だということです。だから、必ずしも識字を通してでなければそういうことができないというわけではないでしょう。識字なくして思考なしというのは識字者の傲慢というものでしょう。また、思考方法にも様々あり、各々の社会に合った思考法を身につけることが重要なのではないでしょうか。文字がすべて、という考えに立ち、識字を読み書きの技術として社会から切り離すと、例えば次のような考え方になるのではないでしょうか。「私たちが発展途上国への開発援助を考えるとき、識字率の低い国に対して『かわいそう』だから識字を授けてあげよう。」識字活動の一般的なイメージは、字の読み書きのできない人たちに私たちが直接そこへ教えに行ってあげるもの、ではないでしょうか。シャプラニールの斉藤千宏さんは、日本人にバングラデシュでの識字教室をデモンストレーションする度に現地でも日本人が先生になって教えていると思われるそうです(実際は現地の村のバングラデシュ人が先生になります。文化的背景や住んでいる社会の全く違う日本人がいきなり、バングラデシュの村に入ってバングラデシュ人に識字を教えてあげるのでは識字はそれが使われる社会と切り離されることになります。だから、シャプラニールではより参加者に近い立場の現地のバングラデシュ人を先生役としているのです。)。

 また、自分の名前がサインできるようになったらそれ以上文字を学ぶのをやめる人もいます。サインを求められる度に冷や汗をかき、自分の名前さえ書けないことで尊厳を傷つけられてきた人にとってサインができるようになるのは大きな意味を持つのです。そしてサインができるようになるだけで十分とする人もいるわけです。

5◆日本の教育と識字

 日本は今や文字なくしては生きられない社会です。学校においては高度な識字が求められます。ここで言う識字はより知識という意味に近いものでしょう。

 日本での教育をすべて対話型にすることは不可能でしょう。対話型の教育では高度な知識を得たり、多くの量の知識を吸収するのは難しいという声も聞かれます。しかし、識字を通しての様々な価値観や考え行動する力の習得を置き去りにしてはその知識を有効に生かすことはできないでしょう。それどころか、せっかくの知識が悪用される恐れさえあります。

 また、落ちこぼれていく子供たちは識字の暴力を受けている例でしょう。識字=知識という捉え方が根底にあるために知識量=成績で人を測ることになるのです。

 日本では文字の読み書きができることがほぼ当たり前になっていますが、ここでもう一度、文字とは識字とは何かを考えることで、日本の教育について何かがみえてくるのではないでしょうか。

第2章 NGOの取り組みへ

 

 

1996年11月祭研究発表 「識字教育からみえるもの」へ