8.国籍のこれから


 これまで日本を中心に国籍の取得やその役割について見てきた。簡単にまとめてみよう。世界中のほとんどすべての人が出生によって国籍を取得する。そして、出生によらず別の国の国籍を取るのはそう簡単ではない。だから、国籍は、国境を越えてやってくる人たちの居住や労働の自由を制限しうる。誰にどんな基準で国籍を与えるかは国によって大きく異なり、日本では国家の自由裁量の側面が強い。日本で生まれ、日本に生活基盤がある人でもなかなか国籍を取得できない。それでいて、近年まで社会保障は外国人に対して平等に適用されていなかった。日本は、自国民か外国人かという区別をとても重視する国だと言える。国のやり方に引きずられて、地方公共団体もその本来の役割である住民へのサービスを「国民たる住民」に限って行う傾向が強かった。

 ただし近年、市民運動や国際条約という外圧の結果、日本も変わってきている。社会保障や公務員の就任における内外人平等の流れ、地方自治体での外国人参政権を認めていこうとする動き、地方公共団体の外国人住民に対する地域の取り組みなど、国籍がしだいに具体的な権利に関して意味を失っていくような方向で社会全体が動き出している。

 前にも述べたように、日本社会は多国籍社会であり、日本国民以外のたくさんの人たちが日本で生活を送っている。また、日本国民も日本で生活しているとは限らない(1988年において日本国民の外国長期滞在者は59万人・永住者は25万人もいる)。つまり、日本社会の住民であっても国民でない人々や、逆に日本国民であっても住民でない人々がたくさんいるのだ。こうした状況の中では、「国民」か「外国人」かという範疇では対応しきれない問題が出てくるのは当たり前だ。実際の社会構成員である住民の生活の保障を考えていくならば、国籍は具体的な権利に関して意味を失っていく。にもかかわらず、日本の政策は国籍に今でも随分こだわっているし、日本社会で生活する私たちも、いつのまにか、「自国民」か「外国人」かという国籍を基準とした国家的な視点を内面化してしまっているところがある。「外国人なんだから、指紋押捺義務があっても、社会保障が不十分でも…でもしょうがない」とそれほど抵抗なく思ってしまう。

 社会保障に関する内外人平等の流れも、日本国民が下からの突き上げで作り出したものとは言い難い。今必要とされているのは、まず私たち自身の発想の転換だろうと思う。住民=国民でない状況において、国籍という単なる記号で判断するのではなくて、もっと現実の社会に根ざしたものの見方に変えていくべきだ。日本という同じ場で、京都という同じ場で共に生活していることを大切にしていけるような発想の転換が必要なのだ。

 具体的な課題を挙げると、まず、生活の中心が日本に移っている人たち(特に永住者や定住者)に絶対的居住権(強制退去されない権利)を含めた安定した在留資格を保障すべきだ。また、いかなる理由があっても未成年者は強制退去すべきではない。在留資格についてはフランスのやり方が参考になる。社会保障のさらなる平等化も必要だ。特に生活保護は、(少なくとも永住者や定住者に対しては)日本国民と同様に権利として保障すべきだろう。

 それから、一番重要なのは、地方自治体の役割だ。自主的に公務員の就任権をさらに開放していくことや、外国人にも地域住民としてサービスを十分提供していくべきだ。参政権に関しては法律の問題もあると思うが、すぐにできることとして、自治体の施策について外国人住民が意見を述べる委員会などの設置が挙げられる。しかし、こうした作業は大阪府などほんの一部の自治体でしか行われていない。地方参政権もあわせて、今後さらに進めていかなければならないだろう。

 最後に、外国人の地域社会への受け入れが、外国人に「日本化」することを強要しないように、教育の問題も考えていかなければならないと思う。京都にもいくつかある在日朝鮮人の通う民族学校は、今なお普通学校なみに扱われず、そこの生徒は国立大学を受験する資格がない。また、公的な資金が十分に受けられず、父母は教育費に多額の出費を余儀なくされている。望む者には違いを認めるかたちで共に社会を形成していく必要があるだろう。

 今述べたようなことは、やろうという自覚があれば実現がそれ程難しいという訳ではないと思う。住民としての権利が少しずつでも認められていけば、国籍はその分意味を失っていく。社会を構成する住民の国籍が、国境を越えるときのパスポートや外交的な保護を求めるときだけ重要になるような、そんな社会へ少しでも近づけていくべきではないだろうか。

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1996年11月祭研究発表 「国籍って何だろう」のページへ