飲み会ワークショップ報告
福田健治
同じ日に行われた忘年会の2次会で、突発的にやってしまった「いいとこ探し」の報告です。
1.内容
今年で4回目の「いいとこ探し」。やり方は至って簡単で、B4の紙の一番下に自分の名前を書いて隣の人に回して、回された紙にその人のいいとこを上に書いて折り曲げて・・・と最後まで回せば、紙いっぱいに自分のいいところが書かれて戻ってくるという寸法。簡単ですのでみなさんも一度お試しください。
2.感想
私自身は4回目なので、いい加減いいだろうということで、1回生の感想を掲載します。次ページ(にあるはず)の深川くんの感想もご覧ください。
いいとこさがしをした夜,私が感じたことは二つです.ひとつは,コメントを受け取って感じたこと.やっぱり皆が自分に書いてくれたコメントは嬉しかったです.でもその一方で私が本当は皆が書いてくれているような私ではなかったら・・と不安にもなりました.
そしてもうひとつ,コメントを書いているときに感じたこと.皆のいいとこを言葉にうまく表現できない自分にものすごくもどかしさを感じました.言葉にうまくできないのは人のことをきちんと見ていないのではないかと不安になりました.
それから一ヶ月.いいとこさがしのことは何となく頭の片隅にあって気がつくと色々と考えていたみたいです.そして今思うのは,あたりまえですが「いいとこさがし」で表せるものが全てじゃないっていうこと.あんなふうにあらためて周りの人のいいとこを探してみる時間っていうのも必要だけど,そこに表しきれないもののことを忘れてはダメだということ.すぐにひとつのことしか見えなくなるのは私の悪い癖みたいです.
いいとこさがしも一年に一回ぐらいは悪くないかなぁ・・
これが一ヶ月後のわたしの感想です.
(角田望)
(1)書かれていたこと
あまりにもよく書かれていたので、感動した。自分で思っている自分の像と、他の人から見ている私の像は結構違うような気がした。でも、そのよく見られている自分は、今の自分にプレッシャーを与えるものでもある。でも、そのプレッシャーを背負わずに、少しでもいい自分になりたいと思った。
(2)書いたこと
いざ、他の人のいいところを書けといわれて困った。困るというのは他の人のいいところが分かっていなかったからでもある。自分は他の人のいいところに気付かずに、いやなところばかり気付いていたようだった。これからはもっと人のいいところをちゃんと見ようと思った。
(原田勇輝)
3.最後に
酔っぱらっていたから書けなかったとか、飲み会中にやるもんじゃないとか、いろいろと顰蹙を買った今回のいいとこ探しでしたが、例会後にやるのは無理な情勢でしたのでお許しください。
私自身は、回数を重ねるごとにつまらなくなっていて、それは下級生に書いてもらうことが増えているせいなのか、やっぱり先輩ぶっているのかしらとかいろいろと考えてしまいます。やっぱり同級生や上回生に書いてもらう方が意外なものがくるものです。
普段、お互いにいいところを指摘するのは何となく照れくさいものですが、今年の1回生はあんまりそうでもなさそうで、このワークの効果という意味ではちょっとつまらないかな。でも日常的にお互いを肯定的にとらえられるのはうらやましいです。うーん、なんか個人的な感想になっちゃった。まぁ飲み会の一部だったし、いいよね。
(ふくだけんじ)
深川博志
昨年末にやったワークショップについて、いろいろなことを考えてしまいました。以下に書き連ねたことは、忘年会の続きで酒を飲み、しかも深夜で眠かった(その日に専門の試験があったため、疲れていたという個人的事情もある)ときに考えたことを多少整理したものです。締め切り前に慌てて書いたので、言い足りないことがいっぱいあります。暇な人は議論を吹っかけてみてください(こんな言い訳をする奴が編集者になるとは…)。
去年は嬉しかったのに
去年やったときは、単純に嬉しく思いました。ちゃんと私のことを見てくれている人がなかにはいるんだと知って、驚き、感動したものです。しかし今年はそれほど嬉しいとは思いませんでした。
私が嬉しくなかったのは、去年よりも「人が見えてしまった」からなのでしょう。相手が何を考えているのか、私のことをどう思っているのか、普段から汲み取ろうとしていた(去年よりも、ね)ので、何を書いてくるかある程度予想し、そしてその予想があたってしまったというわけです。
逆に、今回新しく書く人に対しては、わりと満足のいけることを書けました。あの人にはこういういいところがあるということを普段から思っていて、しかもいつもは恥ずかしくて言えないことを書けたからです。
表現すること、特に文字に書いてしまうことへのためらい
一番難しいのが、ある程度親しくて、普段から私のことを見ているし、こちらも相手を見ている人。こういうことを書いたら相手がどう思うか、ある程度まで分かってしまうと、何も書けなくなってしまいます。他の人が書くであろう、表面的なことを書いても私もつまらないし、相手もつまらないと思うでしょう。かといって、それよりも「深い」ことは、実は私の一方的な思いこみにすぎないことかもしれません。あるいは、書いた言葉を別の意味に解釈してしまうかもしれません。「深い」ことであればあるほど、そういう危険性は増すでしょう。
言葉にはさまざまな意味、あるいは意味とまではいかなくてもさまざまなニュアンスがあります。語られる文脈によっても違ってきます。私がどれほど気をつけても(というほど気をつけたことはありませんが)、私の意図したこととは別の意味にとられるかもしれません。そう思うと、何も書けなくなってしまいます。しかし「書かない」ということ自体が、1つの意味をもってしまいます。「それは許されているのですよ」とファシリテーターが何度繰り返そうとも、相手が何も思わないわけではないでしょう。
「いいとこ探し」が悪いとは言いません。恥ずかしさのあまり普段感謝できない相手に感謝することは、とてもいいことです。うだうだ考えずにやればいいのでしょうけどね。
でも「言葉にはさまざまなニュアンスがある」と言っときながら、締め切り前に慌ててこんな駄文を書いて、あまり推敲せずに原稿を出してしまえるということは、大して気にしていないということの傍証なのでしょう。