担当:田岡直博
1.参加者
参加者は8名程度。うち新入生が1人。さらにOBの岡田さんが飛び入り参加してくださった。
2.ワークの概要
- 資料@を配布し、目を通してもらう
- 各自がそれを見て何を感じたか、特にそのチラシのいいところ・悪いところはどこだと思うかについて発言してもらう
- 自由にディスカッション
- 折りを見て資料Aを配布
- さらにディスカッション
- 最後に各自の感想を言ってもらって終わり。
今回のワークではかなり自由度を高く設定した。その場の雰囲気・流れで参加者の興味関心や問題意識に応じて進行していくつもりであり、どんな方向に議論が進んでもある程度フォローできるように資料やデータをあらかじめ先回りして収集しておいた。
3.議論の流れ
まずこのチラシのいいところ・悪いところを挙げてもらった。
「チラシの内容・構成」のいいところ/悪いところと、「この団体の援助のあり方」のいいところ/悪いところ、の2つが混同されてしまった。もともとよく分からない質問だし、他に適当な質問や、参加者の意見を引き出す方法があればそちらを採用すべきだろう。
「いいところ」:
- 具体的な数字が上がっていて説得力がある
- 子供の写真を使っていて感情に訴えかける
- 簡潔にまとまっている
- 書き方が丁寧でよい
「悪いところ」:
- 団体とユニセフ募金とのつながりが明確でない。連絡先は筆記すべき。
- お米と粉ミルクが本当に必要なのか?
- 同情を誘うような手法はどうか
また、何も感じないという人もいた。
遠い過去の記憶をひも解けばだいたい以上のようなものだったのではないかと思われる。しかしぼくの印象に残ったものだけが多分に主観的にピックアップされていることは間違いないであろう。この際きちんと記録をとるべきであるということを肝に銘じておこう。
対立軸が見出せず議論があまり発展する気配を見せないので、少々早いが用意してあった資料Aを投入した。多岐にわたる議論がなされたが、中でも印象に残った3つ論点をとくに取り上げてそれを巡ってどのような議論がなされたか、紹介しておく。
- 粉ミルクの問題点…粉ミルクが汚い水や十分消毒されていない哺乳瓶を使うことによって、下痢・脱水症状で死亡するケースがあるという事実を指摘。そもそも衛生観念がないのでは。ORSの紹介。乳児の死亡原因等のデータによる裏づけ。粉ミルクを巡るWHOと企業の動き。母乳を推進するWHO・UNICEFとそれに対するエイズの母子感染の危険性。
- 援助のあり方を巡って…とにかくお金をたくさん集めて、後はそれをいかに有効に利用するかというやり方。ある援助関係者の「鼻持ちならないプロフェッショナリズム」。緊急援助の方がお金が集まりやすい。感情に訴えてお金を集めることの是非。
- 免罪符…やっぱり免罪符は欲しい。募金は1つの免罪符?わたしはあの時に募金したから…。80年代に一種のブームになったけど、もうみんな忘れちゃってるんじゃないか。
最後に「1日4万人が餓死している」という記述の間違いを一応指摘しておく。(「世界子供白書'97」によれば世界の5歳未満児死亡数の総計は確かに1日約4万人であるが、それらすべてが餓死しているわけではない。もちろん「子ども」の定義次第ではその数字が絶対に「間違い」であるとまでは断定できないかもしれない)参加者全員が一言ずつ感想を言って終わり。
4.感想
まずファシリテーターとしての感想。まずワークショップは非常に論点が多く、その場の雰囲気にしたがって自由に(≒適当に)進行すれば面白くなるのではという期待を持っていたが、実際は期待していたほど議論が白熱しなかった。ファシリテーターとしてうまく意見を引き出し議論を進めていくための手法、雰囲気作りが不充分であることは重々承知している。さらにファシリテーターの関与の度合いが強すぎると、(特に知識の絶対量にかなりの差がある場合)思想誘導的になってしまうことの是非についても考えさせられた。最初に述べたように今回のワークを1つの実験的な試みと捉え、今後の課題としたい。
次に議論に参加した個人としての意見。援助のあり方云々の議論に関して言えば、感情に訴えかけて「より多くのお金を集めよう」とする態度に、感情的に相当の反発を感じる。かといってやはりお金は必要であり、それを有効に利用するというのであれば客観的・理論的には責めようがないであろう。それに対する批判・異なる視点として市民に対する教育的視点とか、お金集め自体が自己目的化してしまうことの危険性といったものも考えられるが、ぼくが強調したいのはそちらではない。非常に主観的な話になるが、たとえば企業がポンとくれた寄付金100万円と、NGOが会費として集めた100万円の重みには天と地ほどの差を感じる。これに関してはさほど異論のないのではないか。つまり結果として途上国の人のためになりさえすれば、援助する側の人間の動機・心理的な部分は問われないのかという問題を言いたいのである。それに類似した例としてフェアトレード製品であるバランゴンバナナの「ネグロス産」に対し「無農薬」の側面を強調することや、環境ブームに乗っかって排出ガス規制を売り物にしている企業(利潤追求とイメージアップを追求する結果として環境保護に役立つ)などが挙げられると思う。この段落の最初にも述べた通り、上記のような例に対し心理的に抵抗を感じながらもそれも1つのやり方として認めていこうというのがぼくの現在のスタンスである。