深川博志
インドネシアの歴史
インドネシアの現代史は2つに分かれる。スカルノ時代とスハルト時代である。比較して言えば、前者は対外政治重視、後者は経済発展重視である。
1949年の独立まで
ヒンドゥー系、仏教系の国々の興亡の後、15世紀後半にイスラム王国が成立 1602 総オランダ特許東インド会社の成立 1928.10.28 第2回インドネシア青年会議で、青年の誓いを採択。「祖国」「民族」「言語」は一つ=インドネシア 1945.8.17 スカルノがインドネシアの成立を宣言。
スカルノ時代
1949.12.27 インドネシア連邦共和国形成 1961.12 イリアンジャヤ「解放」闘争 オランダはインドネシア独立後も、資源が豊かなイリアンジャヤを手放そうとしなかった。結局、住民の「自由選択行為」によってインドネシアへの帰属が決まった。しかしこれは形ばかりのもので、アメリカ、インドネシア、オランダのトップが決めた(現地住民の意思を無視した)という批判がある。
1963.9 スカルノ、マレーシア連邦結成に反発。マレーシアを敵視する政策をとる。
スハルト時代
1965.9.30 9月30日事件発生 ☆実際に起きたこと
陸軍首脳6人が、9月30日深夜に拉致され殺された。
これをインドネシア共産党によるクーデターだとスハルト側は断定、インドネシア共産党員を大量に逮捕した。☆当時の状況
インドネシア共産党とインドネシア国軍が、互いに非難しあい、一触即発の事態にあった。なお、国軍内にも共産党員はいた。
☆結局どうなったか
これがきっかけで、最高権力者がスカルノからスハルトに移った。
1966.9 国連に復帰 1967.8 ASEAN結成 1967.10 中国の在インドネシア大使館が閉鎖される 1974.1 田中角栄がインドネシア訪問。大規模な反日暴動発生。 1976.7 東ティモールの併合を宣言 ☆東ティモール問題とは
もともとインドネシアはオランダの植民地だったが、ティモール島の東半分はポルトガルの植民地だった。そのためもあって宗教や文化の違いがあるため、東ティモール住民の中には独立を求める声があったし、今なおある。にもかかわらずインドネシアは武力で併合した。インドネシア軍・政府による人権侵害が頻発している。飢餓や武力衝突で東ティモール住民の1/3が死亡したともいわれる。
1974.4 ポルトガルの独裁政権が無血クーデターで崩壊、東ティモールで独立運動が本格化 1975.8 東ティモール内戦(東ティモール独立革命戦線が全土掌握) 1975.12 インドネシア軍全面侵攻、国連総会および安保理が「インドネシア軍即時撤退」要請決議を採択(国連は今なお併合を認めていない) 1991.11 サンタクルス事件発生 東ティモールの若者の葬儀が、独立を求めるデモに発展。国軍によるデモ隊への発砲と軍病院での負傷者殺害などで約200名が死亡。犠牲者の遺体は未だに返還されてない。
スハルト退陣へ
1997.5 総選挙(といっても、選挙されるのは全議席の8割) 1997.7 タイ通貨危機をきっかけに、ルピア急落 1997.10.31 IMFと政府、経済構造改革策で合意 1998.1.15 経済構造改革策で政府とIMFが再合意 1998.3.10 大統領選挙(国民協議会が選ぶ間接選挙)でスハルト7選が無投票で決まる 1998.4.8 経済構造改革策で最終合意 1998.5.4 政府が燃料など公共料金の大幅値上げを発表 1998.5.6 メダンで暴動、治安部隊の発砲や焼き討ちなど死者発生(他地区も含めて一連の暴動の死者は1188人、と国家人権委員会が発表) 1998.5.12 ジャカルタのトリサクティ大学で学生7人が死亡。
ウィラント国防相兼国軍司令官と対立する、プラボウォ陸軍戦略予備軍司令官(スハルトの娘婿)が実弾を使い、混乱させるよう命じていたらしい。ウィラントは正式に謝罪。現場の兵士は軍事法廷で裁かれた。
1998.5.21 スハルト辞任、直ちにハビビ副大統領が大統領就任。ファミリービジネスの見直し。縁故議員への辞職要求。
そして、これからどうなるのか?
人権、特に政治的権利は擁護されるようになるか?
- ゴルカルは分裂し、3政党以外も合法化された。
- 「国家転覆罪」規定の見直し
- 国連人権規約の批准(96年末現在、A,B規約をはじめ、難民条約、拷問禁止条約、死刑廃止条約など未署名)
- 政治囚釈放(当初は9月30日事件、東ティモール関係は除かれた)
東チモールは?
ハビビ大統領は、住民投票を明確に拒絶した。スハルト辞任を求める運動と連動して、東ティモールでは独立を求める学生デモが本稿執筆時点で、連日行われているらしい。