発行部数:1010部
<アンナ・ポリトコフスカヤ著「第二次チェチェン戦争」より>
記事について:
チェチェンはロシア政府によって封鎖されており、戦火のもとに生き る人々の姿を見ることはむずかしい。そんな中で、ロシアのジャーナリスト、ア ンナ・ポリトコフスカヤ*注1は、稀有な例外だ。彼女は危険をおかしてチェ
チェンの人々に分け入ってこの惨事を取材している。今回は、最近の著書「第 二次チェチェン戦争」*注2の一部を掲載。
2001年9月17日、チェチェンの首都グローズヌイは封鎖され、わたし も市内で動きがとれなくなった。検問所を守っていたロシア兵たちは、奇妙な 命令に驚いている。「軍人も警察官も誰一人通してはいけない」。別の治安機 関の将校たちも、足止めを食っている。チェチェンの特徴だ。北コーカサス合 同軍に入っていながら、さまざまな治安機関は決してお互いの言うことを聞こ うともしない。こんなことがいったいなんで必要なのだろうか?誰も、封鎖を している兵士たちにそれを尋ねようとしない。第一、兵士たちは何も知らない。
グローズヌイの中心にある灰色の柵の中、親ロシアのチェチェン政府庁舎で は、スタニスラフ・イリヤソフ首相が、執務室の中を行きつ戻りつ歩き回って いた。政府の執務室はどれも空っぽ—役人の8割は検問のため庁舎までたどり着 けず、職場に現れなかった。イリヤソフはあちこちに電話を掛けまくり、誰か 軍の上の方を口汚くののしっていた。かたわらには若い中将がいる。中将は分 かっているという風にうなずいている。あたかも、彼らは「ロシア軍の無法を やめさせなければ、決して平和に到達できない」という考えを共にしているか のようだ。
端から見ると、これはとても奇妙な光景だ。どうして中将、首相というよう な重要人物が、自分たちの軍の前に無力なのだろうか?人気のなくなった通り を、このグローズヌイ管区の主人たちである、怒り狂った装甲車が、か けずり回っている。イリヤソフは中将に残ってくれと頼む。中将は「大統領へ の報告は明朝の予定です」と答え、「もう十分です」と口にする。中将は、 「軍の犯罪行為の事実を調べて、大統領に報告せよ」という、前代未聞の任務 を負っていた。
首相の執務室の窓のすぐ外を、ヘリコプターは素早く飛び立った。グロズヌ イ中の検問所に止められていた人々から、このヘリコプターが見えた———し かしほんの数分後、ヘリコプターは市の真ん中にまっさかさまに墜落した。 「スティンガー」で撃ち落とされたのだ。死んでしまったのは、アナトーリー ・ポズドニャコフ中将と、参謀本部の将軍、6人の大佐だった。もちろん操縦 士も。「テロ取り締まり作戦」の区域での軍の犯罪行為についての調査委員会 のあらゆる資料とともに。
夕方には、すべての通信社が報じた。「ロシア全軍にとっての大きな悲劇」 「外国製のミサイルをもった武装勢力の1人が、廃墟の中から、ミヌートカ広場 に隣接する地区に飛び出してきた」と。わたし自身、その場にいた。
だいたい広場なんてそこにはなく、砲弾や爆弾でほじくり返された地面の一 角にすぎない。廃墟、検問所、また廃墟、また検問所、それだけだ・・・ミヌー トカに立っていれば片手を動かすこともためらわれた。軍の許可なしにカメラ をとりだしたなら、予告なしに機銃掃射を受けただろう。それほど監視されて いた。ゲリラが踊り出てくることなんかできない。
ヘリには護衛もついておらず、まさに事態を平和に向かわせようとした、あ の軍人が死んでしまった。疑いたくなるディテールが多すぎる。チェチェンの 問題は、武装勢力の装備や巧みさでなく、味方による裏切りにこそある。戦争
の継続を望み、そのためなら何でもする用意のある者たちの。たとえば、ミサ イルで、将軍たちを撃つのに必要な条件を用意した、この日のグローズヌイの 全面的な封鎖がそれだ。余計な目撃者のない撃墜。
コムソモールスコエ村で知り合った、マゴメド・ドゥドゥシェフの家は大家 族で、妻と、子どもが6人、その祖母がいた。ここの生活はちっぽけな日干し 煉瓦の小屋ですべて行われていた———これは 夏に馬糞や粘土をこねて作っ た家畜小屋だった。爆弾の直撃で破壊された家が、すぐそばにあった。
話をしながら、マゴメドは咳で息をつまらせる。これはチェチェンではやっ ている結核だ。子どもたちは、父親と同じようにやせこけて、猛烈に汚らしかっ た。廃墟では水にも、暖房にも不自由したし、電線は自殺にさそっているよう にたれ下がっていた。生活とは言えないものだった。
「どん底」ではいかなる良い意欲も育つはずがない。今日のチェチェンの子 どもたちにとっての世界とは、絶え間ない恐怖だ。不慮の死をとげた家族や親 類縁者の葬儀に列席すること、それが彼らが成長する間、ずっとやってきた主 な行事だったのだ。もちろん毎日大人たちが交わしている会話だって、誰が生 きている、誰が死体で発見された、「掃討作戦」がどうだった、いくらで誰を 連邦軍から買い戻したということばかり。
マゴメドの長男のイサが関心があったのは、プーチンがなぜ、アメリカのテ ロの悲劇の犠牲者には黙とうを捧げようと言ったのに、罪もなく殺されていく チェチェン人について何も言わないのか?どうして、原子力潜水艦の「クルス ク」の乗組員が死んでいくといって、国全体が震撼させられたのに、コムソモー リスコエ村から逃げ出した人々が畑で何日間も銃殺されつづけたのに、あなた 方は黙っていたのか?、ということだった。 「僕は銃殺されかかったんだ、わかるだろ!どうしてそんなことになるのかを 知りたいんだ!」
わたしも知りたい。ただ提案できることは、答えのないたくさんの質問のリ ストをつづけていくだけ。大人たちは、時間をかければ恨みをふくらませな いですむかもしれないが、敵意と、果てしない涙を見て育ったチェチェンの青 少年は、堪え忍ぼうとはしないだろう。この若い世代は、これまででもっとも 難しい世代となるだろう。
第二次チェチェン戦争の3年目にして、チェチェン民族が体験している崩壊 は隠すべくもない。そしてすべては、いくつかの疑問に集約される。この崩壊 をどうやってくい止めるのか?子どもたちに今日より明日が良くなると信じさ せるにはどうしたらいいのだろうか? 自分自身でもそれを信じるには?
村の通りをゆけば、静かに人々が集まってくる。わたしはコムソモールスコ エにあった、透き通るほどの貧しさを見たことがない。話をすれば、どの家も 子どもはぜんそくか、男手が殺されたか、精神障害者がいた。ここにいるのは、 どこにも逃げられない人ばかりだ。
「ゲラーエフ*注3はみんなを助けてくれてるの?自分の村を支えてるの?」
みんな笑う。そして「もう十分助けてくれてるわ。ごらんの通りよ」でも笑い
が収まると、「呪われるがいいわ」と女たちが付け加えた。この村で生まれた
野戦司令官ゲラーエフは、自分の民族を不幸のなかにおきざりにした。彼はす
でに国民とともにはいないが、国民もゲラーエフから離れている。
グローズヌイの老人ホームの片隅に、小さい無口な女の子が住んでいる。年 齢はわからない。用心深い眼で上目遣いにこちらを見る。絶えず鉄製のベッド の下に隠れようとする。部屋の中は閑散としている。縞模様のマットが載った 鉄製のベッド以外何もない。この子は、背丈で、かろうじて子どもとわかる。
年寄りたちはこの子をアンジェラとかアンジェルカとか呼んでいて、4才だ という。本当のことは誰も知らない。この子に起こったことは、第二次チェチェ ン戦争の謎の一つだ。カタヤマ(片山潜にちなむ地名)にある老人ホームに連 れてこられたのは、2001年の早春だった。ライーサという、あまり若くな い女性とずっと一緒に放浪していた。
自分はアンジェラだと名乗ったきり、口を利かなくなった。汚れていて、頭 皮もはれ物とシラミだらけ。飢え、衰弱し、服はやぶけていた。看護婦のジナ イーダは、この子の服を燃やす前にすべてのポケットをひっくり返したが、何 の証明書もでてこなかった。ライーサは、アンジェラの苗字はザイツェヴァだ と言った。つまり、ロシア人だと。確かに、女の子をすっかり洗ってやったら、 何層にもなった路上の汚れの下から、まことにスラヴ風の肌が現れ、髪は亜麻 色だった。
アンジェラはライーサから一歩も離れなかった。まさに、二人は大家族だっ たのに、今では頼れるのは二人だけというふうだった。しかし、話が合わない ことが出てきた。ライーサが言うには、アンジェラはライーサの夫の二人目の 妻の子どもだという。夫は死に、まもなく二人目の妻、つまりアンジェラの母 親もこの世を去った。それで今ではライーサがアンジェラの継母だと言うのだ。
妻が二人いるとなると、アンジェラの父親はチェチェン人か?ライーサは答 えられなかった。彼女の言うことも、一つの説にすぎない。つまり、21世紀 のヨーロッパに、どこからともなく赤ん坊がやってきて、その子を誰一人知ら ない。わたしたちが許してしまったこの戦争は、この子から名前、苗字、誕生 年や生まれた場所まで奪った。
1ヶ月が過ぎた。アンジェラは少しふっくらして、老人ホームの廊下を走っ たりするようになり、孤独な年寄りたちを喜ばせた。しかし、結局何一つ思い 出さなかった。銃声が聞こえたり、給食場で料理人たちが鉄のひしゃくを落と したりすると、まるで足を払われたかのように辺り構わず倒れてしっかり両手 で頭を抱えた。身についた動作だ。
ジャーナリストとは幸せな仕事だ。いろいろな人たちに出会う。この子を手 助けしたい、という人があらわれた。戦争でグローズヌイから北オセチアに脱 出し、今は戻りたくないというチェチェンの家族が、アンジェラを養女にして くれたのだ。アンジェラの新しい写真がある。あの頃とまったく違う、明るい 眼、あけっぴろげの微笑みをこちらに向けている。グローズヌイの浮浪児の面 影はまったくない。
哀しみのあとの幸せな様子を見るのは気持ちがいい。会いたいとは思うが、 こらえる。彼女にも、その父や母にも何も思い出させたくない。すべてを忘れ るべきだ。それは幸せの土台だ。
(訳稿提供:三浦みどり)
*注1ポリトコフスカヤについて: http://groups.msn.com/ChechenWatch/page10.msnw?action=ShowPhoto&PhotoID=27
*注2 「第二次チェチェン戦争」の原文: http://voina4.by.ru/ Вторая чеченская Анна Политковская Редактор Игорь Захаров ISBN 5-8159-0265-9 Издатель Захаров подписано в печать 04、09、2002
*注3ゲラーエフはチェチェン独立派の野戦司令官。99年の開戦 後しばらくしてからグルジアに越境し、2002年までパンキシ渓谷を宿営地 にしていた。現在は再びチェチェンに戻っている。このポリトコフスカヤはゲ ラーエフの不在の時期にコムソモリスコエを訪れたことになる。
(大富亮/チェチェンニュース)
ポリトコフスカヤの抄訳はいかがでしたか。
もうすぐ2003年が終わります。今年はチェチェン人ジャーナリスト、ザーラ・イマーエワの来日と並行して、難民支援の試みや、チェチェン文化を知る集いも続きました。空に向かって訴えるように発行した拙いチェチェンニュースの読者は200人ほど増え、それ以上に、さまざまなイベントにボランティアで関わった人々がいました。
チェチェンのことを知る人は増えたものの、それは一つの大きな運動ではなく、おおぜいの人が、「他にも同じことを考えている人がいそうだけれど」とつぶやきながら、孤独に、自らに課したボランティアをやりとげています。そんな人々が、その思い、考え、力を共有できる場を作ることが必要だと思うようになりました。 また、インターネットでの情報提供とは別に、書籍などの形でチェチェン問題を知らせていくことが大切だと思っています。
チェチェンにとって少しでもよい年になることを祈りつつ。
そして、僕らが紡ぎだす言葉が、着実に届く来年であるように。