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10月25日から、チェチェン人ジャーナリスト、ザーラ・イマーエ ワの来日講演ツアーが始まります。戦争を目撃した子どもたちの言葉を丹念に 記録したビデオ作品「子どもの物語にあらず」を携え、彼女はチェチェン戦 争のどんな情景を語ってくれるのでしょうか。今回は、映像作家の岡田一男さ んに、ザーラさんについての解説をお願いしました。主催はアムネスティイン ターナショナル日本。開催日程はこのメールの末尾をご覧下さい。(編集部)
ザーラは1961年9月、チェチェン・イングーシソビエト社会主義自治共和国のソ ビエツキー地区、ソビエツコエ村で生まれた。この村は、旧来の地名をシャト イと言い、チェチェン南部山岳地帯に鋭いV字谷を作って流れるアルグン川の谷 間の山村である。彼女の両親は、いずれも1944年にカザフスタンに強制移住さ せられたチェチェン人で、悲惨な境遇の中で両親を失った孤児たちだった。 1957年にチェチェン人の復権が認められ、59年にシャトイへ戻って間もなく、 ザーラの父母は結ばれ、彼女が生まれたのだ。ザーラは、子ども時代を振り返っ て、「私には、ものを尋ねられる、おじいさん、おばあさんが誰もいなかった。 両親が二人とも孤児だったから。」と語っている。
村の中学校を卒業した彼女は、モスクワの全ソ国立映画大学(VGIK)劇映画監督 科に入学し、映画監督となることを夢見た。しかし彼女は保守的な親戚一同の 反対に遭遇し、説得に2年がかかった。ようやくモスクワに出た山国の少女にとっ て、ほとんどの入学者が映画関係者の子弟で占められた80年代初めのVGIKは、 あまりにも狭き門であった。
VGIK入学は果たせなかった彼女だが、狭き門ということではそれ以上の、モス クワ大学(MGU)ジャーナリスト学科への入学した。そして学生アルバイトに撮影 所で助手を務めることで映画制作実務を身につけた。ジャーナリズムと映画制 作の習得だけが彼女のモスクワ時代ではなかった。彼女は学生結婚し、一人息 子のティムールを授かった。また、後のチェチェン社会を率いる重要人物たち と出会った。その中には、ソ連空軍の高級将校ジョハル・ドゥダーエフ、MGU法 学部の先輩、ホジ=アフメード・ヌハーエフらがいた。彼らは当時既に地下組 織「チェチェン独立委員会」をつくっていた。
ザーラはMGU卒業に10年以上かかった。子育て休学の上、卒論テーマ、「チェチェ ン人強制移住とジャーナリズム」が、大学当局を当惑させた。彼女が正式卒業 を果たしたとき、ソ連は消滅していた。民主化の高揚の中でチェチェンの首都 グローズヌイに戻った彼女は、小さな民放テレビ局(NTV)を立ち上げる。しか し、民主化から独立に突き進む激流が、NTVを洗い流した。エリツィンのロシア 連邦は独立を阻もうとチェチェンに介入する。
大統領となったドゥダーエフは、ザーラを外務省報道官に任命する。独立派が 首都を追われると、国外に出てジャーナリスト活動を続けた。97年、マスハー ドフ政権が誕生し、こんどは文化省映画担当次官に任命される。しかし灰燼に 帰したチェチェンの「映画」は限りなくゼロに近かった。何も進展のない中、 失望した彼女は辞任し、モスクワでチェチェン音楽家たちのCD出版のプロデュー サーの傍ら、テレビ番組制作の企画を進めて再起を図る。99年夏、ようやく通っ た企画、「チェチェンの石塔建築」を巡る旅番組の撮影準備を故郷のシャトイ 村で進めていた彼女に届いたのは、バサーエフ派のダゲスタン侵攻と、引き続 くロシア軍のチェチェン侵攻のニュースだった。
アルグン峡谷にあるシャトイ村には幹線道路は1本しかない。谷沿いに下れば 平原部に出てグローズヌイに至り、谷を遡れば上流は、大コーカサス山脈の裏 側、グルジア領まで続いている。彼女は親戚に託して息子のティムールをイン グーシ共和国に送り、老母の世話をしながら村で情勢を伺い、晩秋に、避難民 たちを率いてグルジアに逃れた。雪の峠越えの道は厳しく、健康を害した彼女 は長く後遺症に悩まされることとなった。グルジアでジャーナリスト活動を再 開するつもりの彼女であったが、避難民を送りとどけたアゼルバイジャンの首 都バクーで、、ヤンダルビーエフ政権で第一副首相を務めた後、総合商社「コー カサス共通市場(CCM)」を開いていたMGUの先輩、ホジ=アフメード・ヌハーエ フに勧められ、CCMの広報担当となった。
ロシア軍はついに2000年前半、グローズヌイを陥落させ、また山麓部のコムソ モリスコエ村を包囲して、ここでハムザト・ゲラーエフ司令官の率いるチェチェ ン軍部隊を壊滅させる。この包囲戦の中で、ザーラの夫も死んだ。イングーシ に逃れた息子ティムールを引き取りにザーラは行けなかった。独立派政府官僚 の経歴は、拘留される危険をはらんでいた。彼女の親友がモスクワ経由で彼を バクーへ送ろうとした。
50代のチェチェン女性と13才のティムールは、モスクワに着くとチェチェン人 というそれだけの理由で、警察に拘禁された。彼らの窮状を救ったのは、ロシ ア人のパイロットだという。彼は強引に二人を引き取るとイングーシ行きの便 で出発地に送り返した。ティムールが母親の元にたどり着いたのは別れてから 半年後だった。シャトイに残っていた老母もバクーに来た。ザーラは自分たち を珍しい幸運という。周りの人びとは、はるかに悲惨な離散経験をしているか ら。
2000年夏、チェチェンからの難民流出は続いていた。CCMで働くザーラは、難民 の記録を残すことを思い立ち、被写体となってインタビューに応じてくれる子 どもたちに、せめてものお礼に渡すピロシキ(ロシア風の揚げパン)を持って は、激務の合間に難民の一時収容施設などを回っては、記録を残していった。 表現に一体感を持たせようとインタビューは必ず白い背景の前で行った。2000 年秋、アゼルバイジャンの小さな民放テレビ局の技術協力があって「子どもの 物語にあらず」は、完成した。
当初、彼女は意気込みと結果のギャップに落ち込んだようだが、ロシアの人権 団体が先ず、この作品に注目した。2001年3月に彼女をモスクワに招いてアンド レイ・サハロフ記念博物館・社会センターが発表会を開催した。4月、モスクワ NTVの当時のメインキャスター、エフゲニー・キセリョフは、夜の最終版ニュー スで発表会の模様を紹介し、作品のかなりの部分を放映した。だが2週間後NTV のウェブサイトから「子どもの物語にあらず」放送の事実が抹殺された。しか し、ロシアの人権団体は、「子どもの物語にあらず」のコピー配布を続け、少 なからぬ教師たちが、学校でこのビデオを見せている。またチェチェン戦争集 結を求めるイベント会場でしばしば、この作品が上映されている。
最新情報はこちらでご確認ください:
http://www.amnesty.or.jp/campaign/Speakingtour_schedule.htm
問い合わせ先: info@amnesty.or.jp
10月25日 秋田 アムネスティ秋田
会場:ジョイナス(県民会館となり/秋田駅より徒歩10分)
午後1時半開演 参加費:400円前後
10月27日 青森 アムネスティ八戸
会場:八戸聖ウルスラ学院高等学校視聴覚室
午後1時20分〜3時10分
10月29日 北海道 アムネスティ札幌ノルテ
会場:札幌市男女共同参画センター(札幌駅北口)
午後6時半開場
11月1日 神奈川 アムネスティ鎌倉/愛川(共催)
会場:フォーラム横浜交流ラウンジ(ランドマーク13F)
午後2時〜4時
11月3日 長野 アムネスティ信州伊那谷
会場:飯田勤労者福祉センター 2F 視聴覚室
(飯田市東栄町 飯田市消防署前)
午後2時〜4時半 参加費:1000円
11月6日 和歌山 アムネスティ田辺
会場:田辺市民総合センター2階会議室4
午後7時〜9時
11月9日 徳島 アムネスティ徳島
会場:ふれあい健康館視聴覚室(徳島市沖浜東2-16)
午後2時〜4時半
11月10日 岡山 アムネスティ岡山
会場:YMCA会館(岡山市中山下1-5-215)
午後6時半開演(6時受付開始)
11月12日 広島 アムネスティひろしま
11月14日 大分 アムネスティ日田
会場:筑後川交流センター「紫明庵」
(日田市亀山町、JR日田駅より徒歩20分)
午後7時開演(6時半受付開始)
会費 500円(交流会飲食代1000円)
11月16日 熊本 アムネスティ熊本
会場:熊本学園大学4号館(412号室)
〒862‐8680 熊本市大江2-5-1
13:30〜16:50
11月18日 鹿児島 アムネスティかごしま
会場:サンエールかごしま(鹿児島市荒田1-4-1)
午後6時半(6時受付開始)〜
11月20日 宮崎 アムネスティ宮崎
会場:宮崎市民プラザ4階大会議室(宮崎市役所隣のビル)
午後6時半開演(6時受付開始) 参加費:500円
11月23日 大阪 アムネスティ大阪事務所
会場:piaNPO6F会議室(地下鉄中央線「大阪港」駅より徒歩5分)
午後2時〜4時半 参加費:一般800円、学生500円
11月26日 石川 アムネスティ金沢
会場:石川県教育会館2F第一会議室 午後7時〜9時
11月29日 新潟 アムネスティ新潟
会場:新潟市総合福祉会館視聴覚室(新潟伊勢丹の裏手)
午後2時〜5時
12月3日 東京 アムネスティ東京事務所
Tel:03-3518-6777
E-mail:stoptorture@amnesty.or.jp (川上)
会場:ハーモニックホール(西新宿7-21-20 関交協ビル 新宿駅西口
より徒歩8分、青梅街道沿いの北陸銀行を右に入って3件目のビル)
午後6時半開場