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6月の休日、強い日差しの中を、川崎の自宅から自転車で多摩川を渡り、世田谷に住む東野さんを訪れた。東野さんは、チェチェンニュースの2年来の読者だ。お茶をいただきながらの四方山話で、第二次チェチェン戦争の原因に話が及んだ。
「第一次のチェチェン戦争(94-96年)は、チェチェンの独立を、ロシアが押しつぶそうとしたのが原因と言っていいと思いますが、今の第二次は複雑ですね」と私が話すと、東野さんは少し意外そうな顔をしてこう答えた
「簡単じゃありませんか?まず、96年に第一次チェチェン戦争が終わった時、ハサブユルト和平合意が結ばれた。その合意で、2001年にチェチェンの独立問題をもう一度話し合うことが決まっていましたね。その後何もなければ、チェチェンとの交渉のテーブルにつかなければならなかった。あんなひどい戦争の後ですから、国際世論もロシアの味方につくとは限らない」
「確かに、何らかの譲歩はせざるをえないでしょうね」と私。東野さんは続けた。「だから、01年の交渉の前に、ロシアは全部をひっくり返したかった。それで99年に戦争が始まったんでしょう」東野さんは長年貿易の仕事をした方で、よくこうして要領を得た説明をされる。
さて、そう考えると、チェチェン独立は、今でもロシア側にとって現実的な脅威ということになる。1991年の独立宣言以来、今もチェチェンは自国を独立国家と位置付けているが、承認した国はいまのところない。チェチェンの人口は推定70万人。国としては小さいが、ありえないほどではない。たとえば、漁業の国アイスランドは人口わずか27万人だし、中国とインドにはさまれた農業の国ブータンは63万人で、チェチェンに近い。
チェチェンは内陸国で、産品は石油と農畜産物だ。経済的自立の鍵は、産業の復興と育成、そして物流の道をつくることにある。コーカサスの物流は、きわめて不安定だ。たとえば、アゼルバイジャンのバクーから、ダゲスタンのマハチカラ、チェチェンのグロズヌイを経由して黒海に抜ける石油のパイプラインはいつも戦争の危険を抱えているし、グルジアの黒海沿岸のバツーミから積み出すパイプラインも、グルジア内外の政治的な事情があってうまく機能していない。
逆に考えると、これらを解決できれば、チェチェン独立はもとより、コーカサスの物流全体が活気づくことになる。カスピ海の地下資源だけでなく、カザフスタンに眠る大量の地下資源もまた、黒海に抜ける道を求めているのだから。91-96年にチェチェンの初代大統領だったジョハール・ドゥダーエフは、コーカサス諸国の経済協力の可能性を、まじめに考えていたふしがある。これにつ いては次号にて。<つづく>
(東野さんは仮名)(2003.06.12 大富亮/チェチェンニュース)
6月5日、チェチェン北部で国境を接している北オセチア共和国のモズドクで、ロシア軍の将校ら乗ったトラックが自爆攻撃を受けた。これにより少佐3人を含む18名が死亡、10人以上が負傷した。犯人の身元は不明。ロシア側の発表によればチェチェン人の女という。北オセチアはもともと親ロシア的な土地で、チェチェンを攻撃する空軍機などが出撃している。
6月6日、グロズヌイで、5階建てのビルが爆発によって破壊され、子ども9人を含む11人が死亡した。親ロシア行政府のクラブチェンコ検察長官は取材に対して、事件はガス漏れによるものとの見方を示した。一方、独立派のチェチェンプレス(チェチェン国営通信社)は、北オセチアでのロシア軍バス爆破事件に対する報復であり、ロシア軍内の「死の部隊」が行ったと指摘した。また同通信の報道では、6日、モスクワにおけるマスハードフ大統領の代理であるマイゴフ氏の意見として、モズドクで発生したような事件は今後も続く可能性があると語ると同時に、プーチン大統領はチェチェンでの「虐殺」をやめるべきだと訴えた。
RFE/RL NEWSLINE Vol. 7, No. 107, Part I, 9 June 2003
5月24日、チェチェンの南西戦区司令官ドック・ウマーロフからの報告によると、チェチェン独立派の防空部隊は、ロシア軍のSu-25地上攻撃機とMi-24ヘリコプターを撃墜した。いずれもロシア製対空ミサイル「イグラ−2」によるものだという。独立派の通信社カフカス・センターが報じた。これに対して、ロシア空軍報道官のドロビュシェフスキーは、「いくつかのメディアで、Su-25攻撃機とMi-24ヘリが撃墜されたと報道されているが、そのような事実はない」とし、すべての航空機は任務を果たして帰還していると語った。26日のイタル−タス通信による。
6月7日のヴォイス・オブ・アメリカによると、アルグンなどでの激しい戦闘により、20人が死亡、佐官級の指揮官も含まれていた。ロシア側公式筋によると、ゲリラ側14人が死亡、ロシア側はアウド・ユスポフ大佐をはじめ4人が死亡した。大佐はアルグン地域の上級司令官であった。
5月末、ロシア軍は、シャリ地区のアヴチュリー村の住民で、チェチェン議会議員のジーナ・サイドゥラーエヴァを誘拐した。現在のところ行方はわかっていない。過去にチェチェンで行政の立場にあった者が行方不明になるのは、これが初めてではない。2001年、シェルコフスキー地区選出のアインディ・イスラモフ議員も、ロシア兵に逮捕されて行方不明になっている。チェチェン共和国大統領報道部による。
6月9日のAP電は、チェチェンのザカーエフ副首相(44歳)の、ロシアへの引渡しに関する審理の模様を伝えた。同副首相は、昨年12月にロンドンに到着した際に、ロシア側の引渡し要求を受けた英国の官憲に拘束されたが、支援者で女優であるヴァネッサ・レッドグレイブが保釈金を支払い、保釈中だった。
ロシア側は、ザカーエフがオサマ・ビン・ラディンと関係を持ち、90年代に300人のロシア兵の殺害に関与していると主張している。ザカーエフ氏側はこれを全面的に否定。レッドグレイブ女史らは、ザカーエフが97年に民主的に選出されたマスハードフ政権の閣僚であり、和平交渉の当事者として行動していると主張している。エドワード・フィッツジェラルド弁護人は、ザカーエフ氏への容疑を「捏造されたもので、この審理自体が政治のために開かれており、正義が無視されている」と弁論し、徹底的に争う構えを見せた。
また、同弁護人は、ロシアに引き渡された場合に公正な裁きは期待できず、むしろ虐待や獄死が待っているとして、引渡しに反対する態度を明らかにしている。ザカーエフ氏は昨年10月30日にも、同様の容疑でデンマークで拘束されたが、ロシア側の提供した証拠が不十分だと判断したデンマーク政府に釈放された。
2003年6月6日、ラジオ・リバティーのプラハ本部での会見で、ルスラン・ハズブラートフ・元ロシア連邦最高会議議長は、次のように語った。
1990年の4月10日、ゴルバチョフ・ソヴェト連邦大統領は、ソ連邦内の自治共和国の地位を向上し、ソ連邦構成共和国と同等とする法律(*1)に署名した。ロシア共和国(ロシア・ソヴェト連邦社会主義共和国)内の自治共和国は、ダゲスタン共和国を除いて(*2)順次、主権宣言を行い、ロシア共和国はそれを承認した。
これにより、1991年12月のソ連邦崩壊より前に、各自治共和国は国名から「自治」という用語を削除しており、法的にはすでにロシアの一部ではなく、独立する権限を有していた。
各自治共和国と同様に、チェチェン・イングーシ自治共和国は、1990年の11月(*3)に主権宣言を行い、適切に(ソ連邦権限区分法の)権利を行使した。ハズブラートフ自身は、1992年3月(*4)の連邦条約を推進することで、ロシア共和国の崩壊を防ぐべく活動した。だが、チェチェン(およびタタールスタン)が連邦条約への調印を拒否している限り、ロシア憲法と国際法において、チェチェン共和国は独立した主権国家とみなされるべきだと結論した。
(*1 ソ連権限区分法。 *2 ダゲスタンの主権宣言は翌1991年5月13日にずれ込んだ。 *3 チェチェン・イングーシ共和国の主権宣言は1990年11月27日。1992年にチェチェン、イングーシは2つの共和国に分割され、イングーシはロシア連邦内にとどまった。*4 連邦条約は1992年3月31日に正式調印。ハズブラートフはチェチェン人で、当時はロシア共和国最高会議第一副議長。エリツィンの側近であり、連邦条約をめぐる政治の中枢にいた。訳注)
RFE/RL NEWSLINE Vol. 7, No. 106, Part I, 6 June 2003
(参考)チェチェン共和国国家主権についてのチェチェン共和国大統領令(1991年11月1日)
6月9日のAP電によると、親ロシア派の「チェチェンガス化会社」の副社長、アブドゥッラ・アルサヌカーエフ氏が、南西部のカタリユルト村の自宅で、殺害された。凶器は自動小銃など。妻子は無事だった。チェチェン内務省の発表による。犯行の動機は不明。