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鍋元です。4月中旬から、アゼルバイジャン共和国に、難民支援のため滞在しています。今日のバクーはいきなり冬に戻りました。ここにも「暑さ寒さも復活祭まで」という言葉があります。
支援先を検討するためにあちこちを見て回るのもひと息ついたので、こんどは普通の人とおしゃべりをしています。といっても、もちろんチェチェン問題です。知り合ったチェチェンの女性に、聞きたいことをぶつけてみました。難民たちが戦争をどう考えているか、一端がわかって興味深いです。
Q. 昨年12月の、チェチェン政府ビル爆破事件は誰がやったと思う?
「ロシアのFSBに決まっているでしょう。トラックに大量の爆弾を積んで、チェチェン人が歩けるとでも思う? 手ぶらで歩く女の私ですら、いたるところで止められ、指紋をとられ、写真をとられるのよ。大きなトラックに大量の爆弾を積んで政府ビルに近づけるのは、FSBやプーチン、それに、カディロフよ。あの日、カディロフがいなかったというのも、その証拠よ。こう思っているのは私だけじゃないわ」
Q. モスクワの劇場占拠事件も同じかしら?
「そりゃあそうよ。チェチェン人が大量の爆薬を持ってモスクワを歩けるはずないでしょう。チェチェン人は爆弾を飲み込んで運んだとでもいうの? FSBがバラーエフをうまくだまして、あの事件を起こさせたのよ。マスコミに伝えられた死者の数はとんでもない嘘っぱちだったこと、知ってる?」
Q. バサーエフについてどう思う?
「そりゃあ野戦司令官だから、チェチェン人にとっては英雄よ。でも、シャミールがいなければ2度目の戦争はおこらなかったと断言できるわ。<チェチェン政府ビルの爆破は俺がやった>と言っているけど、あれは単なる自己顕示よ」
私の関心事で調べたのはこの程度です。残念なことだけれど、ここの難民たちはそれぞれに派閥を作って反目している面もあります。その中で、どうやって子どもの教育について支援していこうか、難しい問題に直面しています。長い戦争に疲れきった人々に、誠実さを求めるのは酷な事かもしれません。本当に、ここの人たちの生活は大変です。
いま彼らのささやかな希望は、最近健康に不安のあるアリエフ大統領が死んだら、少しは事情がましになるのではないかと言うこと。戦争の初期にバクーに逃れた人によると、はじめはアゼルバイジャン政府も支援をしたし、国際ムスリム協会といったところから支援がきたので、まだよかったそうです。でも2001年の9月11日以降、「テロ撲滅」に賛同するロシアの指令で、支援が止まり、さらにモスクワ劇場占拠事件以降、まったく途絶えてしまったそうです。
私は、東京で去年の11月に開いたチェチェンのための集会で、「幸か不幸か9・11が起こって」なんて失言をしてしまいましたが、幸なんかひとつもありません。国連関係の支援も、中間の役人が搾取するのが一般的だそうです。
それではまた書きます。日本の皆さんによろしくお伝えください。
(2003.04.28 鍋元トミヨ/チェチェンの子どもを支援する会)
鍋元さんへのメールは: chechne@gray.plala.or.jp
4月25日の lenta.ru によると、元連邦保安局(FSB)大佐のアレクサンドル・リツビネンコ氏は、今月17日のセルゲイ・ユシェンコフ下院議員の暗殺の動機として、昨年10月のモスクワ劇場占拠事件にFSBが関与しているという証拠を、議員が手にしていたためだとする声明を発表した。
リツビネンコ氏はこの声明で、「4月はじめにロンドンでユシェンコフ議員と会合した際、FSBのエージェントであるハンパシャ・テリキバエフという人物についての情報を渡した。この人物はモスクワでの劇場占拠事件の際に、犯人グループと行動を共にしていたが、特殊部隊の突入直前に姿を消した」という。同氏によれば、テリキバエフは挑発工作のためにチェチェンの独立派に浸透し、2000年末の時点でマスハードフ大統領の報道部に籍を置いていた。
テリキバエフは現在、ロシアの特務機関に近い立場のマリク・サイドラーエフ氏(チェチェンのモスクワでの代表者の一人)の部下となっており、3月31日には欧州評議会議員総会(PACE)に出席した、ロシア議員のドミトリー・ロゴージンに同行していた可能性が高いという。
「私は、テルキバエフについての詳細なデータをユシェンコフに渡した。ユシェンコフはモスクワに戻って、それを確認するつもりでいた。ユシェンコフは、捜査への対策のために処理されたのだと、私は確信している」
リツビネンコ氏はこれまでも、1999年の連続アパート爆破事件について、FSBの関与を繰り返し指摘しており、「ユシェンコフに会ったのは昨年夏の、<自由ロシア>副党首のセルゲイ・ゴロヴレフの殺害直後のことで、ユシェンコフは明らかに自分が次の犠牲者になるのではないかと恐れていた」と、ブレーミヤ・ノーボスチ誌に話していた。
RFE/RL NEWSLINE Vol. 7, No. 80, Part I, 28 April 2003