2000年3月26日、エリザ・クンガーエワ(18歳)は、タンギ-シュ村の家族のもとから、ロシア軍のユーリー・ブダノフ大佐に誘拐された。彼女は尋問のためと称してブダノフ大佐のテントに送られ、絞殺された。軍医の診断によると、彼女は死亡直前に、複数の人物から強姦されていたという。ロシアの司法当局はこの事件を捜査し、同年3月30日、ブダノフ大佐は逮捕され、裁判にかけられた。同様の略奪、強姦事件はチェチェンでここ3年間続発しており、件数は数え切れない。
裁判の開始から2年を経て、この裁判は一つの終わりを迎えようとしている。ブダーノフ大佐は精神鑑定により、犯行時に心身喪失だったと認定された。その結果として悲惨な死をとげたエリザ・クンガーエワの死の責任は誰にもないことになった。両親はこの決定を前にして、屈辱感から出廷を拒否したという。ソビエトの時代が終わり、ロシアは民主国家として生まれ変わったといわれる。エリート然としたプーチン大統領は、次々と西側に外遊し、各国の首脳から歓迎を受け、チェチェン戦争という国内戦争を推進し、異論を述べるメディア、たとえばNTVやTV6を実力で弾圧している。
この不可思議な「民主国家」をささえる機関は何だろう。わたしたちチェチェンニュース編集室は、読者の情勢判断の材料として、次の2記事を提供したい。(編集室)
ノーヴァヤ・ガゼータ/2002年第41号 2002.6.10戦車隊長・ブダーノフ大佐は犯行時、心神喪失、よって責任能力なしという鑑定を出した精神科医の素性をノーヴァヤ・ガゼータ紙(週2回発行)の評論員アンナ・ポリトコフスカヤ女史が6月10日づけの同紙上で暴露した。
彼女の調査によれば、この精神科医タマラ・パブロブナ・ペチョルニコワ教授は、かつて1960年後半から70年代に国家保安委員会(KGB)によって盛んに行われた、異論派の人々に精神病のレッテルを貼り精神病院に送り込み、そこで向精神薬を大量投与するという弾圧システムの中で、多くの人々を「診察し」、耐え難い苦痛を与えた中心人物である。
ポリトコフスカヤ女史は、モスクワの人権擁護情報センター、「プリマ・ニュース」の編集長で、自分自身かつて精神病者のレッテルを貼られ、特別精神病院に収監された経験のあるアレクサンドル・ポドラビニェク氏(チェチェンニュース42号で野戦司令官シャミリ・バサーエフへのインタビューを紹介されている)の協力を得て、30年前からのペチョルニコワ教授の忌まわしい過去について幾つかの証言を集めた。
ペチョルニコワ教授について証言したのは、次の人々。現在フランスに在住のかつて地下出版人権擁護雑誌「現在起こっている事件の記録」の初代編集長だった異論派の詩人でジャーナリストのナタリヤ・ゴルバノフスカヤ女史は、KGBによって検挙されると、駆け出しの精神科医、ペチョルニコワの診断で精神分裂症とされ、1969年から72年までカザンの特別精神病院に収監された。この頃はまだ、KGBの「精神病」を利用した弾圧の初期であったが、1971年に検挙された異論派政治犯のおよそ3分の1が、精神病院送りの処分を受けている。ペチョルニコワ博士が大活躍を見せたのは、その後の1970年代である。
アレクサンドル・ギンズブルグ氏は、1970年代ソ連異論派の代表的人物。人権擁護派のジャーナリストとしてモスクワ・ヘルシンキ条約グループの中心となって活躍し、地下出版誌「シンタクシス」や「ダニエル・シニャフスキー裁判白書」の発行人で、ソビエト政治犯救援基金の創立者でもあった。彼は、1961-69年数回にわたって精神病院に収監され、78年には、8年の刑を言い渡されたが、翌年、西側の強硬な抗議により、アメリカに検挙されたソ連スパイとの交換という形で西側に追放され、現在フランスに在住。病床にある彼に代わって妻のアリーナさんが証言するには、裁判の過程で、ペチョルニコワ博士は、検察側の証人として、しばしば証言台に立ったという。精神病院に収監されたギンズブルグ氏は、向精神薬の大量投与に苦しんだと言う。
オデッサ出身のビャチャスラフ・イグルノフ氏は現在、ロシア下院の代議員を務め、人文政治研究所所長。昨年離党するまでは、ヤブリンスキー氏らの政党ヤブロコ連合の創立メンバーであった。彼も76年に、ソルジェニーチンの「収容所群島」を配布した廉で、検挙されると、ペチョルニコワ博士に沈滞性精神分裂症という、ソ連崩壊と共に消えて無くなった病名をもらった。当時既に彼女は、精神科医が数名でつくる医療審査委員会の長であった。イグルノフ氏は90年代になって、自分のカルテを当局に請求して調べ、およそ医学的な評価に耐えられない政治的な代物であったことを確認している。そして、今回またもや、この忌まわしい政治的精神科医ペチョルニコワ教授が、ブダーノフ免罪という新たな任務を背負って登場したことに対して、決して偶然ではないことを指摘した。
ソ連から「新しい」ロシアに代わっても、過去をきちんと総括することをロシアはしていない。過去の悪行で罰されたものはいない。そしてKGBは、FSBと名前を変えただけで、ぬくぬくと存在を継続している。いまやチェキズム(秘密警察主義)が、花開こうとしている。エリツィンからKGB将校だったプーチンに代替わりしたような傾向と、これは軌を一にしているのだ。
ブダーノフが「責任能力無し」と免罪されるのを合図とするかのようにチェチェンでは、新たなロシア軍による婦女暴行殺人事件が発生した。5月22日の未明、アルグンの町の26歳になる小学校教師、スベトラナ・ムダーロワは、自宅の前から、ロシア軍の装甲兵員輸送車に連れ込まれ兵舎に連行された。そこで2日間、さんざん暴行を受けた後、親類縁者の必死の探索の結果、31日になって。変わり果てた死体でアルグンのある空き家の中で発見された。
ノーヴァヤ・ガゼータ 掲載記事から要約・構成。原文:
http://2002.novayagazeta.ru/nomer/2002/41n/n41n-s06.shtml(訳:渡辺千明/本紙コントリビューター)
ノーヴォエ・ヴレーミャ/イリヤ・ミリシュテイン/2002.5.26
●ブダーノフ事件の「真実」
ブダーノフ事件は片が付いた、と言ってもいい。テレビカメラを厳しくにらみながら裁判出席者の一人が言ったように、「強姦と殺人を犯した者」という刻印はブダーノフ大佐から外されたということだ。被告の弁護人がこの驚くべき言葉を発したのだが、これはまさにこの事件を象徴している。
160戦車連隊の元連隊長ユーリー・ブダーノフ大佐は、犯行に及んだ時心神喪失状態だったと認められた。ブダーノフは、18歳のエリザ・クンガーエワを絞め殺し、暴行した上、最初の鑑定結果によれば他の酔っぱらった兵士たちに陵辱させ、第二の鑑定結果を信ずれば、生き埋めにし、しかもこれらすべてのことを理解していなかったという。ブダーノフは精神病であり、治療を必要とする。彼がいるべきところは独房でも収容所でもなく、精神病棟だ。2年かかって裁判所はこの「真実」を探り当てた。
●参謀本部長のための粘土人形
事件が実質的に終了し、正義が勝利しようとしている今、待てよと振り向いてみるべき理由がある。2000年3月、この事件のニュースがロシア国営テレビから流れた。ロシアの将校がチェチェンの少女を殺したなんてことがありうるだろうか!
RTRのニュース画面には憤激しているロシアのクワシニン参謀本部長があった。この事件を「ありうべからざる異常な事件」と呼んだ。自分の軍でそんなことが起きるなんて理解できなかった。クワシニンはブダーノフを「人間の屑」「ギャング」と呼んだ。精神的に混乱したまま、クワシニンはこの異常な犯罪をプーチン大統領に直々に報告した。
もっともすでにその頃から、優れた予言者的センスの冷静な人々は居たのだ。当時、あるロシアの全国紙の記者は「ブダーノフは政府への「生け贄」に捧げられたのだ」書いている。「大佐は自分ができることをした」だけであり、「ジュネーヴ条約の論理に従ったのではなく国内戦の理屈で行動したまでだ。チェチェン戦争とは本質的に国内戦なのだから」と。そして、さらにドラマチックな調子で「前線の将校たち個人の運命」について将校たちは「政争や昇進の陰謀の道具に使われている」と嘆いてみせる。 クワシニンがチェチェンの少女の悲劇を公表したからと言って誰も公然と非難するものはでないだろうが、参謀本部長があまりに手早く大統領に御注進に及んだことを忘れてくれる将校がいるだろうか?」
予言者のご多分に漏れず、この記者もあまりに信じやすかった。ブダーノフが終身刑になるだろうと思ったのは間違いだった。「クワシニンは自分からクレムリンに行って、チェチェンで起きている無法状態に大統領の眼を開いてやろうとした」と考えたのは見当はずれだった。しかし肝心なところでは間違っていなかった。ブダーノフ事件について直ちに情報の透明性が形成されたのはそれなりの理由があった。
人質を殺した大佐自身が、冷徹な経験豊かな勢力の人質になったのだ。責任能力があったか狂気だったかはともかく、もしジュネーヴ条約を知っていたとしても、大佐はちょうどタイミングよくそれらのことは忘れてしまった。他のもっと運の良い数百名の将校たちと違い、彼はあるかなり残酷な劇に出演する運命だったのだ。そしてそのことを全員が理解していた、被告自身も、捜査官も、看守も、将軍たちも、裁判官も、弁護士も、検察官も、クワシニンも。そしてクレムリンでクワシニンからこの報告をうけた人物も。
●ストラスブルグのツケ
ブダーノフ事件は2年前、ロシア政府にとって極めて大きな外交上の得点になった。事件は速やかに摘発され、大佐は逮捕され、4月には全世界にアピールする材料にされたのだ。ロシアの検察がチェチェンで人権を守り、命と名誉を守るために速やかに行動している良い例とされたのだ。ストラスブルグの欧州議会で、「悲しむべき異常事態」への素早い行動によって、ロシアに必ずしも好意的でない欧州議会のメンバーを説得できるはずだった。「わがチェチェンでは、検問所という検問所で鉛筆片手にジュネーブ条約と世界人権宣言を勉強しています」という証拠なのだ。
しかし欧州議会は納得せず、4月6日、3分の2の評決をもって「チェチェンでの人権問題が5月末までに改善されないならロシアを欧州議会のメンバーから除名する」手続きに入ることを決め、同時にロシアの議決権の停止が決まった。ブダーノフはこの間きわめてまともだった。2度の自殺未遂があり、ブダーノフがどこに収監されているかは非公開となり、ロストフ州の刑罰執行総局長がうっかり漏らしたところでは「ブダーノフがどこに収監されているかがひとことでも新聞にでたらわれわれの首が飛ぶ」と言うことになった。
ブダーノフ大佐の運命は前もって決まっていたのだ。世界はブダーノフのことを忘れつつあった。一方、 ロシア下院と欧州議会は、不信感を残しつつも相互理解がうまれつつあり、非公開の果てしない議論の中で最後の切り札としてブダーノフの名前も出されていた。ブダーノフ一人が連邦軍の残虐行為の全てに責任を取らされることは誰もが分かっていた。地政学上のゲームではこれ以上のスキャンダルがもう求められていなかったのだ。
ロシアは少しずつ西欧との統合を果たしつつあった。長年の借金の返済はすすみ、共産主義の脅威と戦い、言論の自由の体裁をととのえ、経済の自由主義を守り、全体としてチェチェンでの勝利を収めつつあり、何もかも良くなっていた。昨年2月にロストフ・ナ・ドヌーでブダーノフ大佐の公開裁判が始まると、むしろ驚きの声さえあがった「何だって!ブダーノフはまだ裁かれていなかったのか?」
公開裁判は、複雑な形ではあったが形式を整えているだけだった。政府は軍の機嫌を損ねたくないが、西欧との関係改善の方が大事だった。「異常」な大佐はロシアの対外政策すべてについてのツケを払わされることになっていた。要するにブダーノフは大変不運な男だったのだ。
●狂気の新時代
ところが 9月11日という日が来て世界は別の世界になった。部下を連れたにこやかなヒゲの男は(ビン・ラディン?訳者)、自分ではそのつもりもなく、今もそうなったことは知らずにロシア軍の一将校の運命を180度変えることになった。将校はテロとの戦いに命を捧げていたのだから。
われわれが住んでいる地球はちっぽけで居心地悪いところなのだ。ブダーノフはうつろな目をギョロつかせて、ロストフ州の裁判所で鉄格子の向こうで衰弱していく。静かに狂気に犯されていく、既に自分を「ロシアの案山子」にしたてあげた報道陣を法廷から追い出そうとさえした。その様子は哀れみをさそうものでさえあった、少なくとも法廷に被害者エリザ・クンガーエワの両親が居ないときには。そういうときにはまさに 大佐は正常だったし、鉄格子に入れておくのがふさわしかった。しかし、実際はそうでなかった。彼は病気にかかり、その病気は一風変わった病気で、後戻りのできるものだった。映画を逆回しにかけるように後戻りができる病気。
アメリカのあの悲劇の1ヶ月後には、北コーカサス軍裁判所から「ブダーノフは恩赦になるかもしれない」という情報が漏れてきた。モスクワのセルプホフ精神病研究所の検査結果は思いがけないもので、「患者はチェチェンの少女を殺した時錯乱状態だった」というのだ。これによって刑法105条の殺人罪からより軽い107条に切り替え 直ちに大佐は釈放と法廷は宣言した、107条は2000年5月の下院が施行した恩赦適用の新条項だ。ロシアではこのような判決にもう誰も驚かなかっただろう、しかし、政府はまだ急がない方が良いと判断した。
と言うのも、ブダーノフ事件は最初で最後、唯一の例として取っておく必要があった。単に「異常に神経が高ぶっていた」というような診断で ブダーノフを華々しく釈放するのはいくら9月11日事件の後とは言え余りにスキャンダラスだった。そこで検査結果は機密扱いとなった、これは法律にも反し、裁判に関わっていた専門家も呆れかえった。その驚きは半年以上も長引くことになった。
●恥じる事はない
上層部が、この運の悪い大佐が何の病気だったことにするかを決めている間に、社会は少しずつブダーノフが釈放されるということに慣れていった。クワシニンも「これは異常な例なのだ」などと言って画面に出て来るのをやめた。ロシア軍内部では、ロシアの英雄シャマーノフの見解がますます優勢になっていった。彼は既に2001年の冬にはブダーノフの生まれ故郷に公開状のような形で、「自分の息子であり、夫であるブダーノフを恥じることはない」と伝えた。裁判所の周りには世論の風向きに合わせて群衆が押し掛けていた。コサック姿の民族主義者や国粋主義者がプラカードを掲げて気勢を上げていた。「ブダーノフはロシア将校の頭脳だ、誇りだ、良心だ!」と。
この群衆のことを少し述べておこう。
わが国の社会の分裂病的な状況、ことにその「愛国主義的」部分について言えば、このピケ隊はまさにその致命的な部分だ。群衆が守ろうとしている人物は誰なのか? 無防備の少女を暴行し死に至らしめた人物だ。激しい戦闘が行われている戦場でもなく、捕虜に対するリンチでさえないのだ。不運な大佐が犯した罪は、正常な軍隊ならその場で銃殺されてしかるべきことなのだ。
裁判所の外で、憤激の言葉を書いた旗を振り回している愛国者たちは、反戦主義者の誰一人、夢にも考えられないような空恐ろしい反軍行為を行っていたわけだ。ブダーノフは軍隊全体のツケを払わされているという正しい判断の論理的帰結として、彼らは軍隊全体をブダーノフと同列におくように訴えている。わざわざ訴えるまでもない。それでなくても軍隊は同罪なのだから。
こうして、裁判は犠牲者の少女、その両親、彼女の名誉を改めて踏みにじるものとなった。最後の公判にエリザの年老いた父と年老いた弁護人ハムザエフ氏が健康上の理由で欠席したのも驚くことではない。裁判は結審しようとしていた。
弁護人は良心に恥じることなく「できるかぎりのことはやった」と言える。少なくとも大佐は拘置所で2年間苦しんだのだ。この2年間は彼が犯した残虐行為に比べようもない罰とはいえ、処罰ではあった。クレムリンは、チェチェンの弁護士はこれ以上争うことはできないだろうと判断している。
●違法な戦争をするか、法律を守るか
NTVのテレビ番組でこのブダーノフ事件の急展開を報じるアナウンサーが「センセーション」などという言葉を思わず使ったが、失笑を買っただけだろう。「精神錯乱」という鑑定結果を完全な「心神喪失」という慈悲に変えた鑑定結果にも、センセーショナルなことなど何もあるわけがない。まもなく言い渡される判決にも。
「それでは この心神喪失の殺人鬼が連隊を指揮していたってことになるのかい?」という疑問が湧いてくるかもしれないが、そうした疑問は直ちに勤務評定に入れられる。その人は指揮官によって排除された。占領軍の無法、狼藉のことは余りに言い古されていて広報部さえ反応しない。それに答はとっくに出ている。軍改革をしなければならない。軍の改革が始まった。
西欧の圧力の下で始まり、9月11日に終了したブダーノフ事件は、チェチェンで戦闘を行っているものたちに取ってのみ重要な教訓となった。その教訓とは、「軍事犯罪を犯すならカレンダーと政治的情勢に気を配りながらやらなければだめだ」ということだ。欧州議会の会議やそのほかの歴史的イヴェントの予定が近々入っていなければ、殺そうが、暴行しようが、生き埋めにしようがほとんど罰せられることはない。
もちろん捕まらないに越したことはない。ロシア社会は、ブダーノフ事件が、せめて政府はほんのわずかな例とはいえ、反抗的なチェチェン共和国の戦場での憲法遵守に関心を持っている証拠になるかもしれないという期待を持ったが、裏切られてしまった。そんな期待がかなうわけもない。どちらかを選ぶべきなのだ:違法な戦争をするのか、それとも法律を守るのか。それを混同すると、精神に辛い結果を招くことになる。
ノーヴォエ・ヴレーミャ 原文:
http://www.newtimes.ru/newtimes/artical.asp?n=2948&art_id=2506(訳:T.K./本紙コントリビューター)