日時:2001年12月15日(土) 午後 3時〜6時会場:ピースネット/市民平和基金事務所報告:「国際非暴力隊の目指すもの 」(大畑 豊)ビデオ上映:「チェチェン戦争の実態」参加費:500円主催(問い合わせ先):市民平和基金/東京都文京区白山1-31-9小林ビル3FTEL : 03-3813-6758 FAX: 03-5684-5870 E-MAIL: peacenet@mvb.biglobe.ne.jp
11月29日、ロシア軍当局は、2週間にわたるチェチェン山岳部での戦闘により、レジスタンス120人が死亡したと発表した。11月14日から始まったこの掃討作戦は、チェチェン側の野戦司令官、バサーエフ、ハッターブらを標的にしたもの。一方、首都グロズヌイの東の町アルグンで、民家に押し入った所属不明の兵士により、住んでいたラムザン・アキーエフ氏と、妻のアイマーニ、および子ども3人の5人家族が殺害された。
12月2日、ロシア連邦保安局(FSB)は、人道援助機関であるデンマーク難民評議会(Danish Refugee Council)が、難民ではなく、ゲリラ集団に対する支援を行っているとして非難した。(11/2、AFP)これによると、「DRCが行っている食料の供給先は、マスハードフ大統領を支援する住民に偏っている」という。
今年8月には、DRCの元職員でイギリス国籍のグラハム・ブライアン氏(61歳)がウルスマルタンで逮捕された。同氏はチェチェン側とのコンタクトを取ろうとしていたとされる。これまでもロシア当局は、コーカサス地域で活動中の約40の救援NGOの一部が、CIAなど外国情報機関の隠れ蓑になっているという見解を明らかにしている。
12月3日、欧州評議会のフランク・ジャッド卿は、ロシア軍の進攻に対するチェチェンのレジスタンス兵士たちを「自由の戦士(freedom fighters)」と呼び、彼らの和平への取り組みを評価した。
ジャッド卿をはじめとする、欧州評議会のロシア議員団との合同作業グループは、今週チェチェンの首都グロズヌイ入りして視察を行うが、この発言はそれに先立ったもの。卿はロシア南部の空港で、報道陣に対して「チェチェンの自由のために戦っている戦士たちが、和平合意を考えていることを、高く評価したい」と発言した。また、「チェチェンでもアフガンでも、軍事的解決というものはありえない。政治的な文脈において解決を探ることが大切だ」と加えた。
プラハ・ウォッチドッグ/ルスラン・イサーエフ、12/4
紛争調停人として知られるリズバン・ロルサノフ氏が、首都グロズヌイの南方、ノヴィ−アタギの自宅近くで自動車に乗っていた際、遠隔操作による地雷が爆発し、死亡した。ロルサノフ氏は、ロシア軍とチェチェン独立派との交渉の仲介をしていたことで知られており、96年には、ロシアのアレクサンドル・レベジ安全保障会議書記と、チェチェンのアスラン・マスハードフ参謀総長(肩書きは共に当時)が、両国の和平協定であったハサブユルト合意に先立ち、ロルサノフ氏の自宅で会談したこともある。
2000年の1月、ロルサノフ氏は当時彼の家に滞在していた数人のジャーナリストとともにロシア軍に逮捕されたが、いくつかの人権団体の抗議が実って釈放され、最近は親ロシア政権のカディロフ行政長官のサイドから、マスハードフ大統領との間の仲裁を行おうとしていた。
12月6日、ロシアのセルゲイ・イワノフ国防相は、チェチェンの指導者層を標的とした冬季作戦を行っていることを明らかにした。これによると、「現在チェチェンでは十分な戦力を投入した特殊作戦が実行されていおり、この冬は盗賊の残党とその首領の掃討を約束できる」としている。
12月8日、ヴァッハ・アルサノフ氏などをメンバーとするチェチェン野戦司令官会議は声明を発表し、「ロシアとチェチェンは今、またとない終戦の機会を迎えた。戦闘を中止し、交渉のテーブルにつくことは可能だ」と、ロシア側に交渉の積極的な継続を求めた。
ロシア、チェチェン双方は先月18日にモスクワの空港で短時間の協議を行い、今回の第二次チェチェン戦争開始以来初の、公開の場での和平交渉の可能性が生まれている。チェチェン代表のザカーエフ副首相は「建設的な交渉が期待できる」としているが、ロシアのカザンツェフ全権代表らは積極的なコメントを避けている。
今回の声明では、チェチェンのアスラン・マスハードフ大統領の地位について、「ロシアの政治家と将軍たちがチェチェンの代表者についてなんと言おうと、われわれの代表者はマスハードフ大統領であり、軍部隊の90パーセントを掌握している」(AFP,12/09)としている。
限定的な表現になっているのは、チェチェン側の野戦司令官の一部がマスハードフの支持に従っていないことを示すと見られるが、さらに声明は、「(同大統領は)一切のテロ組織と無関係であり、国際機関の監視を受けた、民主的な選挙によって選ばれた正当な大統領である」(AFP,12/09)と強調した。
マスハードフ大統領は、1994年から96年の第一次チェチェン戦争で、チェチェン側レジスタンスの総参謀長を務め、当時のドゥダーエフ大統領の戦死により、対ロシア交渉での代表となり、96年にはハサブユルト和平合意が結ばれた。戦後の大統領選挙では、対ロシア穏健派として、交渉によってロシアからの独立をめざす姿勢が期待を集め、国民の大多数の支持を受けた。
一方、ロシアの北コーカサス軍管区司令官のゲンナジー・トローシェフ将軍は、すでに先月中に、チェチェンに展開しているロシア軍のうち、対テロリズム作戦と関係のない部隊は撤退を終えたと報道陣に対して語った。
12月8日、チェチェン側の情報によると、ヴァシュタ河流域での待ち伏せ作戦により、ロシア兵11人が死亡した。この作戦でチェチェン側が1人が死亡、5人が負傷。また、山間部ではロシア軍の装甲縦隊が攻撃を受け、装甲車3台が破壊された。アルグンでは、ジープが地雷を踏み、乗っていたロシア軍兵士2人が死亡した。チェチェン第二の都市グデルメスでは、グレネード弾による攻撃で、ロシア兵3人が死亡。
南部山岳地域のヴェデノとノジ−ユルトでは引き続き、激しい戦闘が続いている。少なくとも1万8千人のロシア兵がこの地域に派遣され、チェチェン軍と交戦している。
一方、ロシア連邦保安局(FSB)によると、チェチェンのサイード・ガルブラートフ野戦司令官(41歳)が、ロシア当局に投降した。ほかに2名のレジスタンスが、ウルス−マルタンとグロズヌイで逮捕された。
「野戦司令官」という言葉は聞きなれない人も多いのではないかと思う。正規の軍制を持たないチェチェン共和国では、94年のロシア軍の進攻(第一次チェチェン戦争)に対抗して、自発的な民兵組織が編成された。現在のレジスタンスはこの流れを汲んでいる。
各部隊の司令官は組織内部で選ばれるため、独立派政府と必ずしも一体ではない。大統領を中心とした一種の円卓会議に近いため、12月8日の野戦司令官会議の声明のように「軍事組織は大統領を支持している」という意思表示がときどき必要になる。
最も有名な野戦司令官は、おそらくシャミーリ・バサーエフ(36)である。モスクワで出稼ぎしつつ夜学に通っていたバサーエフは、戦争の直前にチェチェンに戻ってレジスタンスに参加した。95年のなかばには南ロシアの病院で人質をたてに和平交渉を迫り、ハサブユルト和平合意のきっかけを作った。しかし99年夏、配下の部隊を率いて隣国ダゲスタンに進攻したことが、第二次チェチェン戦争の原因のひとつにもなっている。
また、ヨルダンから来たとされるハッターブ司令官は、その存在自体が、チェチェンとオサマ・ビン・ラディンなどのイスラム原理主義過激派との間にネットワークがあるという証左として、頻繁に取り上げられている。
99年にダゲスタン進攻が起こった際、マスハードフ政権は戦争に発展することを懸念し、「この行動にチェチェン政府は関与していない」と宣言した。逆に言うと、すべての野戦司令官の行動に責任を取ることはできていないのが実情であり、マスハードフ政権の指導力が強化されない限り、今後もチェチェンの構造的な問題になる可能性が高い。(発行人)