民族学者 ヤン・チェスノフ/ノーヴォエ・ヴレーミヤ 2001年31号より
●聖域に隠された兵営
もしも、ウラジミール州のネルリ川岸のポクロフ寺院の鼻先に、テロリスト撲滅作戦のための戦車が隠されたら、ロシア人はどう思うだろう?ポクロフ寺院に相当するのが、山岳国イングーシにある、トハバーエルドウイ寺院だ。この寺院は、12世紀にグルジアのタマーラ女帝によって建てられたとされ、イングーシ、グルジアにおけるビザンツ建築の傑作である。どこかウラジミルルーシ(ロシアの古代国家)の初期の建築物に近いものだ。
ロシア軍の戦車が、その寺院からわずか30メートルのところの地中に少し埋めたかたちで隠されている。そのまわりは塹壕が掘られ、さらに、寺院の周囲の斜面は装甲車などのキャタピラによって掘り返されている。ロシアの軍人たちは、チェチェンとイングーシの境にある山なみのすぐ向こうに、チェチェンの武装勢力が隠れていると考えているのだ。しかし、ここまで挑発的なばかげたやり方は行き過ぎではないだろうか?
●第58部隊、木ねじ
われわれが、イングーシ最後の異教の呪術師の墓を調べに、ハウチエヴイエの一族の墓地を訪ねたあと、わずかな人数で斜面を下っていた時のことだ。
遠くの国境警備隊の詰め所から突然、機銃掃射があり、われわれは将校と数人の兵士に取り囲まれた。兵士たちは少し離れて警戒態勢をとっている。このときは単なる身分証明書のチェックで終わった。しかし、国境警備の見張り所からは、ずっと見えていたはずだ。めがねの年寄り二人が斜面を降りていて、そのうち一人はビデオカメラの三脚を担いでいた。どう見ても武装勢力には見えないのに、機銃掃射までする必要があったのだろうか?
もっとも、国境警備隊の態度は十分我慢できる程度のもので、将校たちは自分の名を名乗り、そのうち二人はイングーシについて、また、墓所であるこれらの塔についての文献も読んでいた。しかし陸軍の兵士と将校はもっと手荒だった。彼らの話では、ここにいる第58部隊はほとんどが傭兵で、彼らはなぜか「木ねじ」と呼ばれている。
私はこのトハバーエルドウイ寺院を、ここ15年間調査している。建物は急速に破壊が進んでいる。すでに屋根の瓦はなくなっており、降雨と冬季の凍結によって石積みが破壊されている。亀裂は壁面と内部構造を分離し、亀裂の大きさは手をさしこめるほどだ。
寺院の中や周囲に、勇猛果敢な第58部隊が残した痕は目を覆うばかりだった。以前にあった石の腰掛けはなくなっており、十字架は倒され、割れている。たき火をたいたあとがディーゼルオイルの悪臭を放って、酒瓶が散乱していた。寺院の祭壇に当たる東側の壁際は便所として使われていた。
7月11日に、ロシア軍のヘリコプターが、ロケット弾によって「太陽の墓所」を木っ端みじんにうち砕いた。イングーシ人の祖先たちは、地上に建てた石づくりの納骨所に死者を葬った。こうした墓所はいくつかの高い塔のグループの近くに建っている。この古墳は、トハバーエルドウイ寺院と同じ地方にある。
墓所への攻撃は、イングーシの共和国中が知るところとなった。われわれ研究者は、ふたたび山に急行した。この時はすでに寺院の内部はあわただしく片付けられており、土間も掃き清められ、堂内の片隅に、潅木の枝で作った箒が転がっていたが、戦車と塹壕はそのままだった。
●ロシア軍に行く手をはばまれる
有名な中世からの集落ヴォヴヌシカ村に向かい、山奥へアッサ河沿いにわれわれの4輪駆動車ニーワを進めようとしたが、急峻な登りの途中でロシア軍のトラックに行く手を阻まれた。兵士たちは、トラックが故障して動けなくなっていると言う。われわれは後戻りせざるを得なくなった。近くに見えているのトハバーエルドウイ寺院の方に上がるために渡らねばならないアッサ河の橋に近づいた時、橋が軍の自動車化部隊と第58部隊の兵士によって通行止めになっていることがわかった。潅木の陰に二人ずつの兵士が隠れ、対岸に集まっている人々に自動小銃や機関銃を向けている。軍隊は違法にも、われわれ調査グループばかりか、その地区の行政責任者さえ通そうとしない。
アッサ河の向こう側の急斜面には、芝をむしり取ってむき出しになった地面に白い石を並べて、でかでかと「俺たちがやらねば、誰が?」と落書きされていた。われわれが立ち去るころには、若いイングーシ人の一人がこの石の文字を消してしまったが、50メートル以上にわたるむき出しの地が、再び緑の草に覆われるのはいつのことだろうか?
●尖塔と山の人々の文化
タルギム峡谷やジェイラフ峡谷の尖塔の状態も、トハバーエルドウイ寺院に劣らずひどいものだった。この高さ25メートルほどもある背高ノッポの塔は、世界の七不思議の一つでもある。イングーシでは、15世紀から18世紀にかけて、このような尖塔が次々に作られた。これは、イングーシ民族の知恵の結晶である。イングーシ人は、このような尖塔を、オセチア、チェチェン、ヘフスル人のためにも作っていた。この一見心許ないヒョロヒョロした塔は、どんな地震にも決して壊れなかった。というのも塔の土台の中央部は岩盤に、土台の縁は柔らかい地面に載せて建てられていたからだ。そのおかげで、地震の際に塔は揺れるが、倒れることはなかった。塔の角の一つが風の強い方角に向けられており、縦の軸は強度をつけるためにやや斜面の方向に向けられていた。山の斜面は、人間が何らかの細工をすればただちに地崩れを起こすので、昔のチェチェンやイングーシの羊飼いは地に力を加えるような高いかかとの靴を履くことを禁じられ、羊の群れを走らせれば罰せられた。そのおかげでこれらの尖塔は数百年の歳月を耐えてきたのだ。
●俺たちがやらねば、誰が?
しかし、これらの塔の爆破が始まった。ソビエト政権の時代だ。反ソビエト派がこのなかに潜んでいるという理由だった。ことに被害がひどかったのは、1944年のチェチェン人とイングーシ人のカザフスタンへの強制移住の時だった。
現在、われわれは当時より民主的で、教育も受けるようになり、ピサの斜塔が倒れそうだと言っては不安げにそれを見守っている。しかし、前述の峡谷には曲射砲(152ミリという口径の重機関砲のひとつ)の砲列が敷かれ、山の向こうのチェチェンに向けて重火器が火を吹いてきた。その衝撃で、それでなくとも破壊が始まっている危なげな塔からは、ばらばらと石が落ち、全体に亀裂が走っている。数ヶ月前にイングーシ共和国の政府はこれらの塔の緊急修復令を出し、それらの塔の持ち主に修復への参加を呼びかけた。
ジェイラフ村のツローヴイエ家の塔が修復されているのを見たのは嬉しかった。道中カルトエヴイ一族の者にも出会ったが、彼らも一族の塔を調べに行くところだった。落書きではないが、「俺たち以外の誰がこれらの塔を救ってくれるのか?」と言いたくなる。
少なくとも、史跡を戦車の隠れ家に使う連中ではないだろう。(T.K訳)ヤン・チェスノフ:ロシア科学アカデミー 民族学・人類学研究所上級研究員
10月29日のグラスノスチからの情報によると、チェチェンでの最近の掃討作戦により、30人のレジスタンスと、15人の容疑者が逮捕されたと、ロシア側が発表した。この際に、銃器とグレネードランチャーなどを押収。
ロシア軍筋によると、ノジ−ユルト地区でロシア軍とレジスタンスの間に戦闘があり、ロシア兵1名が死亡、レジスタンス2名が死亡した。一方チェチェン側は、この戦闘はチェチェン側がロシア軍の縦隊に対して攻撃を加えたもので、戦闘は1時間続き、ロシア兵10名が死亡し、兵員輸送車など4両を破壊したと発表している。
ジャニ−ヴェデノ地区では、チェチェン側レジスタンスの待ち伏せによる戦闘が発生。ロシア軍の装甲縦隊がダルゴ橋を通過中、レジスタンスが先頭の装甲車を砲撃。戦闘は1時間半続き、ロシア軍は退却した。損害は軽微。
チェチェンの野戦司令官モヴサ・バラーエフによると、アルハン−カラ周辺でロシア軍の装甲車1両を破壊し、ロシア兵6名が死亡したという。また、シャリでの戦闘により、ロシア兵6名が死亡した。爆発物による。
親ロシア政権のルスラン・アヴタエフ緊急事態相によると、今年に入ってから、632人の難民がチェチェンの自分の村に戻り、現在のチェチェンの人口は603,400人となった。しかし現在も162,000人の難民が近隣のイングーシ、北オセチア、ダゲスタンの各共和国と、スタブロポリ地方に避難している。
このうち32,000人が、イングーシの難民キャンプに居住。
一方、ロシア連邦保安局(FSB)によると、1日あたり150人のチェチェン人が、近隣国へ避難している。イングーシ国内の難民受け入れ状況は悪く、この冬には最悪の状況を迎える可能性があるという。
10月24日、カフカス地方におけるロシア政府代表のヴィクトル・カザンツェフ氏はチェチェンのマスハードフ大統領の代表と会い、武装解除について話し合いを持ったことを明らかにした。しかしチェチェン側代表のアフメド・ザカエフ氏は「これは挑発だ」と話し、この会談の存在を否定した(10/25,AFP)。
今回の和平交渉の動きは、9月24日に、ロシアのプーチン大統領がチェチェン独立派に対して「72時間以内の武装解除」を求めたことにはじまる。これに対して、チェチェンのマスハードフ大統領は率先して代表者(ザカエフ氏)を指名し、交渉姿勢をアピールした。マスハードフ大統領はこの機会を「軍事行動を停止し、チェチェンとロシアの間の矛盾を整理する現実的な機会」(AFP、9/25)として捉えている。
一方、ヴァレンチン・ソボレフ/ロシア安全保障会議副書記が「交渉は停戦条件の決定と、チェチェン側の武装解除のために行われる」と話している(www.glasnostmedia.ru,10/29)ように、ロシア側は対等の和平交渉ではなく武装解除の方針を繰り返し表明しており、両者の間には溝がある。
ロシア軍、チェチェン独立派の両武装勢力の戦闘が続いていることを考え併せると、今のところチェチェン側のみの武装解除の合意はまずありえない。
マスハードフ大統領がどのような道筋での紛争解決をプロットしているかは不明だが、プーチン大統領にの権力基盤はこの戦争に大きく負っており、チェチェン進攻を敗北のまま終わらせることは難しい。
一連の動きが仲介者を挟まずに進行しているため、実際に交渉が行われているという確たる情報はない。しかし停戦が仮に成立したとしても、主要国や国際機関による仲介がない場合、不安定な状況は続くだろう。
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多数のロシア軍の戦車装甲車が、首都グロズヌイの南東20キロほどのところにあるシャリの一角に派遣されている。シャリの住民たちは新たな掃討作戦が自分たちの身にふりかかることを予期しはじめた。
戦争前のシャリの住民は3万人。今は難民として数百世帯が南部の山岳地帯から流れ込んでいる。レジスタンスの捜索とパスポートチェックはすでに毎日のように行われ、夜間外出禁止令も敷かれた。住民たちは自分たちの運命に絶望している。
最近、ロシア軍は現地のモスクの近くで住民の一人を拘束した。彼は母親に会いに道を歩いていただけだった。また、24日にはロシア兵がレーニン通りで19歳の若者を射殺した。若者は装甲車に乗ったロシア兵を見て危険を感じ、パスポートを取りに家に駆け戻ろうとしたところを、後方から銃撃された。
「特殊作戦」や「掃討作戦」の目的は、レジスタンスに関係のある人間を拘束すること、彼らの武器を押収することである。しかし、ロシア兵の捜索はチェチェン兵よりも食器棚や箪笥に対して行われることの方が多い。捜索は裕福な家から順に、ほとんど毎日のように行われる。
こんな例もある。シェルゼン・ユルト村では、数日前に70歳のゼルミカン・ザイルハノフが拘束された。彼が捕まったのは今月に入って2度目である。
息子がロシア軍への攻撃に加わったという容疑で逮捕されたため、釈放するようロシア軍に交渉を続けていた矢先のことである。村の住民たちはみな、ザイルハノフの息子が戦闘に参加していないと証言している。
また、この村では他にも4人の男たちが拘束されている。家族たちは手遅れになる前にと、彼らの足どりを必死に探している。すでにこの村の住民、アブバカル・サイドラーエフ(35歳)、シャラニ・アスハロフ(46歳)、ボリス・ディゴフ(45歳)の3人は、ロシア軍の「特別作戦」で拘束され、この4ヶ月の間行方不明になっている。(チェチェン人ジャーナリスト、ルスラン・イサーエフ)
ロシアとチェチェンの戦争を伝えるのがこのニュースの目的だが、戦闘の様子を伝えるだけでは、チェチェンという国は見えてこない。今回は、緑の生い茂るチェチェン、イングーシの山地にまたがる塔の文化についての記事を掲載することができた。翻訳を担当してくださったT.Kさんに感謝します。このチェチェンニュースを毎号掲載していただいている日本カフカスクラブでは、チェチェンの国の姿や、文化を紹介しているページがある。日本語の情報源としてはもっとも多くの情報があるので、ぜひご一読を。(発行人)日本カフカスクラブ: http://www.geocities.com/kafkasclub/(トップページに「チェチェン人とは」というリンクがあります)