チェチェン共和国は、黒海とカスピ海に挟まれ、カフカス山脈の北麓(北カフカスと呼ばれる地域)に位置する小国。面積は17,300平方キロ。この面積は日本の四国の面積(=18,780平方キロ)に近い。首都グロズヌイの位置は北緯43度20分、東経45度42分、時間帯はグリニッジ標準時プラス4時間、日本との時差はマイナス5時間。国内は北部に農業と原油生産の盛んな平野部、南部にカフカス山脈につながる山地。戦時には北部は外敵に制圧されやすく、南部は地理的特性から抵抗勢力の拠点となる。平均気温は1月は−4〜−5度C、7月は+19〜+25.5度C,年降水量は低地で300〜400mm、山麓部で600〜700mmである。近隣国は西にイングーシ共和国、東にダゲスタン共和国、南には91年に独立したグルジア共和国。
戦争のためにほとんどの産業は破壊されているが、過去のデータとしては、次のようなものがある。
『チェチェンイングーシュ自治共和国の工業生産高は1966年には1940年の5.89倍になった。この国の工業部門において最も重要なものは石油とガスの採取である。石油とガスの産地はグローズヌイ、マルゴベーク、カラブラク Kapabulak などの周辺に集まっている。1966年には1,118.9万トンの石油が採取された。ガスは171.7万m3である。グローズヌイから石油パイプラインがマハチカラー,ザテレチヌイ Zaterechinyui (ダゲスタン自治共和国)などとの間に敷設されている。またガスパイプラインはグローズヌイからオルジェニキーゼ、スターヴロポリなどとの間にある。この国では石油関係の機械製造、石油化学工業などがさかんである。食品工業ではブドウ酒醸造と果実缶詰が重要な位置を占めている。製糖が新たにおこっている。チェチェノイングーシェティアの播種面積は48.8万haあり、そのうち穀類が22.7万ha、ヒマワリが2.6万ha、バレイショが4千ha、蔬菜が1.0万haである(1970)。この国の農業では灌漑がきわめて大きな役割を果たし、被灌漑面積は10.3万haに達する。ブドウ畑は1.9万haあり、主としてテーレク川流域で栽培されている。家畜は牛が29.5万頭、羊および山羊が約67.9万頭、豚が約14.8万頭飼育されている(1971)』
(世界地名大辞典・ヨーロッパ・ソ連2、朝倉書店、1973)
チェチェン語とロシア語が使われており、1991年以前に教育を受けた者はほぼバイリンガル。以降は教育環境の悪化により、ロシア語の話せない世代が生まれている。北カフカスの言語はアルタイ語族、西カフカス語族、北東カフカス語族、ナフ・バイナフ語族、南カフカス語族、インド・ヨーロッパ語族の5つに大きく分類され、チェチェン語はイングーシ語ともにナフ・バイナフ語族に属する。イングーシ人とチェチェン人の間には言語的な壁はほとんど存在しない。
ソビエト連邦時代の人口統計では、チェチェン人は95万6879人、イングーシ人は23万7438人。この数にはチェチェンに居住していたロシア人など、非チェチェン民族も含まれているようだ。統計以降2度の戦争があったため、死者、難民などを考慮するとかなりの変化があるはずだが公式値はない。なお、北カフカスには50もの民族集団がひしめいており、最大のものはアゼルバイジャン人の600万人、少ないものではギヌフ人の200人にいたる。
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国名はニ通りある。ロシア連邦内の行政的区分としては、91年にチェチェン・イングーシ自治共和国が分離した結果として「チェチェン共和国」、一方、アスラン・マスハードフ大統領を首班とするチェチェン政府は「イチケリア・チェチェン共和国」と、それぞれ呼称している。イチケリアとはチェチェン南部の山岳地帯を指し、後者の国名は「イチケリアにあるチェチェン人共和国」というほどの意味。なお国際的には単純に「チェチェン共和国」と呼ばれる。
チェチェン人の人口のほとんどはイスラム教徒。もともと穏健なスーフィーズムを信仰しており、禁忌は比較的ゆるやか。豚肉はうけつけないが酒はたまに飲んでもよい。第一次戦争以降、過激なイスラム勢力が一部で伸張したために現在は状況が異なる。99年のバサーエフ野戦司令官派によるダゲスタンへの侵攻は「北カフカスにおけるイスラム統一国家を樹立するため」のものと主張されるなど、一部で過激化の動きが見られる。
もっとも知られているチェチェン・カルチャーは舞踊。カフカスではどこも舞踊が盛んだが、チェチェン人もまた自己の文化として「レズギンカ」と呼ばれる舞踊を大切にしている。少年少女による舞踊が盛んなこともあり、戦争中を通して各国で公演を行って高い評価を得ている。その他の表現については調査中。
2003.06.08