2009年1月19日、モスクワ市内で殺害された。アンナ・ポリトコフスカヤと同じ「ノーヴァヤ・ガゼータ」紙の若手記者で、現代ロシアのファシズム運動について取材していた。マルケロフ弁護士と同時に殺害された。
2009年10月25日、カバルディノ・バルカリア共和国で何者かに銃撃され、殺害された。チェチェンの隣国、イングーシ共和国の有力な活動家で、ロシア政府を後ろ盾とした元連邦保安局(FSB)将校ムラート・ジアジコフ政権を辞任に追い込んだ(このために治安機関の恨みを買ったと思われる)。また、治安機関による強制失踪被害者のため救援活動を推進する一方、ジアジコフの次のエフクロフ政権とは協力関係を作り、山岳部の武装勢力との仲介役になり、若者たちの社会復帰を進めていた。
2003年4月17日、モスクワの自宅前で銃殺された。ロシアの政党「自由ロシア」の副議長。2002年のモスクワ劇場占拠事件の真相を追求していた。
関連記事: http://d.hatena.ne.jp/chechen/20050606/1118035969
2001年4月18日に、チェチェンでの人道支援活動中、ロシア軍に銃撃され、同年6月2日にモスクワの病院で死亡した。平和団体「オメガ」代表。市民の立場からのチェチェン問題への介入を、国際社会に強く求めていた。
2009年1月19日、モスクワ市内で殺害された。チェチェンでの人権侵害事件を中心に弁護活動を行っていた。チェチェン人少女エリザ・クンガーエワさんを強姦・絞殺したロシア軍のユーリー・ブダーノフ大佐の裁判で遺族側代理人を務め、大佐が刑期前に釈放されたことに抗議する記者会見を開いた直後、路上で殺された。
2009年7月15日、グローズヌイで誘拐されたのち銃殺。同日イングーシ共和国で遺体で発見された。チェチェンのグロズヌイで活動するロシアの人権NGO「メモリアル」の中心的な活動家。欧州議会のロベール・シューマン賞(2005年)、スウェーデン議会のライト・ライブリフッド賞(2004年。もう一つのノーベル平和賞と呼ばれている)、そして第1回アンナ・ポリトコフスカヤ賞(2007年)など、数多くの賞を受賞した。関連情報:Amnesty ロシア連邦 : 人権活動家が暗殺される
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=684&sel_lang=japanese
2006年10月7日、自宅の集合住宅のエレベーターで何者かに銃殺された。 1999年夏以来、チェチェンに通い、戦地に暮らす市民の声を伝え、数々の文学賞、人権賞を受賞。2002年、モスクワ劇場占拠事件では、武装グループから仲介役を指名され、交渉にあたった。2004年の北オセチア・ベスラン学校占拠人質事件では、空路北オセチアに向かうが機内で毒を盛られ、一時重態になった。
2009年8月10日に何者かに誘拐され、翌11日に銃殺遺体で発見されたザレマ・サドゥラエワさんは、ロシアの慈善団体「レッツ・セーブ・ザ・チルドレン」の代表だった。同団体はチェチェンにおいて暴力の被害にあった子どもたちを支援しており、国連児童基金(UNICEF)と緊密に連携して活動していた。
関連情報:Amnesty ロシア連邦:「人権活動家狩り」に終止符を
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=694
ザレマ・サドゥラエワさんの夫。同時に殺害された。
関連情報:Amnesty ロシア連邦:「人権活動家狩り」に終止符を
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=694
2005年3月8日、ロシア連邦保安局の特殊作戦によりトルストイ・ユルトで暗殺されたチェチェン共和国大統領。「ロシアとの交渉による終戦と、ロシア連邦内におけるチェチェンの高度な自治の獲得」を求めた穏健派指導者。
2006年11月、亡命先のロンドンで放射性物質入りのお茶で殺害された。元ロシア連邦保安局(FSB)将校で、チェチェン戦争の発端となった1999年のモスクワアパート爆破事件が、FSBによる自作自演であることを暴露していた。
関連情報:『ロシア 闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』アレクサンドル・リトビネンコ著/光文社刊
2008年8月31日、イングーシ共和国で警察に殺害された。イングーシの反体制派インターネットサイトの管理人で、ジャーナリスト、政治活動家。マゴメッド・エブロエフさん(ジャーナリスト・活動家)
Mr.Magomed Yevloyev