初出:2003.04.12 2003年アムネスティ・インターナショナル日本/総会記念講演より
大富 亮/チェチェンニュース発行人 (末尾の日付にて改稿)
本日お集まりの皆様は主にアムネスティの会員の方々ということなので、人権面から見たチェチェン問題についての視点は私より鋭いものがあるのではないかと思います。そこで、この問題を、歴史的な切り口で捉えるという点、また、現在のチェチェンをめぐる国際環境がどうか、という2つの点をお話したいと思います。
私は、日本でチェチェン問題についての草分け的なNGOである、市民平和基金で専従職員をしていた際、チェチェン問題をはじめて知りました。現在はフリーの身ですが、2001年から週刊ニュースレター「チェチェンニュース」を発行しています。チェチェンニュースの目的は、まずこのチェチェン紛争によって生じている大変な人命の損失、文化財の破壊、そしてその中で生きていかざるをえない人々の声を、わずかでも日本社会に伝えるということです。その結果として、日本からのチェチェンに対する平和的な支援が強まることを願っています。この文脈のなかで、過去から現在にいたるロシア政府による対コーカサス政策に対して批判的です。ただし、紛争当事者とは関係がありません。
ロシアの、チェチェンへの軍事介入の動機はいろいろ言われますが、まず形式的に言えることは、1991年に崩壊したのが、ソビエト連邦であってロシア連邦ではなかったことです。ソ連邦は、ロシア連邦共和国を含む15の国々、グルジアや、カザフスタンやといったソ連邦構成共和国からなっており、これらをすべていったん独立国とした上で、「独立国家共同体」を作りました。チェチェン共和国はそのうち一つ、ロシア連邦を構成する民族自治共和国でしたから、ロシア連邦が別に崩壊していない以上、独立宣言はお門違いという面もあるのですね。
地図を見ていただきたいのですが、チェチェンの周囲にはいくつも小さな民族共和国があり、チェチェン一国の独立を許せば、さらに他の国も続くかもしれないという危機感が紛争の根本にあると言われます。そしてそこには1966年時点で1,118.9万トンの石油が採取された実績を持つ石油の資源があります。カスピ海の油田からダゲスタンの首都マハチカラを経由し、さらに西に抜けるパイプラインもあります。また、カフカスという地域は、トルコとイランの両国とロシアの間にある一種の緩衝地帯です。ロシアという国は歴史のなかで、侵略者となる一方、さまざまな敵からの侵略を受けつづけてきた国でもありますので、この地域を手放すというわけには行かないという素朴な思いも、ロシアの政治家、あるいは国民感情としてあるかもしれません。この点については推測でしかありませんが。
現代のチェチェン紛争は、1991年10月のチェチェン共和国の独立宣言から始まります。やや駆け足になりますが、10年間の歴史を概観しましょう。91年1月、ソビエト連邦からの独立を宣言したリトアニア、ラトビア、エストニアのバルト三国に、ソ連政府の命令のもと、軍が侵攻を開始した。このときエストニアの首都、タルトゥのソ連空軍基地を、ジョハル・ドゥダエフという名のチェチェン民族出身の少将が指揮していました。ドゥダーエフ少将は、ボリス・エリツィン・ロシア連邦最高会議議長にこの動乱への介入を進言し、エリツィンはエストニアを訪問、ソ連によるバルト三国への攻撃を公式に非難しました。ドゥダーエフは、軍事侵攻に反対する独自の立場をとり、タルトゥ空軍基地へのソ連軍機の着陸を禁止し、自らの部隊を動員してテレビ局を確保、ソ連軍の介入を退け、流血を防ぎました。ドゥダーエフ少将はその後まもなく退役し、チェチェンに移住しました。
91年の8月、モスクワでは新連邦条約調印の前日になって、保守派のクーデターが起こります。これによってソビエト連邦の崩壊が確定しました。10月、チェチェンでは、先のドゥダーエフ少将が大統領選挙を実施、自ら初代大統領に就任し、チェチェン独立を宣言しました。
94年12月のロシア軍による侵攻までの間、チェチェンは事実上の独立状態にありました。しかしそれまでの間にも、ロシアによる政治的な干渉や秘密部隊の派遣、内戦の挑発などもいくつか行われていたようです。カフカス全体に目を移しますと、アゼルバイジャンではナゴルノ−カラバフ自治区を巡る紛争、グルジアではアブハジア紛争、チェチェンの隣、イングーシ共和国では北オセチアとの領土紛争などが次々と火を噴き、アゼルバイジャンとグルジアでは政権が倒れました。90年代前半に、南北カフカスは現在以上に不安定な状態にあったということです。
94年12月、ロシアのグラチョフ国防相は「チェチェンなど2時間で制圧できる」と豪語し、チェチェンに地上部隊を送り込みました。これが第一次チェチェン戦争です。ロシアはチェチェンに4万の軍部隊を送り込み、全土を制圧しようとして1年半に及ぶ戦争を実行しました。しかしその結果は、民間人多数の死傷を出すだけでなく、新兵を中心とした訓練不足の兵力を、地の利を得たチェチェンゲリラの矢面にさらすという失策によってさらに大きな損失に繋がりました。96年の4月、ドゥダーエフ大統領は誘導ミサイルの攻撃により死亡しました。
この間にチェチェンで起こったのは戦争だけではありません。たとえば、サマーシキ村という場所では村人の大半がロシア軍に虐殺される事件が起こりました。もっとも憂慮されるのは、ロシア軍によるチェチェン市民への攻撃と、人権抑圧、ジェノサイドです。チェチェン戦争の用語で、「掃討作戦」というものがあります。これはロシア側が「テロリストを匿っている」と判断した村落を包囲し、住民のうち10歳から60歳代にいたる男性をすべて拘束して尋問を加え、場合によっては逮捕者の多数を殺害するというものです。2001年に、ダチヌイ村では51人の民間人の死者が発見された事例があり、アメリカの人権NGO、ヒューマンライツ・ウォッチが詳細に報告したほかにも、多数の同様の事例が報告されています。
96年の8月31日をもって停戦が取り決められ、いったんはロシアとチェチェンの間に和平がなりました。チェチェンに侵攻したロシア軍が全面撤退するという内容でしたので、国際社会から見ても、チェチェン側からみても、これは講和なったというよりも勝利に近いものです。第一次チェチェン戦争はこうして幕を下ろしました。しかし一方的な勝利はありえません。 96年から99年の間3年間、再びチェチェンには事実上の独立状態がもたらされます。しかしあるチェチェン人の映画監督が口にするところでは、この戦間期は「挫折の時代だった」といいます。何が挫折だったのか?
97年早々、ロシアとの交渉で矛を収めることのできた対露交渉派のマスハードフ参謀長が、民主的な大統領選挙によって大統領に選出されました。マスハードフ新大統領は、ロシアからの賠償によるチェチェンの国土再建をめざしましたが、この線からはほとんど金は出ませんでした。その代わり、マスハードフに叛旗を翻した武闘派のバサーエフ野戦司令官らには、ロシアのエリツィン大統領の側近であった政商ベレゾフスキーが接近し、資金援助をはじめました。こういったゆがんだ状況が、チェチェンにおける安定を有名無実のものにしていきました。 その矛盾と、ロシア側の挑発の臨界点として、99年夏にバサーエフ司令官は隣国ダゲスタンに侵攻し、待ち構えていたらしいロシア軍に撃退されました。
カウンターインフォメーションとしては、かつてチェチェン・イングーシ自治共和国領であり、チェチェン人のたくさん住む国境地帯のダゲスタンの村々で、紛争が煽られました。ロシア軍が反抗的な村むらを包囲したという噂が故意にながされ、支援に駆けつけようとしたバサーエフらは、侵攻という汚名を着せられたといいます。この点については十分な情報が手元になく、まだ確実にはわかりません。
また、その後、モスクワでは何者かによる民間アパートの爆破事件が続発し、犯人はすべてチェチェン人だと報道されました。ちなみに、本日にいたるも、この事件にチェチェン人が関与したという決定的な証拠は何も発表されていません。今年5月1日には、この捜査は公式に打ち切られました。犯人が逮捕できていないにもかかわらず、捜査の必要性はないということになったのです。この二つの事件により、ロシア軍は再度チェチェンへの侵攻に着手し、無差別爆撃や、民間人の逮捕、虐待、拷問、虐殺といった状況が続いています。
ここで、チェチェンを巡る国際環境に目を転じます。ひとつの例として、昨年10月なかばに、アゼルバイジャンで行われた欧州安全保障機構(OSCE)主催の会議を挙げたいと思います。
■アゼルバイジャンにて、チェチェンをめぐる論議
10月16日のグラスノスチ財団は、最近アゼルバイジャンで欧州安全保障機構(OSCE)とアゼルバイジャン政府の共催で開催された「現代のデモクラシーにおける宗教と連帯、テロリズムと過激主義を乗り越える道をさぐる」という国際会議について伝えた。これによると、平穏裡に行われていた会議の場で、チェチェン人権センターのマイルベク・タラモフ代表が、イスラム系民族に対するロシアの侵略的政策と「分割支配」についての批判を行ったところ、議場は騒然とした。
タラモフ氏は、ロシアの情報機関がチェチェンの過激勢力に対して支援を行い、またイスラム信者を装った者たちによる誘拐、殺人、政府転覆などの犯罪を黙認しているとした。そして「ロシア連邦保安局(FSB)はテロリズムと宗教的過激主義の脅威をみずから高め、市民に対する戦争の隠蓑にしている」と発言した。
このタラモフ氏の主張に対し、ロシア外交官のゲンナジー・エヴシュコフ氏が「分離主義者のタラモフはこの会議に出席する許可を得ていないし、発言するなどもってのほかだ」と非難したが、主催者側はタラモフ氏がNGOの代表として招待されているとアナウンスした。また、OSCE人権局のジェラルド・ストュードマン氏は、現在のチェチェンの状況を報告し、紛争の政治的解決のためにNGOの力は不可欠だと発言した。
国際NGOのアムネスティ・インターナショナルから出席したナデズダ・バンチック女史は「先のロシア代表の発言には、モスクワのもつ、民主主義への軽蔑が認められる」とコメントし、「また西側社会も、大量虐殺を<対テロリスト作戦>と言いくるめるプーチン大統領の見解を黙認している」と発言した。
News Bulletin Glasnost Media 16/10/2002 (チェチェンニュースVol.02 No.37 2002.10.27より)
実はこのあと12月、私はバクーでこのタラモフ氏と会い、この事件のことを聞くことができました。タラモフ氏はまずOSCEが発行した招待状を私に見せてくれましたので、この記事の裏付けがとれました。このOSCEの会議の様子は、チェチェンをとりまく国際環境をよく表現していると思います。
要素としては、まずロシアの支配に抵抗し、声を上げるチェチェン人がいます。そして、その主張に無視を決め込み、諸外国に対してチェチェン人の評価を下げるべく不当な非難をするロシア外交官。会議の枠内でチェチェン人を保護しようと努めるOSCE当局。また、小さい声ながらも、独自の立場から発言するアムネスティのようなNGO。この構図をぐっと大きくした形が、ヨーロッパでチェチェンをとりまく環境であるという言い方が成り立つかと思います。
国際機関の中で、OSCEや欧州評議会のような、比較的小さな機関、ロシアと、たとえばオランダやポルトガルといった小国が同様の発言権をもつ機関では、しばしばロシアのチェチェン侵攻に反対する声が支配的になります。アムネスティを含め、多くのNGOはチェチェン侵攻とそれに伴う人権侵害について批判的な視点を持っています。もちろん、チェチェン独立派による人権侵害ということも同時に言われますし、これも同じ人権の問題として重要ですが、これはチェチェンのシンパと後ろ指さされないための方便という要素が強いと私は感じています。なお、国連のような、ロシアが安保理の常任理事国として特別なステータスにあるような場では、チェチェン問題はほとんど取り上げられません。
最後に発言したナデズダ・バンチック女史は、アメリカのカルフォルニア州サンノゼに住んでいるアムネスティの活動家の一人です。ユダヤ系ロシア人の移民で、アメリカにおけるロシア人社会の、ロシアの民主化のための活動を取りまとめている人物の一人です。彼女らの視点からすると、ロシアの民主化にとって、チェチェン戦争はきわめて重要な問題です。この戦争が続く中で人権・人道的な問題は増していく一方ですし、市民の大多数の意見である、チェチェンとの和平交渉という課題を政府は無視しているに近い。またロシアでは旧秘密警察である連邦保安局(FSB)の力が年々増しています。民主化上の問題と同時に、そもそも、チェチェンがもし独立国ならば、チェチェン戦争は外国領土の侵犯であり、チェチェンがロシアの一部であるなら、その地域に対する攻撃は自国民に対する武力行使だからです。
ここまで、1991年以降の歴史をお話しました。しかし、10年も続くような根の深い紛争の原因を知るのに、その10年を見れば足るのか?という素朴な疑問が浮かびます。おそらくそれ以前の100年、この場合はできれば200年ほどの歴史をみていかないと、紛争の原因はわからないでしょう。紛争当事者双方が歴史的事実を検討し、共有すること、少なくともそれを試みることが、この紛争への最終的解決に繋がるのではないかと私は考えています。また、この会場に集まった日本人としての私たち、紛争当事者双方と等距離にある人々が、その歴史を知り、それぞれなりに評価を試みることが、世論をつくるということだと思います。私自身わからないことばかりなのが本当のところですが、考えてゆくための材料として、いくつかのエピソードをお話します。
1556年、カザン汗国などを併合したモスクワ公国は、コーカサスに関心を持ち始めます。チェチェンの近隣国であるチェルケスの公女とイワン雷帝は婚姻を結んだほどです。カフカスに土着していた諸民族と、彼らの土地に関心を持ったロシア人。しかしその後の歴史上、ロシアとカフカスは結婚できなかった。カフカスへの本格的な侵攻はエカテリーナ2世の治世(1762〜96)。このとき、カフカス人のアルドフ・マンスールが自らを全カフカスのイマーム(指導者)と宣言し、カフカスのほとんどの人民を結集しました。これ以降を、「カフカス戦争」と呼びます。この戦争は1800年代後半まで続きます。1840年代、ヴォロンツォーフ将軍の遠征隊に従軍したドイツ人の著述家によれば:
「海を航行する巨大な戦艦は、前方に、そしてわき腹に、波が砕けてゆくそのとき、くっきりと長い船跡をつけるが、船が先に進むやいなや、それはすぐにまた表面から消える。チェチェンでの我々の軍事遠征は、そのように進んだ。我々の通り過ぎたばかりの場所には、もう敵の姿は無いが、しかし、前方には間断無く彼等が並んで現れ、そしてすぐにまた我等の遠征隊の背後から密集してくるのだ。遠征隊は、彼等の間に何の目立った痕跡も残さなかった。ただ、そこかしこで森林の海からロシアの信号旗—燃えているチェチェン人の村落—が見えた。幾人かの捕虜と何頭かの家畜—我等の戦利品はそんなものだった」(ドイツの作家フリードリヒ・ボーデンシュタット/『自由への闘争におけるカフカスの民衆』第二巻、1855年、ベルリン)
ボーデンシュタットによれば、このときの遠征隊に動員されたロシアの軍人/軍属は20万人におよびました。今日チェチェンに展開しているロシア軍の兵力は8万から12万とされています。描写を読む限り、現在のチェチェン戦争とほとんど同じ状況が展開されています。
1917年のボリシェビキによる革命は、チェチェン人にとって僥倖に見えました。帝政は倒れようとしており、あたらしく現れた共産主義者たちは、民族の平等を謳っていたからです。北カフカス人たちは北カフカス臨時政府を立ち上げ、白軍の追討に協力しました。これは1920年まで続きます。北カフカスはソビエト政権に協力的だったものの、ヨシフ・スターリンが民族委員に任じたソビエト政権は、「北カフカス」という大きな地方政治体制よりも、分割支配を最終的な政策として選びます。これが、現在の北カフカスの多くの国々(カバルディノ・バルカリア、チェルケス、オセチア、チェチェン・イングーシ、ダゲスタンなど)の存在する理由です。
つまり、北カフカス連合国家という大きな枠組みを許すと、どうしてもロシアに対して反抗的になるので扱いにくいということです。人をばかにした話ではあります。少数民族の住む地域に遠征してロシアの一部だと宣言し、反抗を防ぐ名目で分割統治を導入してお互いにけん制させる。そのような資格を何者が持つのか。根本的な疑問です。 「チェチェンに独立を許すと、その周囲の小さな国々がばらばらに独立してしまい、収拾がつかない」という議論は、逆に、分割統治と言う、ロシア側がおこなった負の政策を照射しています。こういった小国が居並ぶありかたを、カフカス人自身が選んできたかどうか?
おもいがけず、先ほどのチェチェン人権センターのマイルベーク・タラモフの発言をなぞる形になりますが、ロシアが少数民族内部の過激派を故意に養ってきたという議論をよく見ておきたいと思います。タラモフは、チェチェンではロシアの一部勢力から支援を受ける人物がいて、正式に選挙された政府を混乱させていることを指摘しています。おおむね、当たっていると私は思います。
よく、チェチェン人は誇り高く、決して支配に屈しない民族だといわれます。そのことが紛争の原因とまで言われることがあるのですが、こういった言説には注意が必要です。革命後、チェチェンとイングーシでは繰り返し反乱がおこりました。ある歴史家は、皮肉をこめて「毎年春になると、あらかじめ用意されていたかのごとく、反乱の火の手があがった」と書いています。ロシアの中央から派遣されていた官吏や軍人たちは、これを鎮圧することが自らの手柄でした。すると逆に、勲功を立てるために新たな反乱を起こす、つまり挑発するといったことが発生します。チェチェンとイングーシでは、1930年代から40年代の間に、挑発によるものと思われる民衆蜂起が多発し、そのつど弾圧されて多数の人命が失われました。
そのようなゆがんだ統治の最悪の結果として、1944年の民族集団移住がおこりました。赤軍記念日(2月23日)、チェチェン人とイングーシ人の強制移住が突然開始されました。理由は、チェチェン人がナチスドイツに、協力したという疑いです。この措置により、当時50万人のチェチェン人が、一日のうちに貨車に載せられて移住先のカザフスタンに送り込まれました。
かつて日本を訪れたチェチェンの閣僚が話しました。「列車を降りたチェチェンの人々は、何一つない雪原に茫然とした。食糧も宿舎もなく、凍った馬糞を割って、中に残った飼料のトウモロコシを茹でて食べた」と。文字通り24時間でチェチェンからは人影が消え、ごく少数の人びとが山岳地帯にこもり、ゲリラ化しました。劣悪な輸送と移住先の居住条件があいまって、ここで1/3から、半数が死亡したと言われています。その正確な数字は、いまだに公表されていません。
カザフでの辛酸をなめた後、チェチェン人たちが名誉を回復し、もとの国に戻ることができたのは、戦争も終わった後の1957年でした。しかも、彼らがいない間にチェチェンにはロシア人多数が移住しており、この人々と折り合いをつけてゆく、困難な戦後が始まりました。
「コーカサスの金色の雲」(群像社刊、A.プリスタフキン)という小説があります。ロシア人の作家が、孤児としての自分の体験をもとに書いた小説です。この小説のユニークな点は、チェチェン民族の強制移住がどんなものであったかを、ロシアの子どもの視点で描いていることです。当時は第二次世界大戦もたけなわ、戦争のために非常に大勢の子どもが、親を失ってストリートチルドレンになっていました。この子どもたちが、カフカスに列車で送り込まれ、チェチェンの孤児院で生活をし始めます。その途中、ロシアの子どもがチェチェンの子どもを乗せた貨物列車とすれ違ったのに気がつきます。
「僕らの列車は、お互いに気付かない双子のように、そばに並んでいながら、永遠に離れ離れになってしまった。一方が北にもう一方が南に進んでいったことには何の意味もなかった。 僕たちは同じ運命で結ばれていた」(同書p.65〜66)
つまり、この子どもたちに代表されるロシアの植民者たちも、決して好んでチェチェン人の土地をわが物にしようとしたわけでは決してない。ロシア社会のなかでつまはじきにされ、最下層で生きている人々こそが、カフカスに送り込まれて生きていくことを余儀なくされたのです。
この土地からチェチェン人はカザフスタンに送り込まれたあとで、まずその姿をみることはできません。わずかに登場するチェチェン人は「テロリスト」として描かれています。にもかかわらず、読み手の心に、ある残像を残します。それはロシアとチェチェンの歴史に痛みつづける傷跡そのものであると同時に、この不幸な民族同士の共生の可能性だと思うのです。そこには、自分たちの土地、作物、記憶を主張するチェチェン人ゲリラがいた。戦後になってからは、ロシア人入植者たちの生活している場所に、カザフスタンからチェチェン人が戻ってきます。こういった二重三重の差別関係が、紛争の一つの要因です。この小説は、わずかでもチェチェン問題を知った人が読めば、心に染みるものがありますので、ぜひご一読されることをお勧めします。
チェチェン問題が何であるか、ということを一言で論じることはむずかしいことです。また、チェチェン人側の問題として、誘拐、殺人、麻薬売買と言った問題も指摘されていて、無視できません。しかし、ひとつの見方として私が強調したいのは、200年以上の歴史の中に刻み込まれ、隠されつづけてきた、抑圧と被抑圧の関係の発火点が、現在のチェチェン戦争だということです。その歴史の深い澱のうえのわずかな上澄みがチェチェン戦争であり、人権抑圧は、上澄みの表面に浮かぶ灰汁のようなものです。それは緊急の課題ですが、現在起こっていて、今後も起こるであろう人権抑圧に対処するには、歴史的枠組みを発見し、理解するということがまず必要なのではないでしょうか。その上で、心から人権問題への取り組み、あるいは紛争の解決にコミットすることができると思います。
本日の講演に貴重な情報を提供してくれた、渡辺千明氏、そしてチェチェン問題についての調査を続ける友人たちの協力に感謝します。ご静聴ありがとうございました。
(2003.06.05 大富亮/チェチェンニュース)
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*この講演録はアムネスティ・インターナショナルが発行した文書ではありません