2004.06.06 ラジオ・リバティー
原文URL: http://www.svoboda.org/ll/smi/0604/ll.060604-1.asp
6月始めに、ヤンダルビエフ・元チェチェン大統領代行(写真)の未亡人のインタビューを放送しようとした、ロシアのNTVテレビのキャスター、レオニード・パルフョーノフ氏(44)が突然解雇された。NTV側は「局の方針に違反したため」としか発表していない。ロシアではNTV、TV6、TVSなど、独立系のテレビメディアは軒並み体制側の圧力によって経営陣入れ替えなどが強行されており、報道に対する締め付けが厳しい。
このテキストは、アメリカ政府系の放送局ラジオ・リバティーが、NTVで放送されるはずだった番組のカット部分を使って構成したインタビュー番組を構成。司会:ドミートリー・ヴォルチェク、スタジオにNTVの番組「言論の自由」の司会者:サヴィク・シュステル、録画ビデオでマリーカ・ヤンダルビエヴァ/ヤンダルビエフ元大統領代行の未亡人。
V:今週モスクワでは、レオニード・パルフョーノフの解雇と、「ナメドゥニ(ついこないだ)」の番組中止がもっぱらの話題でした。きっかけは、エレーナ・サモイロワが撮ったルポで、それをNTVの指導部が特務機関の要請により取りやめたことです。サモイロワはカタールでチェチェンの元大統領ヤンダルビーエフの未亡人にインタビューしました。今、ヤンダルビーエフの殺害でロシアの情報総局の二人のエージェントが裁判を受けています。この禁じられてしまったルポのプリントは、すでにいちどならず公表されています。
サモイロワは、モスクコースキーコムソモーレツ紙で、こう説明しています。ヤンダルビーエフ未亡人とのインタビューはまったく罪のないものだ。はじめから特務機関が過敏になるようなところは全部カットしてあって、何が問題になり得るのか分からない。マリーカは夫をとても崇拝していて、ロシア政府が暗殺したと非難していたが、その部分は切った。次のような内容です:
マリーカ・ヤンダルビエヴァ:私はいつも家事をしていました。(チェチェンの)村に住んでいた頃、夫のところへくるお客達が、大統領の奥さんが納屋にいて乳搾りをやっているって驚いていました。その人達は、人間は心で選ぶのだと分かっていました。私たちは搾りたてのミルクが大好きでした。村に移ってまず雌牛を買いました。最初に出会ったとき彼が言ったのは自分は妻だけでなく友人をもとめているのだということでした。私は中等教育が終わったあと、学校の図書室で働いていました。ゼリム(ヤンダルビエフ)は作家で詩人でした。学校で文学の夕べがありました。でも両親が行かせてくれませんでした、厳しかったんです。校長先生が電話をしてきて、マリーカをこの夕べに来させてくれといい、それで行かせてくれました。そのころゼリムは、私の姉が働いていた「レーニンの道」という新聞社で働いていました。姉は校正係。彼女が産休にはいってゼリムが代わりに入りました。その晩、文学の部分が終わって本を図書室に戻しに行き閉めようとしているところに彼が来て、「チェチェンの本」が見たいといいました。そうして知り合ったんです。
彼は子どもの頃からお母さんをよく手伝っていました。父親を早くなくしていて、私は会ったことがありません。大家族のすてきな家族でした、そのうち多くがこの戦争で死んでしまいました。この戦争で二人の兄弟を亡くしています。スタールイエ・アタギの爆撃では、兄のところに預けてあった、灰色の馬が殺されました。とても悲惨でした。ゼリムが大統領職をやめるとき、ゲラーエフの仲間がプレゼントしてくれたものでした。最初の爆撃が始まって兄の家が爆撃されました。彼はソフホーズの農民だったのですが。馬の悲鳴がきこえたとき、馬を放してやろう、逃がしてやろうとそちらに駆けていったのですが、馬が後ろ立ちになったとき砲弾の破片が心臓を直撃。子ども達はほんとに悲しんだんです。戦争の最初の犠牲者でした。おそらくチェチェンでおきた犯罪やこういう犠牲を全部書いたら、まともな人は読み通せないでしょう。
V:ヤンダルビーエフは、ロシア政府から、モスクワ劇場占拠事件に関与しているとして告発されていますが、この事件を彼がどういう風に知ったんでしょうか。
M:こういう風でした。電話がかかってきたんです。そのときアラビア語の通訳のイブラギムも一緒でした、彼は階下にいて、私は夫と階上にいました。その電話の主は番号を言って、「この電話番号に掛けるように」と言ったそうです。モスクワの電話でした。「もしかしたら、挑発かもしれない。どこの誰だか分からない。必要ならまた掛けてくるだろう」彼は少し考えてから 友人たちに電話を始めましたが、どれも電話は切られていました。トルコにも掛けましたが、誰も出ません。それで言われた電話に掛けて、劇場を占拠していることを知ったのです。ゼリムはゲリラたちが何も悪いことをしないように、人質は罪がない、彼らに手出しをしてはいけないと言いました。もしひとつでも何がそういうことをしたら、それはチェチェンにとって悪いことにしかならない。悪が悪を呼ぶ。今すぐそちらへ行くから」と。
彼はすぐにロシア大使館にアピールを書いてイブラギムを使いにやりました。金曜日にそれがあって、土曜日には全員殺されたんです。早朝にガスを入れて全員殺したんです。いろいろな噂は作れるし、つぎはぎも出来ますが、事実は事実です。どんな関係もあり得ません、テロを組織したなんて証明できっこないんです。
V:情報総局のエージェントが罪を認めたとき、マリーカは許してやろうと思ったそうです。しかし、そのあとで否定し始めました。カタールの裁判と被告についてどう思っていますか。
M:裁判の結果で私の苦しみが軽くなるかとも思った。でも今はあそこにいって何になる、それでなにが良くなるの?有罪になったって、失われたものは帰ってこない、正義のためには罰せられなければならない、悪は罰しないと3倍になって戻ってくるということわざがある。あの人たちが演技をしていたなんて思わなかった。罪を認めたとき、ああ、後悔しているんだな、自分の一生をだいなしにしたんだと辛い思いをしているだろうな、と。かわいそうに思った。ところが、前に言っていたことを平気で否定し始めた、しかも毎回私の前で恥じるどころか、入廷し、退場し、自分がやるべきと思うことをやっている。ああいうひとたちの良心は目覚めることがない。処罰されるにまかせます。前はそう思わなかった。最初彼らを見たときはそうおもわなかった、始め、ことにアナトーリーが何をどうやったか話していたときには。
2月18日に逮捕されて 21日、22日に供述し、その様子は撮影されていました。カタール側は、供述した日にロシア大使に面会させたんです。ロシアの刑務所で、しかも大統領殺しが、大使の面会を許されるなんてことあり得るだろうか?(虐待によるとされる)アザもなにもありませんでした。どんな人たちか、私たちはじっと見ているから、わかる。 今、彼らは作り事を言っている。テキストを用意されて、それを話している。 殴られたとか、自白を強要されたなら、アザぐらいあるはずでしょ、どんなメイクでも隠しきれないはず。裁判官は前言を否定されて、驚きあきれている。警察官が殴って自白させたなんて。検事は、「法廷で今あんたがたが否定していることを供述したじゃないか?」と言うけど、彼らは顔をあげずに「強要された、わからない、おぼえていない、答えられない」と言う・・・。どういう結論を出すのか私はわからない。私は法廷で座って、聴いて、帰るだけ。
未亡人は4ヶ月と10日間、男の人と話をしたり会ったりしてはいけない。だいたい家から出てもお客を呼んでもいけない。私たちが失った者は 裁判でも報復でも帰ってこない。あの人たちが処罰されれば少しは気分が楽になるかもしれないが、それもあてにはならない。私は残忍ではないつもりです。アラーの神のおぼしめしのままに。私がもっと心配しているのは子どもたちのこと、このストレスからはやく抜け出して欲しい、こんなに幼くして健康を無くしてしまった子ども達の健康を回復してやりたい。
V:マリーカは夫がカタールで何をしていたかを語ります。チェチェン語の辞書をつくっていた、チェチェン語に入り込んでいるロシア語をチェチェン語に置き換えることをやっていたとのこと。
M:国民は彼のことを決して忘れないでしょう。彼はチェチェンのシンボル、自由のシンボルです。あんな人は百年に一度しか、アラーはお与えにならない。電話をしてくる人は皆泣いている。今日は文字通り私が泣いた。役者たちが電話をかけてきて、彼が死んだのはあなたの喪失だけでなく、私たちの彼が死んだんだ。彼は天才だった。彼に皆が期待していた。みんな戦争が終わったら国を復興させることで彼に期待していたと言いました。
戦争を終わらせてうちに帰る、アルグンを見たいと彼は計画していた。二階建ての家のバルコニーからアルグンが見えました。石を手にとって胸に押し当て、アルグンを眺める。それだけでいい。どんな役職もいらない、彼はしずかに座ってチェチェンの歴史を書くつもりだった、いつでもひきさかれ、焼かれ、チェチェンの人々から取り上げられてきたチェチェンの歴史を。彼の机の上にたくさん私の知らないチェチェン語があった。ロシア語の音楽と言う言葉はチェチェン語でもおなじ、訳語がない。彼はそれを作っていた。カタールにいる間に彼はたくさんのロシアの言葉をチェチェン語に訳していた。全然休みませんでした。最近はどこにも出かけていない。2003年に、ロシアが彼をテロリストだと、国連に訴えるまでは、彼はモスクワにも何度もいったし、チェチェンの元大統領として遇されてきて、なんの刑事告発もなかった。彼が机に向かって仕事をしてきたこの2年間に、彼はテロリストに仕立て上げられてしまったんです。
V:もう一度強調しますが、ここまでの部分は初めからカットされていました。それなのに「ナメドゥニ」はつぶされてしまった。今日はNTVのシュステルさんが来ています。ここまで、検閲カットなしのマリーカの言葉を聴きましたが、どうしてこれがそんなに特務機関を刺激したのか?結果としてクレムリンとNTVがたいへんなドラマの中心になってしまった。ウラジーミル・ポズドネルの見解では、ヤンダルビーエフの遺族の態度によって裁判の行方が左右されるといいます。死刑になったとき、遺族なら許すことができ、そうなれば死刑は取りやめになる。しかし、この番組の禁止とは関係ありません。どうして未亡人がロシアにショックを与えたかわかりますか?
シュステル:ポズドネルが言ったことは一つだけ欠陥があります。もし放送されていたら、死刑の判決に対して遺族は恩赦を要望したかもしれません。しかし、特務機関、国というものは、テレビにああしろこうしろと言えません。ベルルスコーニの例がある。イタリアの事件で、3人の人質のうち一人は殺された。あのときベルルスコーニは捜査の便宜から報道しないように頼んだが、結果は様々、報道を控えたところもそうでないところもありました。ジャーナリストとしての態度は様々でありうるんです。ヤンダルビエフの素材が特別ジャーナリスティックだとは思いません。それより爆発のとき父とともにいた13歳の息子のほうが心配です。誰も彼のことを話題にしないが、カタールの現地でも、このことの方がずっと情緒的に影響があります。それより、だいじなのはレオニードが言ったことだ、遅かれ早かれ、NTVにまた圧力がかかると感じていたということです。ヤンダルビエフの素材を理由にしなければ、他の理由で。そういう状況を感じていたんです。
V:テレビ局のなかでもパルフョーノフの番組があぶないと感じていたんでしょうか?
シュステル:そうではありません。彼の番組の視聴者は、局にとって空気と同じくらい絶対必要な番組だとみんな思っていた。その人たちは、ロシアの市場経済を引っ張り、変革し、近代的な技術を発展させていく牽引力になっていた人たちです。そういう視聴者を誇っているのがあの番組だった。番組がなくなったことで視聴者を失ってしまっただけでなく、それを裏切ってしまう事になるなんて、大事件です。どの局でも視聴者を引きつけている番組というものがある。番組が失われ、視聴者を失うということは、私たちテレビ関係者みんなの敗北です。
V:あの番組を復活させる計画は?
シュステル:私は経営者ではないから、そういう計画は知らりません。しかし、レオニードなしで「ナメードゥニ」を復活させるのは現実的に不可能だと思います。いろいろなことはありうる、レオニードに似た感受性の人物をみつけてきて、だんだん経験を積んで形だけは似たような番組もできるかもしれなませんよ。だけど、ああいう人間をみつけるのは難しい、すぐに見つけられなければ、すべての問題は忘れられてしまう。ロシアではなんでも、あさってには忘れてしまうからね。
訳:TK