寺沢 潤世/日本山妙法寺
初出: 2000.03.03 ユーラシアンクラブ主催
特別緊急報告会「チェチェンの戦闘停止を求めて」資料
年の暮れ、グルジアの首都トビリシで、電気も暖房もない夜半、ろうそくの明 かりで、みかん、りんご、あめ玉、チョコレート、ボールペン、ノートなどを 200個分のお年玉袋に詰めて、私は大コーカサス山脈の南麓にあるアフメダ地 方の小さな山里を訪ねた。
冬枯れのとうもろこし畑、ぶどう畑が山麓に広がり、枯れ山の奥には白い連峰 がそびえている。それほど多くはない農家が所々に点在する、一見静かなわび しいこの山里に、昨年10月から、コーカサス山脈を越え、グルジアに逃れてき たおよそ一万人のチェチェンの人々が身を寄せている。
一本の道がビリキヤニ、ドゥイシの二つの村を結んでいる。その両側に建てら れた吹きさらしの病院棟跡、バラック、学校、役場、公民館、民家には、一部 屋ごとに四、五家族の難民が共同で生活する。子供たちに運んできたお年玉袋 は、三ヶ所も巡らぬうちに品切れた。
グルジア風の木造民家の前庭に入った。 中から女の子たちのはしゃぐ声がす る。玄関を入ると、三人の母親たちが迎えてくれた。許しを得て、七人の女の 子ひとりひとりにお年玉をプレゼントした。部屋の片隅のベッドに、男の子が うつ伏せて眠っている。ベッド脇に腰掛け、肩を軽く叩くと、少年は起き上が り、お年玉を手にして、満面の笑みを浮かべて、体を片側に添わせ、片腕で私 の体を抱き寄せた。チェチェンの男たちがよくするあいさつである。 この子たちに父親はもういない。
一番年上で、教師をしていたという母親は、夫を前の戦争でなくした。 車 で村を移動中に爆死したという。ロシア軍と闘って戦死してほしかった、と語 る彼女の口調は、抑えようとする怒りをにじませている。その怒りは私たちに 向けられたというより、この世界すべてに向けられているように思われた。 ここで先生を始めないか、という私の誘いに、「何を教えたらいいの」と言い捨てた。
まだ若い上品な母親は、淡いうぐいす色の布でイスラムの女性らしく頭を覆っ ている。ウルスマルタンのビジネスマンだった夫は、つい最近グルジアへ脱出 する道でロシア軍の攻撃に遭った。これまで家庭の主婦だった彼女に、残され た子供たちを育てていくめどは立っていない。
夫の遺体をこの目で確かめるまでは信じられない、と目をおさえた。先ほどま ではしゃいでいた女の子と少年は、プレゼントを手に、母親が私たちにぶつけ る絶望をじっと見つめ、耳を傾けている。
昨年9月、ロシア連邦軍のチェチェン侵攻が再開され、全土を標的とする無差 別空爆が始まり、ほとんどすべての住民が流民化したといわれる。その大半は 隣国のイングーシ共和国に殺到したが、ロシア軍の支配下を恐れる人々は山へ 逃れた。コーカサス山中の要地、シャトイ、イトゥンカレの人口は、平時の五、 六倍に膨れ上がった。
連日の空からの攻撃で難民たちは地下室生活を続け、わずかの蓄えで食いつな いだ。さらにそこからグルジアへ脱出するアルグン川に沿う渓谷の道は、96年 の(前回の戦争)停戦後、ロシアの経済封鎖に苦しむチェチェンが、国外へ出 る唯一の生命線として、山を砕き、谷を削って開いた戦略道路である。もちろ んロシア軍の攻撃にさらされ、難民たちは空爆の止む深夜から未明にか け、または雪や濃霧に隠れて、ジープを走らせる。凍てつく川を男たちが車を 担ぎ上げて渡る。
標高2000メートルのグルジア国境のシャティリには、ロシア軍の検問はない。 しかし、グルジア国境警備軍に300ドルを払い、家族連れ、女子供、老人だけ が越境することができる。ここで多くの家族が、父親、夫、兄弟と生き別れて いる。越境できない難民数百名が、幾日も国境に野営している。ここから首都 トビリシを経由して、ビリキヤニ、ドゥイシ村にたどり着いた難民は、なけな しの現金も底をつき、身ひとつになっている。
年明けにかけて、ロシア軍は大量のパラシュート部隊を投下し、この戦略道路 をめぐる激戦が続いた。現在はロシア軍の支配下に置かれている。
チェチェン民族のすべての世代が、民族存亡の危機を体験した。チェチェンの 子供たちは、その無垢の心に親たちの嘆きを、怒りを、悲劇を、絶望を、全身 全霊込めて記憶に刻み込んでいく。 それは民族全体の記憶の深淵に沈殿し、 伝承されつづける。 彼らがそれほどの苦難の歴史を経ながら、これまで独自 の誇り高く清らかな精神文化を保ち得たことは、見事というほかはない。
前回(94〜96年)のロシア連邦軍の武力攻勢では、チェチェン民族全体が燃え 上がる独立の炎となった。延べにして民族の総人口を圧倒するロシアの大軍を 撤退させたとき、人々はもはや連邦に戻ることはありえない、ついに独立を勝 ち取った、と口々に叫んだ。しかしすでにそのとき、チェチェン民族自体がほ とんど回復不可能なまでに深く傷ついていたのである。
私が最後にチェチェンを訪れた98年夏、10名のチェチェン兵士が24時間体制で 護衛についた。外国人が町を自由に動くことはできなくなっていた。人質誘拐 がチェチェン社会を蝕む疫病のように蔓延していたからである。国際社会から 孤立し、あらゆる面で袋小路に追いつめられた社会は、国家運営に挫折し、分 解しようとしていた。
私たちを迎えたマスハードフ大統領、イディゴフ・チェチェン議会議長は、チェ チェン民族が体験したような戦争の苦しみを世界のどの民族にも繰り返させな いような世界を願う、というメッセージを託した。バサーエフ司令官は、世界 平和のために運動する国際社会の健全な勢力と連帯してチェチェンの国づくり を進めたい、と語った。
今にして思う。国際社会はチェチェンの人々に何もできることはなかったのか。 この悲惨な事態を回避する道はなかったのか。
(中略)
今、チェチェンの戦略的要地はすべてロシア軍に制圧され、ロシア軍は山岳部 に立てこもるチェチェン戦闘部隊を包囲し、一掃する最終段階に入った、と宣 言した。崩れ果てた首都グロズヌイでは、廃墟を要塞として立てこもる2000の チェチェン戦闘部隊と、圧倒的優勢を誇るロシア軍とが死闘を続けている。 おそらく世界の戦争史に、このグロズヌイの攻防戦は、特別な意味を込めて残るであろう。
前回の戦争時から最も高潔な指導者として尊敬を集めていたザカエフとゲラエ フの二人の指揮下にある部隊は、ここでグロズヌイと運命を共にする覚悟であ る。彼らはすでにチェチェン民族に語り継がれていく神話の英雄となっている。
私には、どのような形でこの戦争が終わろうとも、今地上からかけがえのない 神話的な民族の美しい魂がまさに消滅しようとしているように思われてならな い。それは21世紀の文明の方向を暗示しているようだ。
ドゥイシ村で見た、ひとつの光景が脳裏に焼きついている。ひとりの男が、町 外れの道路脇にしゃがみこんで、小さな川が流れるのを凝視している。男はこ こに来て以来、幾日も幾週間もそうしたままじっと動かない。男を取り囲む外 の世界はもう視野にはないかのように。
目の前で家が爆弾の直撃を受け、中にいた親も妻も子供も、すべてを一瞬にし て失ってしまった男の姿である。私はそのそばまで来て、男の身体から異次元 の異様な光があたりに放射しているように感じた。それは強力な力で私を射た。 その姿は、静かにして神聖な、そして厳かにして恐ろしい、チェチェンそのも のを見るようであった。