台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会
台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 1999.10.16
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台湾の「慰安婦」提訴へ


台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会

 99年7月14日、韓国・フイリピン・中国等に続いて台湾の日本軍元「慰安婦」 被害当事者が日本政府に対して謝罪と賠償を求め、東京地方裁判所へ提訴した。い わゆる「慰安婦」訴訟として、8番目のケースである。

 最初、韓国などで元「慰安婦」被害者がなのりでていても、台湾では元「慰安婦 」の女性の存在は確認されていなかった。しかし、92年2月、日本の防衛庁研究 図書館から発見された台湾軍司令部から南方方面軍にあてた3通の電報が、台湾の 女性50名をサラワクへ送る渡航許可証発行の許可を得る内容だったため、台湾に も「慰安婦」にさせられた女性がいることを確信し、すぐさま同年2月、ホットラ インを設け、寄せられた66件の情報から調査を開始したのが始まりとなった。現 在42名の元「慰安婦」の存在が確認されている。このなかには96年に婦女救援 基金会に申請してきた原住民の女性たちも含まれている。裁判の原告は、42名中 9人である。

 数年前、証言のため来日した当事者たちは、公に名前と顔を出すことを避け、衝 立の陰からしか証言しなかった。もちろん台湾社会においては沈黙を続けていたが 、韓国やフイリピンなどの被害者と交流するなかで、勇気をもって顔と名前を最初 に出した女性が黄阿桃さんだ。黄さんは、1923年生まれ。家が貧しかったので 住み込みで写真館で働いていた。20才のとき、看護婦を募集していることを友達 が教えてくれる。読み書きができなかった黄さんは炊事でもいいといわれ、応募し た。高雄から浅間丸という船でマカッサルへ行き、そしてバリックパパンへいく。 途中、爆撃に会い、片目を失明し、卵巣も摘出する。「慰安婦」の仕事と知ったと き、怒り、抵抗したが無駄だった。どうせ死ぬしかないのならと泣く泣く従った。 以後1日20〜30人の相手をさせられたが、金は帰国するとき、まとめて払うと いわれ1銭も受け取っていない。1945年にようやく帰国した。

 台湾の女性が「慰安婦」にされた状況は、前述の黄さんのように仕事があると騙 され、東南アジアへ送り出され、行った先の慰安所で、騙されたことを知ったが帰 るに帰れず、強性的に日本軍の性の処理をさせられているが、山地民族の女性たち の場合は、居住している地に駐屯していた日本軍の部隊で裁縫など仕事をするよう にと、派出所の日本人警官に呼び出され、最初の2〜3カ月は裁縫や洗濯など雑用 をさせられたが、住み込みで働き始めて3月後ぐらいたった頃、軍曹に部隊内の洞 窟にかわるがわるつれだされ、強姦された。その後、毎日の仕事を終えたあと強姦 される日が続いた。山地民族の女性の中には強姦されたとき妊娠し、子どもを生ん だ人もいる。

 山地民族の多くはクリスチャンである。一人の女性は、フィリピンに軍夫にとら れていた婚約者が帰国したとき、すべてを隠したまま結婚したが、夫に秘密をもっ ていることに耐えられず、1992年夫がガンで亡くなる前、すべてを告白した。 夫は何十年も苦しんできた妻を許した。

 日本は、台湾を50年余も長きにわたって植民地にしてきた。そして日本は中国 と国交が成立した時点で台湾と断交した。そのため、2国間条約は結ばれていない ことは良く知られている。日本政府は、台湾に対しては補償はすんでいると弁明で きないのだ。

 とはいえ、今や日本の現状は、日の丸・君が代の法制化など右旋回へ足並みそろ えた感があり、このなかで日本政府の戦争責任を明かにしていこうとすること、元 「慰安婦」にされた女性たちの人権と正義を回復していこうとすることは前途多難 である。

 しかし50年もの沈黙を台湾の女性たちが破り始め、みずからの尊厳をとりもど していこうとすることの意義をかみしめながら、加害の側の私たちも、阿媽(あま 。中国語でおばあさんの意)の思いに応え、共に歩んでいきたいと思う。


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