盧満妹 さん

 

小さいとき兄弟姉妹が10人以上いましたが、養女として別の家で育ちました。

養父母は私をたいへんかわいがってくれましたが、家は貧しく養母はお茶摘みをし、養父は傘などを地方を回って売ったりしていました。

17歳のとき、海南島で看護婦の助手を募集していると声をかけられましたが、文字が読めなかったので食堂でウエイトレスの求人があるといわれ、いつもいっしょに遊んでいた友人2人といっしょに行きました。

私は、家計の助けになると思ったのです。

何日も船にゆられて、そこに着いてはじめて、そこが食堂ではなく、慰安所であることを知りました。

どうにかして逃げようとしました。

そこには台湾人の女も日本人の女もいました。

慰安所の親方は日本人の男で、わたしたちに毎晩客をとらせ、コンドームを配りしまた。

最初のときは恐ろしくて激しく抵抗しましたが、とうとう日本兵に強姦されてしまいました。

その後わたしは妊娠しましたが、それから8ヵ月以上も接客を強要されました。

その後わたしは病気になり、利用価値がなくなったのかもしれません、医師が証明書を出してくれて、自分で船のキップを買って台湾に帰りました(お金はチップなどを貯めていたものです)。

帰ってから男の子を出産しましたが、生まれた子は38日目に死にました。

両親もあいついで世を去り、わたしは土木工事やセメント工事の下働きをしました。

故郷の人たちに、わたしが海南島へ行って「慰安婦」をしていたことが知られると、わたしの評判は悪くなりました。

38歳のとき、人の紹介で結婚しました。

夫は、はじめはわたしに対してよかったのですが、あとでわたしの過去がわかると、外に女をつくりました。

わたしたちの感情に隙間が広がりました。

わたしたちには息子ができましたが、小児麻痺にかかり、両足にハンディをもってしまいました。

いまは、その夫は亡くなっています。

わたしは息子ともらった「孫」といっしょに暮らし、警官の服の洗濯をして、わずかな収入を得て暮らしています。

わたしは日本人を恨んでいます。

日本の若者はこのことを知りません。

台湾の若い世代のどれだけの人が知っているでしょうか。

だれがわたしたちの苦しみを理解できるでしょうか。

(1926年生まれ。台湾 新竹県、客家出身)

17歳のとき、海南島で看護婦の助手を募集しているといわれた。文字が読めないといったら食堂などの給仕の仕事があると言われ、ついたところが「慰安所」あった。
貧しい暮らしだったので家族を助けようと思ったのに・・・。

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台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会