(1922年生まれ。ミャンマーに連行される)
1942年、日本軍に捕らわれたあの日のことを、わたしは永遠に忘れない。
そのときわたしは20歳で、広州の小さな紡織工場で働いていました。
突然、銃を持った男たちをつれた日本人の将校がやってきて、わたしと2人の同僚を捕まえて、トラックで、どこかの長屋に閉じ込めました。
そこにはたくさんの部屋がありました。
わたしたちは、出してくれと泣き叫びましたが、ドアには鍵が掛けられ、窓は釘を打って開かないようにしてしまいました。
そのうえドアの外には看守役の日本兵がいて、逃げることはとうていできません。
その後、毎日、大勢の女の子が捕らえられてきました。
年齢は17歳から21歳ぐらいです。路上や市場で捕まった人もいれば、家で戸口調査の名目で捕まった人もいました。
この先どうなるのかわからず、とても恐ろしい思いでした。
10数日後、人数が250人に達すると、一晩のうちに日本軍の命令で広州の埠頭に送られ、船に乗せられました。遠くへ送られるようでした。
1ヵ月あまり後に、サイゴンで船を換えました。
すでに日本軍区に入っていました。
表面的には誰にも監視されていないようでしたが、実際にはいたるとこに視線がありました。
逃げようとした女の子が捕まって、連れ戻され、日本軍に電気椅子に座らせられました。
日本軍は、各部屋から2、3名の女の子をつれだして、その刑罰の様子を見るように命令し、逃亡するものには重い刑を科すといったのです。
最後にヤンゴンに着くと、日本軍の車に分乗させられビルマの各軍区に送られました。
わたしはヤンゴンの軍部に送られました。
わたしたちは軍区の近くに連れていかれ、わたしたちの面倒を見るという日本人のオバサンが来ましたが、名目は面倒を見るという親切なものでしたが、実際は監視するための人でした。
このあと軍医が来て、わたしたちに服を脱がせて検査をしたあと、将校の相手を強要しました。
最もひどかったことは、敗戦のとき、日本軍は彼らの非人道的な残忍な行為を隠すために、私たちを殺害したことです。
生き残ったものは20数人にすぎません。
生き残れたわたしは幸いなのか、不幸なのか。
めちゃくちゃにされた身体。
避妊薬性病予防薬の定期的服用からくる絶え間ない痛み。
いま、わたしは老い、そして病んでいます。
いつになったら日本政府の謝罪が得られるのでしょうか?
わたしの潔白を返してください!
〒157-0061 東京都世田谷区北烏山 1-51-12
日本キリスト教会 東京告白教会気付
電話/FAX連絡先 03-5166-0191