船で広東の寒山寺から香港、シンガポールを経て、最後にビルマに
着きました。
わたしの乗った船が潜水艦の爆撃を受けて、そのときの衝撃音で耳が聞こえなくなりました。
ビルマに着くと車に乗せられ、部隊について田舎や山間部を通りすぎました。
そこには朝鮮人、広東人の慰安所もありました。
慰安所は、わたしたちに1ヵ月に半ダースのコンドームしかくれなかったので、とても足りず、わたしたちは川に行って洗いました。
軍医は毎週わたしたちの身体検査をしましたが、妊娠してしまう人もいました。
そんな人たちも、妊娠7、8ヵ月まで休むことができませんでした。
わたしは故郷を思い、家を思い、いつも歌を歌いながら泣いていました。
まるで籠の鳥で、自由はなく、いつになったら故郷に帰れるのでしょう。
戦争が終わって、やっと台湾に帰りました。
行く前に好きな男性がいました。
彼はわたしにとても好くしてくれ、わたしが帰ってきたら結婚しようといっていました。
けれど、わたしが帰ったとき、その人はすでに別の人と結婚していました。
実際にはわたしの身体はさんざん痛めつけられ、子供も産めなくなって、結婚なんてとてもできませんでした。
30歳を過ぎたころ、すべてに絶望して、睡眠薬を16錠飲んで自殺をはかりました。
指の甲が黒くなり、道端に横たわっていたわたしは、道行く人にたすけられました。
その後、わたしは35歳まで、あちこちを流浪する生活をしていました。
41歳のとき、姉の紹介で後妻になりました。
当時のわたしは、運命に見はなされ、とても貧しく、嫁入り道具はなにひとつありません。
後妻にいった先には4人の女の子と5人の男の子がいて、結婚生活は想像していたほどいいものではありませんでした。
集金の手伝いやら子供の世話、炊事などで、ただ忙しいだけの日々を送りました。
海外で「慰安婦」とされた女は、だれにも必要とされないし、人から軽視されると、わたしは思いました。
心のなかには苦痛がつまっていて、泣いても涙も出ない!
わたしはほんとうに日本人に腹を立てています。
彼らはいったのです、
お国のために、
国家のために忠節をつくせと。
それならば、わたしたちは誰のためだったのか。
日本人は、日本人には行かせずに、わたしたちばかりを行かせた。
そして、わたしたちをだれも必要としないほどめちゃめちゃにし、人に軽蔑されるようにした。
日本人は、いまでもまだ過ちを認めようとせず、知らないふりをしています。
こんなひどい話はありません!
わたしは日本政府に正式な謝罪と賠償を要求します!
高宝珠
さん(1921年生まれ。2006年2月18日死去)
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