書評『靖国問題』高橋哲哉 ちくま新書
定価(本体価格720円+税)
「靖国」とはいかなる問題なのか。この本は小泉首相の靖国参拝をきっかけに再浮上した「靖国」という問題を、感情、歴史認識、宗教、文化、そして国立追悼施設の各方面から解き明かす好著である。以下、著作にそってその内容をかいつまんで紹介したい。
第一章 感情の問題――追悼と顕彰の間
第一章の冒頭は、その小泉首相靖国参拝違憲訴訟の一シーンから始まる。大阪における訴訟では小泉首相および国に加えて靖国神社が初めて被告となった。これに対して、靖国神社の補助参加人を希望する遺族の一人から陳述書が提出され、それが法定で読み上げられた。そこには、靖国神社に対する激しい感情的な思いが込められていた。
「靖国神社を汚すくらいなら私自身を百万回殺してください。たった一言靖国神社を罵倒する言葉を聞くだけで、私自身の身が切り裂かれ、全身の血が逆流してあふれ出し、それが見渡す限り、戦士達の血の海となって広がっていくのが見えるようです。」
(ちなみにこの時、私(紹介者)自身も傍聴していたのであるが、仲むつまじく暮らしていた夫を奪った責任者をどうしてここまで愛することができるのだろうかとあっけにとられたというのが正直なところであった。そこを解き明かすことなしには靖国の問題は一歩も進まないように思った。彼女らの耳にはアジアの叫びは決して入ってこないのである。植民地支配と侵略戦争の犠牲になった怒りと悲しみをいくら訴えても、それは夫を祀っている靖国神社への「罵倒」としか聞こえてこないのである。)
このような「靖国信仰」の典型的な表現が、1939年に『主婦の友』に掲載された「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」という記事に現れている。息子を失った母たちはみな「浄福感」を口にしてやまない。
「あの白い御輿が、靖国神社へ入りなはった晩な、ありがとうてありがとうてたまりませなんだ。間に合わん子をなあ、こないに間にあわしとてつかあさってなあ、結構でございます。」
「私らがような者に、陛下に使ってもらえる子を持たしていただいてな、ほんとうにありがたいことでござりますわいな。」
「靖国さまへお詣りできて、お天子様を拝ましてもろうて、自分はもう、何も思い残すことはありません。今日が日に死んでも満足ですね、笑って死ねます。」
これらの語りを著者はこう分析する。
「それはたしかに多かれ少なかれ真実な感情表現なのだが、しかし同時に虚偽なのだ。真実でありながら虚偽なのだ。なぜ虚偽かといえば、それらが戦争の現実に――戦場の戦死の現実に――触れていないからだけでなく、何よりも戦死に対する『懐疑煩悶』を、そして悲哀の感情を抑圧もしくは無視しているからである。」
この座談会の他の個所の発言では「もう子どもは帰らんと思やさびしくなって仕方ないが」とか「やっぱり可哀そ」といった悲哀の感情が表れている。「それらはたしかに、語り出されるやいなや心理的に抑圧され、『名誉』の感情、『天子様に差し上げた子』を『天子様に使って頂く』という感情に取って代われるのだけれども、少なくともここには、遺族における悲哀と名誉の感情の葛藤が確認できるのである。」
ひとり息子が戦死した母親は「喪失の悲しみ、むなしさ、わりきれなさを埋める意味づけを求める」。そこに提供される強力な意味づけが、「お国のための名誉の戦死」であった。
では、なぜ国家はそのような意味づけを提供するのであろうか。「善意で」遺族の苦しみを慰藉しようとするためではない。著者はそこに「国家としての冷徹な計算が働いている」と指摘し、その答えを福沢諭吉が主宰する「時事新報」の論説「戦死者の大祭典を挙行す可し」(1895年)に見出す。そこには、戦争に備えて死を恐れずに戦う兵士の精神を養うために、可能な限りの栄光を戦死者とその遺族に与えて「戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず」、つまり「戦死することが幸福であると感じさせるようにしなければならない」ということが主張されている。そのための方策として、「帝国の首都東京に全国戦死者の遺族を招待して、明治天皇自らが祭主となって死者の功績を褒め讃え、その魂を顕彰する勅語を下すこと」こそが、戦死者とその遺族に最大の栄誉を与え、戦死することを幸福と感じさせることになるのである。
戦死者を出した遺族の悲しみの感情を喜びの感情に変えてしまう「感情の錬金術」、これこそが靖国信仰を成立させるのであると著者は指摘する。
「その悲しみが国家的儀式を経ることによって、一転して喜びに転化してしまうのだ。悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。まるで錬金術によるかのように、『遺族感情』が180度逆のものに変わってしまうのである。」
「この『感情の錬金術』を中核とする『英霊顕彰』の儀式は、時代と地域によって、神道式にも、仏教式にも、さらにはキリスト教式にもなる」と著者は指摘する。(さらに第五章の靖国神社に替わる国立追悼施設の問題との関連で言えば、“無宗教的にもなる”と付け加えた方がいいかもしれない。)
靖国信仰から逃れるためには必ずしも複雑な論理を必要としない、と著者は言う。
「悲しいのに嬉しいと言わないこと。それだけで十分なのだ。まずは家族の戦死を、最も自然な感情にしたがって悲しむだけ悲しむこと。十分に悲しむこと。本当は悲しいのに、無理をして喜ぶことをしないこと。悲しさやむなしさややりきれなさを埋めるために、国家の物語、国家の意味づけを決して受け入れないことである。」
(ここまで読んで、私(紹介者)は、再度冒頭の「靖国の妻」に思いを馳せた。彼女はいわば悲しむ権利を国家に奪われた人なのだといえよう。自らの最も自然な感性を失ってしまった人が他人の悲しみに共感できる感性を持てないというのは当然のことなのかもしれない。)
第二章 歴史認識の問題――戦争責任論の向うへ
靖国問題を「A級戦犯」合祀問題ととらえることは、靖国問題を極度に矮小化することにつながりかねないと著者は指摘する。
「日本では、中国は『A級戦犯』合祀を理由に日本の首相の靖国神社参拝を批判することによって、日本の戦争責任を徹底追及しているのだ、という印象が広まっている。しかし私の見方は、ある意味で逆である。中国政府は、この問題を『A級戦犯』合祀に絞り込むことによって問題を限定し、一種の『政治決着』を図ろうとしているのである。『A級戦犯』合祀を問題にするということは、逆に言えば、それ以外は問題にしないということにほかならない。」
「戦争指導者のみを問題とし、実際に侵略行為を行なって中国人民を傷つけた日本軍兵士については、『日本軍国主義者』によって戦争に動員された『被害者』と見なすというこの立場は、実際に被害を受けた中国人民から見れば大幅な政治的譲歩であろう。」
(被害者の側からすれば色々事情があるとしても、私たち加害者の側が「矮小化」することは断じて許されないことである。最近中国で起きた反日デモも、こうした歴史的背景を見れば、「大幅な政治的譲歩」をした上での“最低限度の約束”すら守らない日本政府に対する怒りの表明として当然のことであろう。)
もしも仮にA級戦犯の分祀が実現した場合どうなるか。日本の首相が靖国神社に公式参拝しても中国政府や韓国政府からは何の抗議も発せられず、さらに天皇の「御親拝」までが復活するかもしれない。「それは、A級戦犯に主要な戦争責任を集中させ、彼らをスケープゴート(犠牲の山羊)にすることで昭和天皇が免責され、圧倒的多数の一般国民も自らの戦争責任を不問にした東京裁判の構図に瓜二つなのである。」
さらに「戦争責任」という言葉もまた歴史認識の進化を妨げていると著者は指摘する。
「『戦争責任』とは何か。戦後日本社会でこの言葉は、最も狭くは米国との戦争に敗北した責任を意味し、もっとも広く理解される場合でも、東京裁判で裁かれた責任、東京裁判で問われた責任という意味を超えることはない。」
つまり、「満州事変」とそれ以降の中国侵略と太平洋戦争の主要な戦争責任者として裁かれたA級戦犯に問題を限定することで、それ以前のすべての戦争が見落とされてしまうことになるのである。
靖国神社の歴史を記した『靖国神社忠魂史』によれば、「植民地獲得と抵抗運動弾圧のための日本軍の戦争がすべて正義の戦争として記述され、そこで死亡した日本軍の指揮官と兵士が「英霊」として顕彰されてきたことが一目瞭然である」。
例えば、そこには台湾の植民地化とその抵抗運動への圧殺が、臆面もなく正しいものとして記されている。
「台湾島がわが領土となって以来、そこに棲んでいる蕃人蕃族をどうして治めてきたか、またこれまでには、どれだけの尊い犠牲を払ってきたかを紹介しようと思う。」
「蕃人の相手はわけもないように思われるが、その実決してそうではない。(中略)討伐に携わる人々の、辛酸労苦というものは実に大したもので、同じ御国のためとは云いながら、文明の敵を対手として花々しく戦場で討死を遂げたのと、これとを比べるとその差はまた格別であるから、我々はこれ等の人々に対しては多大の感謝と同情を表さねばなるまい。」
「爾来理番は、その局に当たった人々の苦心で、成績は年とともに挙がり、初め感銘に従わなくて反抗した蕃人等も、しまいには帰順して有り難がるものがだんだんと多くなり(中略)、けれども、まだまだ理想通りには行かず、時折り大きな蕃害があったので、(中略)五箇年計画で毎年大討伐を続け、徹底的に凶蕃を懲らして理番の効果を挙げようとし、大正三年までこれを行って、初めの目的を遂げることができた。(中略)これに与って国に殉じた、忠勇義烈の士の賜物として、その御霊を長えに仰ぎ弔わなければならぬ。」
小泉首相の靖国参拝について、大阪では二つの訴訟が取り組まれている。そのうちの一つにおいて、台湾の先住民にして立法議会議員、高金素梅(民族名チワス・アリ)氏が原告の筆頭となっているのは、彼女がこれまでの台湾の教育で知らされていなかった日本の残忍な植民地支配を知ったためである。
「アジア太平洋戦争と日中戦争を中心とする『戦争』イメージでは、それ以前にあった植民地獲得のためのこうした無数の戦争がどうしても背景に退いてしまう。ほとんど知られていないといっても過言ではない。靖国神社の死者の圧倒的多数を占めるアジア太平洋戦争期の『英霊』たちは、『国を護る』ために戦死したと言われるが、彼らが護ろうとした国とは、それ以前の多くの戦争によって構築された植民地帝国に他ならなかったのであり、それ自体が日本軍のアジア侵略の産物にほかならなかったのである。」
そしてまた、靖国神社には旧植民地出身者の戦死者が合祀されている。遺族には戦死通知すら送らずに、合祀の手続がなされた例も少なくない。植民地支配と弾圧の加害者と被害者とが同じ「護国の神」として祀られていることに屈辱を感じた台湾・朝鮮の遺族が合祀取り下げを要求しても、神社側は「戦死した時点では日本人だったのだから、死後日本人でなくなることはありえない」、「内地人と同じように戦争に協力させてくれと、日本人として戦いに参加してもらった以上、靖国にまつるのは当然だ」と述べて、その要求を拒絶した。靖国神社は死者をも永遠に植民地統治下の「捕囚」にし続けようとしているのである。
第三章 宗教の問題――神社非宗教の陥穽
首相が靖国神社を参拝するたびに、その行為を「違憲」とする提訴がなされてきた。裁判は民事訴訟の損害賠償請求という形を取らざるを得ないので、原告の請求はことごとく退けられているが、判決文の中では首相の参拝行為を「違憲」、「違憲の疑い」と判断したものが複数あり、「合憲」の判断が一つもないことは注目に値する。こうした中で、首相や天皇の公式参拝を定着させたい人の中から靖国神社を宗教法人ではなく、「特殊法人」化して、憲法の政教分離原則に抵触しないようにする試みがなされてきた。
靖国神社自身の反対によって実現しそうにない話ではあるが、実は、戦前・戦中において、神社神道は、「国家の祭祀」であって、他の宗教とは区別されたものであった。仏教やキリスト教に一定の「信教の自由」を与える反面、神社神道はどんな「宗教」を信じる者も日本国民である限り、その祭祀儀式を受け入れなければならないということになっていたのである。
1932年、熱心なクリスチャンだった二人の上智大学生が靖国神社の参拝を拒否した事件が起こり、反カトリックキャンペーンに発展した。
「上智大学はこの事件で存亡の危機に瀕したが、結局、全面屈服と引き替えに危機を逃れた。学長以下全校謹慎したうえ、学長・神父・学生がこぞって靖国神社に参拝し、『忠君愛国の士を祀る神社に参拝することは、国民としての公の義務に関わることであって各自の私的信仰とは別個の事柄であることを了解』したと文部省に伝えたのである。」
日本のキリスト教会はこのような見地をもって、カトリックもプロテスタントもこぞって、その後むしろ戦争に積極的に協力していくことになった。伊勢神宮に参拝して天照大神に教団の発展を祈った日本基督教団(プロテスタント系)は、神社参拝に反対する朝鮮の教会に赴き、下記のように述べて神社に参拝するよう弾圧を受けていた牧師らを説得した。
「諸君の殉教精神はりっぱである。しかし、いつわが(日本)政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらいたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したにすぎまい。[中略]明治大帝が万代におよぶ大御心をもって世界に類なき宗教の自由を付与せられたものをみだりに遮るは冒涜に値する。」(「福音新報」1937年)
「『国家の祭祀』と『宗教』の分離は、日本のキリスト者が朝鮮のキリスト者に『転向』を迫る切り札にもなっていたわけである。だが、それにもかかわらず、朝鮮キリスト者の神社参拝拒否運動は続けられ、総督府の弾圧によって投獄されたキリスト者二千人余りの内、約七〇人が神社参拝拒否による者で、そのうち五〇人が獄死したと言われる。」
「国民としての公の義務」と「各自の私的信仰」を区別することで、宗教の自由は守られるどころか、「宗教」の「国家の祭祀」への完全吸収という事態に帰結してしまった。これがどれほど無残でおぞましいものかを示すのが、下記の「靖国の英霊」と題する日本基督教団の論説である。
「今日、国民の生活は捧げられた血によって護られているのである。」
「この血の尊さは英霊を神と祀る日本の伝統のみがよく知る所である。国に捧げられた血を尊しとする精神は他国にもあるであらう。(中略)然しこの血に最高の意義を見、祭神と讃へる精神は、我が日本をおいて外にはない。」
「血の意義の深さを伝統として有した初代日本基督者が、キリストの血の意義に初めて触れた時心躍ったのは当然である。キリストの血に潔められた日本基督者が、護国の英霊の血に深く心打たれるのは血の精神的意義に共通のものがあるからである」(日本基督教新報(1944)より)」
(今日の日本のキリスト教会は、戦時中のこのような戦争協力を深く自己批判し、平和運動の中で最も精力的な部分の一つとなっていることは申し添えておかねばならない。それにしても、教義的に最も神社信仰に相容れないと思われるキリスト教がこのような論を展開するまでに至るとは、「日本の伝統」や「愛国心」、「国民としての公の義務」を無批判に受け入れることの恐ろしさがつくづく実感される。そして、反動勢力がどうしてそういった観念にこだわるのかもよく理解できる。)
靖国神社は宗教ではないという見地は、神社だけでなく政府においても、戦後一貫して存在している。1969年にキリスト者遺族の会12人が合祀取り下げ要求をした際に、神社側は次のように答えた。
「靖国神社は憲法にいう宗教ではない。日本人ならだれでも崇敬すべき“道”(道徳)である。靖国神社のこの本質と祭祀の内容は、戦前も戦後も、また将来、靖国法案が成立して国営化されたあとも全く変わらない。」
「キリスト者も偏見を捨てて、和やかに、宗派を超えて、国のために忠義を尽くした人びとを祭るべきではないか。」
1978年8月15日に福田赳夫首相が靖国神社に参拝したときの安倍晋太郎官房長官の発言においても、靖国神社は「宗教を超えた」社であり、神道を信じるか仏教を信じるかを「超えた立場で」靖国神社の参拝を続けている、ということが表明されている。
第四章 文化の問題――死者と生者のポリティクス
靖国を「日本の文化」であると捉える見方は数多くある。「中国文化は死者を赦さない文化、日本文化は死者を赦す文化」、「日本人は過去を水に流し、韓国人は過去の恨(ハン)をいつまでも抱えている」等々、「文化の違い」を強調し、各国の文化は尊重されるべきだという一種の文化多元主義によって、侵略と植民地支配の過去を水に流す「日本文化」の権利を主張している。
これらの文化論の中でも最も洗練されたものとして、筆者は江藤淳の文化論を取り上げる。
江藤淳は「日本人にとって一番大切なもの」は、「日本の国柄そのもの」であると述べる。それは「『記紀』『万葉』以来今日に至る日本という国の持続そのものが織りなしてきたもの」であり、「その上に個人としての記憶も民族としての記憶も全部堆積している」というのである。
「靖国神社公式参拝問題のように、国がどのように戦没者に対する態度を決定するかというがごとき問題の場合には、主として議論の対象にしなければならないConstitutionとは、文化・伝統・習俗の一切を包含した国の在り方そのものであって、日本人がいかにこの国で生き、かつ死んでいったかということの積み重ね以外のものではあり得ない。つまりこれは広い意味で、そして深い意味で、日本文化の問題なのです。その文化の文脈の中で死者はどのように祭られ、生者は死者をいかに遇してきたか。それがそのまま今日でも、滞りなく行われるのかということが、根本問題のはずではありませんか。」
「生者だけが物理的に風景を認識するのではない。その風景を同時に死者が見ている。そういう死者の魂と生者の魂の行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している。」
「断絶と連続とが同時に存在しているのが、日本人と死者との関係であって、だからこそ、日本という国土、日本人の属目する風景、日本人の日々の営みは、常に死者との共生感のうちにあるといわなければならない。」
(江藤淳『生者の視線と死者の視線』(1986)より)
しかしながら、江藤の論は、靖国神社がいったい誰を祭っているのかということを具体的に考察する段になると、大きなほころびを見せる。死者と生者の共生感を言うなら、なぜ靖国神社では戦災による民間人の死者は祭られないのか、また敵側の戦死者、日本の国内で戦死した外国人の死者はなぜ祭られないのか。この点について江藤はこう述べる。
「中国といえば、これに関連して敵味方の死者をともに弔わないかという議論がある。心にもなく敵味方の死者を弔うという偽善を行う必要がどこにあるか。どこの国だって、自国の戦死者を、自国の風習と文化に従って弔っているじゃありませんか。」
「靖国の論理を日本『特有の』文化伝統から説明しようとしたのに、ここで江藤は、日本の文化伝統の中に存在した『敵味方の死者を弔う』という方式を完全に無視して、『どこの国だって』している、日本に『特有』でない方式に訴えなければ、靖国を説明することができないのである。」
著者は、古代ギリシャから現代に至る古今東西の文化の中には、自国・味方の死者のみ祭る遇し方もあれば、その逆もあり、その両者の葛藤、対立が存在してきたことを指摘する。結局のところ、「死者の遇し方」に日本文化特有の一貫した伝統など存在しないのである。
第五章 国立追悼施設の問題――問われるべきは何か
最後に国立追悼施設の問題が示される。靖国神社に替わる無宗教の追悼施設が構想されている。この施設では、これまで批判の的となってきた宗教性を取り払い、追悼の対象に自国の軍人の戦死者だけでなく民間の戦争被害者や外国の将兵や民間人を含むということになっている。これは、中国政府や韓国政府によってこれまでのところ好意的にみなされている案であるだけに、靖国問題をねじ曲げる危険性がいっそう高いとして、著者は警鐘を鳴らしている。
こうした新しい施設の設置を構想して2001年12月に福田官房長官の私的諮問機関として設置された「追悼懇」の報告書では、なんと平和憲法が「第二の靖国の論理」のためのアリバイ作りに利用されてしまっているのである。
「この施設は、日本に近代国家が成立した明治維新以降に日本の関わった戦争における死没者、及び戦後は、日本の平和と独立を守り国の安全を保つための活動や日本の関わる国際平和のための活動における死没者を追悼し、戦争の惨禍に思いを致して不戦の誓いを新たにし、日本及び世界の平和を祈念するための国立の無宗教の施設である。」
「戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をしたものの中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。」
たとえば、北朝鮮の「不審船」とされる艦艇を発見した海上保安庁の巡視船が、その艦艇を銃撃したところ、「不審船」は沈没してその乗務員が全員死亡した場合、海上保安庁側に死者が出れば、追悼の対象となるが、「不審船」乗務員は、追悼の対象から排除される。あるいは、イラクで自衛隊が武装ゲリラと交戦し、双方に死者が出た場合、自衛隊の死者は追悼の対象となるが、イラクの武装ゲリラの死者は追悼の対象から排除される。
「驚くべき事態である。『過去に日本が起こした戦争』については日本人の死没者も外国人の死没者も区別なく追悼対象にする新たな追悼施設は、『戦後』の武力行使については、日本人の死没者だけを追悼対象にするのであって、外国人の死没者は追悼対象から排除される。なぜなら、日本人の死没者は、『日本の平和と独立を守り国の安全を保つため』であったり、『日本の関わる国際平和のため』であったり、正しい武力行為の死没者であるが、外国人の死没者は、『日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する』正しくない武力行使の死没者だからだ。」
「靖国神社には『韓国暴徒鎮圧事件』の死没者、台湾における『擾乱鎮圧討伐』の死没者、満州における『匪賊及び不逞鮮人』『討伐』の死没者などがたびたび合祀された。日本軍のこれらの活動は当時も『戦争』ではなく、日本帝国あるいは日本の傀儡国家『満州国』の『平和』や『独立』や『安全』を守るための活動とされたのであり、まさに『対テロ活動』とされたのであった。」
「今後、憲法第九条二項を改定して、『自衛隊の保持』や『集団的自衛権』を認め、どれだけ本格的な武力行使を行うようになっても、それは『国際貢献』であったり、『対テロ活動』であったりするかもしれないが、『戦争』ではない。こうして『不戦の誓い』のもとで、事実上あらゆる戦争が日本国家によって正当化されていくおそれがある。」
これは今に始まったことではなく、戦前もまた、武力行使が正当化されてきたのである。
「国家が国家権力の発動としての武力行使――自衛隊の武力行使はこうしたものだ――の死没者を「無宗教」で「追悼」しようとしたとき、そこに靖国の論理が回帰してきてしまうのは決して偶然ではない。それは、靖国の論理が近代日本の天皇制国家に特殊な要素――とりわけ国家神道的要素――を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を整えているすべての国家に共通の論理に他ならないからである。」
さらにまた著者は、どのような施設を作ろうとも、それがたとえ、靖国のような国家の手による顕彰施設ではなくて、たとえば「平和の礎」のように市民の手による平和のメッセージを込めた施設であっても、いつのまにか国家の政治によって「靖国化」することがありうると警告を発する。
靖国問題は、単に戦前戦中の問題ではなく、現在そして将来にわたる日本の国家のありかたと緊密な結びつきを持っていることがわかる。一人でも多くの方がぜひこの本を手にとって読まれることを願う。
2005年5月9日 木村奈保子