[新刊紹介]
岩波フォト・ドキュメンタリー
世界の戦場から
別冊 戦争とフォト・ジャーナリズム』(広河隆一)
加害者は被害を隠す
−−命を奪われ続ける側に立つメディアが必要−−
「岩波フォト・ドキュメンタリー/世界の戦場から」のシリーズは、昨年7月、『反テロ戦争の犠牲者たち』からはじまり、この8月、『別冊 戦争とフォト・ジャーナリズム』で完結しました。
※http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0269720/top.html
※http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/026961+/top.html
全11冊と別冊は次の通りです。
『反テロ戦争の犠牲者たち』(広河隆一)
『国境を越える難民』(小林正典)
『核に蝕まれる地球』(森住 卓)
『イラク 爆撃と占領の日々』(豊田直巳)
『コソボ 絶望の淵から明日へ』(大石芳野)
『ハイチ 圧制を生き抜く人々』(佐藤文則)
『チェチェン 屈せざる人々』(林 克明)
『破壊される大地』(桃井和馬)
『フィリピン 再底辺を生きる』(山本宗補)
『パレスチナ 瓦礫の中の女たち』(古居みずえ)
『アフリカ 忘れ去られた戦争』(亀山 亮)
『別冊 戦争とフォト・ジャーナリズム』(広河隆一)
最後に出されたこの『別冊』は、他の全11冊とは異なって、5つの章のはじめにそれぞれ象徴的な写真が1枚ずつ配されているだけで、写真を中心としたフォト・ドキュメンタリーではありません。ここでは、このシリーズの編集をはじめとして、「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」の設立や『DAYS・JAPAN』の創刊なども含めて、現在広河氏が手がけていることについて、その思いが克明に記されています。そして、タイトルにあるように「戦争とフォト・ジャーナリズム」の関係はいかなるものか、フォト・ジャーナリストとはいかなる存在か、あるいはどうあらねばならないか、などについて熱く語られています。
『戦争とフォト・ジャーナリズム』 目次
1.加害者は必ず被害を隠す
2.戦場に行く動機
3.一枚の写真の力
4.フォト・ジャーナリストのアイデンティティ
5.権力とジャーナリズム
<禁止された場所にこそジャーナリストは入っていかなければならない>
「『封鎖され、ジャーナリストが入れない場所では、必ず見られてはまずいことが起こっている』というのが私の経験から導いた単純な真理だ。『加害者は必ず被害を隠そうとする』というのも私の身についた知識だった。」(「1.加害者は必ず被害を隠す」より)
●1982年9月 ベイルート
1982年、ベイルート(レバノン)のパレスチナ難民キャンプ(サブラとシャティーラ)で大虐殺が行われました。現在のイスラエル首相シャロンが、当時国防相として指揮をとったレバノン侵攻のときです。このイスラエルの侵攻によって、PLO(パレスチナ解放機構)はレバノンから撤退し、後に残ったパレスチナ難民が、イスラエル軍の包囲・封鎖と監視の下でレバノン右派民兵によって多数虐殺されたのです。犠牲者は3千人以上と言われています。
PLOの撤退によって戦闘が終わり、世界のジャーナリストたちが引き上げていく中、広河氏は、「しかし本当にジャーナリストが必要な事態は、ジャーナリストが引き上げた後に起こることが多いことを、七六年の経験から私は知っていた。」と述べています。この「七六年の経験」というのは、イスラエル建国後もイスラエル内にとどまったパレスチナ人が、イスラエルによる土地の没収に抗議して1976年にゼネストを行なった「土地の日」(3月30日)の闘争のときのことです。この闘争が行なわれた少し後に現地入りした広河氏に、ある村人が「なぜ今頃来たんだ。もっと早く来てくれたら私の息子は殺されずにすんだのに」と言ったということです。ゼネスト決行前夜、イスラエル軍・警察がパレスチナ人の村々を襲撃し、6人が殺されました。その中の一人がその村人の息子でした。その人は、ジャーナリストがいたらイスラエル軍は息子を殺さなかっただろうと言ったのでした。
「このとき私が教えられたのは、ジャーナリストには、起きてしまったことを報道すること以外に、『そうしたことが起きない』ようにする役割もあるということだった。」
※このときの状況などについては、今年1月25日に広河氏が「ピースおおさか」で講演されたときに詳細に語られました。それをまとめ紹介した[投稿]がありますのでぜひ参照して下さい。(事務局)
「【投稿】『講演 世界の戦場とメディアの課題(広河隆一氏)』に参加して」
●2001年10月 アフガニスタン
2001年9月11日の事件の後、10月7日、米軍はアフガニスタン空爆を開始しました。広河氏は、こう述べています。「しかし現場から送られてくるニュースに、私は違和感を覚えるようになった。テレビには連日、米軍によるタリバン勢力への爆撃風景が映し出される。ほとんど実況中継である。だがその爆撃の下で人々がどのような状態になっているのか、報告はほとんどない。迷った末、私は出かけることにした。」と。
パキスタンからアフガニスタン入りして、ジャララバードに着いたとき、多くの難民がいる地域まで行こうとするジャーナリストは誰もおらず、広河氏は一人で北部の難民キャンプへ向かったそうです。「そこで見たものは信じられない光景だった。難民キャンプといってもテントがない。人々は泥の壁の間に住んでいる。屋根がないのだ。道路に毛布を敷いてそこに寝ている人々も多くいた。ここには医薬品も食糧もなかった。」「十二月のはじめのことで、冷たい雨が雪に変わるころだった。薄暗い土間に二人の子どもと母親が震えながら抱き合っていた。ほんの少し動く気力も残されていないように見えた。」
「そのあといくつかの難民キャンプに行ったが、どこにもジャーナリストはいなかった。後で聞くとメディアによって差はあるものの、被害者側の記事はデスクから上には上がらないようになっていたということだった。」!!
●2002年4月 ジェニン
2002年3月末から4月にかけて、イスラエル軍による西岸パレスチナ自治区への大侵攻が行なわれ、最も激しい抵抗があったジェニン難民キャンプが封鎖されて虐殺が行なわれました。
「『封鎖された場所にこそ、ジャーナリストは行かなければならない』と私は再び自分に言い聞かせた。」と広河氏は記しています。そこでイスラエル軍の戦車に追いかけられ、「夢中で逃げて路地に飛び込んだところ、そこは五メートルほどで行き止まりだった。これまでかと思ったときに、道を隔てた家の扉が少し開き、若い男性が手招きした。私たちはそこに飛び込んだ。」
この経験を語りながら、広河氏はこう述べています。「もし私たちが見つかっていたら、パレスチナ人である彼が殺される可能性は、外国人ジャーナリストである私よりもはるかに高い。そんな危険を冒してもなぜ彼が私を助けたのか。それは封鎖されたところでおきている事件を外部に伝えることがジャーナリストにしかできないからであり、時には人々が生き延びるチャンスは、何がおきているか外部に伝えられるかどうかにかかっているからである。危機に瀕している場所では、住民とジャーナリストの思いが重なり、住民の支援を得て私たちジャーナリストが仕事をすることが多い。」と。
<「反テロ戦争」に迎合しないジャーナリズムの創出へ>
「戦争の暴力装置が働いている中で、被害者のことを伝えようとしないジャーナリストはジャーナリストではない。戦争報道とは兵器の優秀さを伝えることではない。トマホークが発射された瞬間を報道することでもない。それらの兵器が人々の上に何をしたのかを伝えることである。被害者、犠牲者を伝える、そういうような雑誌が必要だと思った。こうして私はイラク爆撃の一周年の日に合わせてフォト・ジャーナリズムの月刊誌『DAYS JAPAN』を発刊した。」(「5.権力とジャーナリズム」より)
2002年4月から6月にかけて、ジェニン難民キャンプなどを取材する中で、広河氏を中心に、「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)」の設立が準備されました。その理由を、広河氏は次のように語っています。
「ひとつはお互いにフリーランスの取材の安全を守ることである。そして次にアメリカの『反テロ戦争』に追随する日本のマスメディアの流れの中で、それに迎合しないでフォト・ジャーナリストとしての志を守りとおすためである。9・11同時多発テロ事件以降、戦争を行ったり、戦争に協力した国々は、被害者の側の報道を、徹底して規制した。メディアによって違いはあるものの、全体として戦争容認の流れに飲み込まれる傾向が明らかになっていく。そうした動きに順応する写真や映像だけが好まれ、フリーランスの多くもそうしたメディアの要求を果たさないと仕事がもらえなかった。私たちは自分たちの取材姿勢や報道の仕方をお互いに検証し、正す必要があった。」
●2003年 イラク
広河氏は、バグダッドには3回取材に赴いたそうですが、2回目の爆撃下のバグダッド取材から帰国したとき、「日本ではばかげた従軍取材が毎日流されていたと知った。」といいます。
「彼らは被害者の傍らを気付かずに通りすぎたのだ。彼らが通過した幹線道路からほんの数キロはなれたところでは、空からクラスター爆弾がばら撒かれており、そこでは市民が苦痛にあえぎ死んでいたのだ。しかもこの道では、町から脱出しようとした多くの人々が米軍に狙撃されていた。従軍記者たちはそんなことへの想像力もなく、米兵と気持ちを通わせ、見事にアメリカのメディア操作と管理に乗ってしまったのだ。」
「戦争報道とは、兵器の優秀さや、爆撃機の出撃の様子を報告することではない。戦争においてもっとも重要な報道は、被害者の報道である。...現場で、そして日本で私たちジャーナリストは戦争をする側に絡めとられ、敗北し続けているのだった。メディアを自分たちの手で創出しなければならないと、私は強く考えるようになった。」
★広河氏のこの思いは『DAYS JAPAN』の創刊へと結実しました。
※「DAYS JAPAN 発刊の趣旨」http://www.daysjapan.net/info/content.html
※『DAYS JAPAN』http://www.daysjapan.net/
<現代メディア戦争>
一枚の写真が世界史を大きく変化させるきっかけになったことが何度もありました。沢田教一の「安全への逃避」(1965年、ベトナム)、エディ・アダムスの「射殺される直前の男と処刑者」(1969年、ベトナム)、ニック・ウトの「ナパーム弾の少女」(1972年、ベトナム)、ピーター・シャーフの「黒い海鵜」(1991年、湾岸戦争)、ケビン・カーターの「少女とハゲワシ」(1994年、スーダン)などなど。
さらにパレスチナでは、「端正な顔のイスラエル兵が、一人のパレスチナ人の少女の髪の毛をつかんで、ひきずっている写真」。また「パレスチナの一人のゲリラ兵士が、イスラエルの秘密警察シン・ベイトに逮捕されている写真」。もう一つ、モルデハイ・バヌヌが裁判所から出てきた護送車の窓から、手のひらに「私はモルデハイ・バヌヌ。ローマで誘拐された」と書いて押し付けていたのを撮影した写真。等々。
その中で特に注目したいのは、事実をスクープした他の写真とは異なって、事実であることが確証されてもいないことが事実として全世界に広まった「黒い海鵜」の写真です。これは、覚えている人も多いと思いますが、フセイン政権が環境汚染をもたらすような原油流出を平気でやるのだということを全世界に印象づけるために利用されました。石油まみれの海鵜をもたらした原油流出は、その責任の所在が今だにはっきりしていませんが、油井の破壊と炎上の多くは米軍の爆撃によるものでした。
さらにもうひとつ、ぜひ書き留めておきたいことがあります。それは、1991年の湾岸戦争の後おこなわれた対イラク経済制裁の条件の一つについてです。医薬品も含めた厳しい禁輸を解除する条件の一つに、イラク軍が拉致したクウェート人捕虜の釈放がありました。広河氏は、1991年5〜6月にクウェートとイラクを取材したとき、「クウェートからイラクに通じるまっすぐな道」に「数千の焼け爛れた車輛」があるのを見つけたといいます。
「そこでは民間車輛や軍用車輛、時には戦車も折り重なるようになって焼けていた。...クウェート市内にいたイラク人たちやイラクに協力したクウェート人、パレスチナ人たちは、大挙して撤退を開始し、イラクを目指した。...先頭の大型車輛がアメリカ軍の爆撃で炎上し、道がふさがれた。そこにあとから次々と撤退する車が押し寄せて、数珠繋ぎになった。そこを米軍機が爆撃し、数千台が炎上したのである。」「このとき私を案内してくれたクウェート情報省の役人は、次のような驚くようなことを教えてくれた。ここで焼けたバスの中から、縛られた人間たちの焼死体が大勢発見されたというのだ。彼らはクウェートの身分証を持っている捕虜だった。...」「こうして国際世論によって解放を要求されていた捕虜たちは、米軍によって殺され、そのあと捕虜釈放を条件とした経済封鎖でイラクの子どもたちが大量に死んでいくのである。」
一方では「事実」が捏造され、他方では重大な事実が闇に葬られる。現代は、まさにメディア戦争の時代です。メディアを通じて戦争の「大義」がでっち上げられる。メディアの規制・統制を通じて戦争の現実・実像が人々から遮断される。そういう時代にあって、私たちは、自分たちのメディアを創出するということにもっと大きな関心を寄せなければならないのではないでしょうか。
<ジャーナリストの責任>
「9.11事件以降、日本のメディアは、加害者の側に、爆弾を落とす側に荷担していっている。非常な勢いでその傾向が進んでいる。日本という国家が加害者に荷担する中で、メディアはこともあろうに権力をチェックすることを忘れ、国家に追随してしまったのだ。」「加害者は被害を隠す。だから、よけいに危機感をもって、メディアを取り戻さなければならない。この危険な時代に、私たちは被害者の側に立ち続けなければいけない。命を奪われ続ける側に立つメディアが必要なのだ。」(「5.権力とジャーナリズム」より)
今年4月、イラクで3人の日本人が人質となり、そのすぐ後にさらに2人が拘束されるという事件が起きました。イラクに自衛隊を派兵した日本政府は、人質となり拘束された日本人を無事に救出する意志も能力も手だても持ち合わせていませんでした。彼らの命を救ったのは、広河氏ら「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」をはじめとする市民運動の力でした。もちろん根本には、拘束された人たちがこれまでに行なってきた活動の力がありました。広河氏は、こう述べています。
「当初から拘束された人々の救出は、それほど困難であるとはみえなかった。彼らを救出するためには、彼らが何をしてきたか、彼らが誰であるのかを相手に伝えるだけでよかった。だから彼らを救出したのは彼ら自身だった。彼らがこれまでに行ってきたことが彼らを助けたのである。」と。
3人の日本人が現地で拘束されたという事実が明らかになった数時間後には、「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」が、3人のそれまでの活動を紹介したアラビア語の声明を「アルジャジーラ」に送付し、報道を依頼していたのでした。その対応の素早さとすばらしさに、私たちは感嘆と喝采をもって注目したものでした。そして、拘束された人々は無事救出されました。しかし、日本国内では、諸外国から驚きの目で見られた例の「自己責任」論による被害者とその家族へのバッシングが、集中豪雨のように行われたのでした。
広河氏は、こう続けています。
「政府は何もできなかった。人質となった人々がアメリカ軍のイラク爆撃に反対していたこと、イラク占領に反対していること、自衛隊の派兵にも反対していたなど、政府は口が裂けても言えなかった。」「政府は自分たちが何もできないと思い知ったときに、彼らは責任を取らなくてもいい方法を必死に捜し求めた。人質が一人でも殺されたら、自衛隊派兵から憲法改正までの道筋に亀裂が走るかもしれないし、小泉内閣は崩壊するかもしれない。選挙に対する影響も大きいかもしれない。政府にとって、何があっても責任を取らなくてもいい方法は、人質となった人間にすべての責任があるという風潮を作り上げ、広めることだった。」「メディアが見事に宣伝役を果たした。」
このような日本の目を覆いたくなるような惨状の中で、広河氏をはじめとして少数ではあってもジャーナリストの責任を真剣に考え自覚した人々が活躍しています。私たちは、このような権力から独立して被害者の側に立ったジャーナリズムを追求し続ける人々を支持し、その活動を支援していかなければならないと痛感します。
2004年9月20日 吉岡