今、トルストイの『戦争と平和』を読む

 最近のイラクの現状を表すのに、「古典的なゲリラ戦」という言葉が使われた。それはいったいどんなものなのであろうか。私は、文字通りの古典であるこの『戦争と平和』に、それを理解する手がかりを見いだした。
 もちろん、ここに書かれた19世紀初頭のフランスとロシアの関係が、そっくりそのまま現在のアメリカとイラクに当てはまるわけではない。フランスとロシアの軍事力は対等に近いが、アメリカとイラクの軍事力には極端な差がある。しかし、あっけない首都の占領、にもかかわらず勝利できずにいる軍隊、各地で生じているゲリラ戦、これらの中に、200年を隔ててなお両者に共通する普遍的なものを見ずにはおれない。


「古典的ゲリラ戦」についての考察

 『戦争と平和』の第四巻第三編の記述にそって具体的に見ていこう。トルストイは、まず、これまでの歴史に疑問を抱く。どうして、全国民の力のごく一部分に過ぎない軍隊の敗北で、なぜその国民全部が征服されることになるのか。「軍隊が勝利をうるやいなや、たちまち、戦勝国民の権利は、戦敗国民の損失として増大する。軍隊が敗北するやいなや、その敗北の程度に応じて、国民はたちまち権利をうしない、自国の軍隊が完敗すれば、国民も完全に征服されてしまう。」これは、トルストイにとっては不可解であっても、事実であり、歴史はそれを証明してきた。
 しかし、1812年におけるナポレオンのモスクワ占領からその撤退に至る過程は「一国民の運命を決する力は、征服者の手にも、軍隊や戦闘の中にすらもなくて、なにかべつのものの中にあることを、証明した。」「戦勝は通例の結果をもたらさなかった」。近辺の百姓たちは、牛馬の糧食となる干し草を全部燃やしてしまい、決してモスクワを占領したナポレオン軍に渡さなかった。「従来のいかなる軍事的伝説にもあてはまらない戦争が、はじまったのである。」
 それをトルストイは剣道による決闘を始めた二人の人物に例える。二人は、はじめは剣道の法則にのっとった試合を行った。しかし、傷ついた一方(この場合はロシア)が、剣を投げ捨てて、「最初に手にあたった棍棒をとり、それをやたらにふりまわしはじめた」。ナポレオンは、ロシアの皇帝と将軍に、彼らの「戦争のやり方がすべての法則に反していることを訴えてやまなかった。(まるで人を殺すのに何か法則があるかのように)」。フランス側の訴えにもかかわらず、また、棍棒で戦うことが恥ずかしく思われるロシア側の地位の高い人々の思惑にもかかわらず、「国民戦争の棍棒は、ものすごい怪力をこめてふりあげられ、何者の趣味にも法則にも頓着無く、愚かしいまでの単純さでしかもよく目的にかないながら、遮二無二ふりあげられたり打ち下ろされたりして、ついに侵入軍が全滅するまで、フランス軍をたたきのめしてしまったのである。」
 「こうした試練に際して、他の国民ならこうした場合法則どおりにどんな行動をとるかなどということを問題とせず、率直に、気がるに、手あたりしだいの棍棒をとって、心中の怒りと復讐の念が、侮蔑と憐憫の情にかわるまで、敵をたたき伏せうる国民は幸いである。」

 この「棍棒」に例えられる戦い方として大きな役割を果たしたのが、不正規(ゲリラ)軍による遊撃(パルチザン)戦である。「いわゆる戦争の法則に対するもっとも明確にして有利な逸脱のひとつは、個々に分散した人々の、一団に密集した人々に対する行動である。この種の行動は、つねに、国民的性格をおびた戦争において現れる。これらの行動は、集団が対立するかわりに、個々に散った人々が、めいめい勝手に襲撃し、優勢な敵の軍隊の攻撃を受ければさっそく遁走、さらにまた機を見て襲撃に出るという方法である。」
 こうした戦い方が可能であり、有効でもあるというのはどうしてなのだろうか。ここで「軍の士気の意義を決定し表現すること」が「軍事学の課題」となる。「進撃にさいしては集団的に行動し、退却にあたっては分散して行動せよとおしえる戦術上の法則は、軍隊の力がその士気に左右されるという真理を、ただ無意識に立証しているにすぎない。人を弾雨の下へみちびくためには、攻撃軍を撃退する以上の、集団行動によってのみえられる規律が必要である。」しかし、1812年のフランス軍が集団的に退却したのは「軍の士気があまりに沮喪して、ただ集団だけが軍をいっしょにささえたから」であり、逆にロシア軍の方は「戦術上は集団で攻撃すべきだったのに、じっさいには個々に分散している。それは、士気があまりにあがっていて、個人個人が命を待たずにフランス軍を攻撃するので、一身を困難と危険にさらすように強制する必要がなかったからである。」
 「遊撃戦がわが政府によって公然と採用されるまえに、すでに数千の敵兵−−落伍者、略奪兵、挑発隊など−−が、コザックや百姓たちに掃滅されていた。」遊撃隊は、ロシア政府によっても編成されるようになり、大きさや性格を異にした部隊が百を数えた。「なかには、軍隊の体裁をそのまま取り入れて、歩兵、砲兵、司令部、その他生活の便宜を備えたものさえあったが、なかにはまた、騎馬のコザックだけのものもあった。歩兵と騎兵の小さな混合部隊もあり、だれにも知られていない、百姓や地主の集団もあった。一ヶ月のうちに数百の捕虜をえた寺男を指揮者にした徒党もあれば、数百のフランス兵を殺したワシリーサという村老の女房などもあった。」
 現在のイラクにも、「おのが国土を侵入から清掃する」という目的のため、士気高く、何ものにも強制されずに「一身を困難と危険にさらす」何人もの「ワシリーサ」がいるのではないだろうか。その一方で、自分は国際的な条約や法律を蹂躙しておきながら、イラクの人々のゲリラ戦に苦情を申し立てるアメリカの姿がある。彼らの士気はあまりにも沮喪しているので、誰でもいいから自分たちといっしょに行動する軍隊を求めているのではないだろうか。


戦争の描かれ方 

 さて、『戦争と平和』とは、ロシアを讃え、フランスをののしる話ではない。戦争の賛美でも否定でもなければ、平和への説教でもない。そうした価値判断は『戦争と平和』のなすべきことではない。そこに存在する一人一人の人間を、その全体像において捉えること、これが『戦争と平和』が唯一なしていることである。

 第一部第二編から戦場の場面が始まる。1805年、オーストリア軍とロシア軍が連合してナポレオンひきいるフランス軍と対峙する。ここでトルストイがまずもって描いたのは、軍隊の壮大な滑稽さである。
 ある歩兵連隊を、総指揮官が見に来るという知らせが来た。「おじぎはつねに、したりないよりしすぎた方がましだ」という説を根拠に、「兵たちは、三十露里の行軍ののちに、終夜一睡もしないで、修理や手入れに忙殺され、副官たちや中隊長たちは、点検をくりかえした結果、朝までには連隊は、前夜さいごの移動の際に見られたような、だらだらした無秩序な群集でなくて、二千人の整然とした集団−−そのひとりひとりがおのれの位置と任務を知り、ひとりひとりの身に付いた一個のボタン一条の革紐までが、所定の位置にあって清潔さにかがやいている集団を現出していた。」
 ところが、総指揮官クトゥーゾフは、ロシアから来た軍隊がどれほどみじめな状態にあるかをオーストリアに見せたかったのである。そのことがこの連隊に伝えられたのは、総指揮官が来る一時間前であった。
 「さあ、やっかいなことをしてしまったぞ!」「だからおれがいったじゃないか、行軍状態のまま、外套着用だって」と連隊長は大隊長を責め、あわてて、兵士に服を替えるよう指図をする。なんとかみんな揃いの外套に着替えられたのだが、その中で、一兵士に降格された青年将校がひとりだけ違う外套を着ていることで、また一悶着起こってしまうのである。
 軍隊内では、盗みも発生する。若い軽騎兵ロストフは、同じ部隊の将校がその犯人であることを発見し、連隊長に言った。ところが、連隊長はロストフにその発言をうそだと決めつけた。他の将校たちも、事実はロストフの言うとおりであることを知っているにもかかわらず、こういう事件が表沙汰になることで、連隊全体が不名誉を被ると考え、ロストフに発言の撤回と謝罪を迫る。若いロストフは古参の将校たちに責め立てられ、目に涙をためて、「ぼくにとって連隊旗の名誉が……。ええい、なんでもいいです、ほんとうに、ぼくがわるかったです!……」という言葉を口に出してしまう。
 このロストフ、戦場に出たが、彼が思っていたような華々しいことは何一つできなかった。「ロストフは、何をしていいかわからないで、橋の上に立ちどまった。たたき斬る(彼はいつも戦闘というものをそういうふうに想像していた)にも相手がいなかったし、橋を焼く手伝いをすることも、彼はほかの兵たちのようにわら束をもってこなかったのでできなかった。彼はただ立って、あたりを見まわしていた、とたんにくるみでもまきちらすような音が橋の上に起こった」。フランス軍からの砲撃で三人の軽騎兵がやられたのだった。ロストフは彼のすぐそばにいた兵が倒れるのを目にして、恐怖にとらわれる。「何もかもすんでしまった。が、臆病者だ、そうだ、おれは臆病者だ」とロストフは考える。
 橋を焼くことを命じた大佐は、その成果について得意げに振る舞い、損害については、「『いうにたりません!』と大佐は、バスで答えた。『軽騎兵二名負傷、一名即死』彼は即死という美しい言葉をひびき高くずばりと発音しながら、幸福の微笑をおさえきれないで、明らかな喜びをもってこう言った。」
 トルストイは、心理描写は最小限にとどめ、ほとんどの場面を情景描写に当てている。しかし、そこで描き出された情景は、何よりも雄弁に、各人の心理状態と、そして軍隊の不条理さ、非人間性を物語っている。

 しかし、戦争で悲惨な目にあった人々が、戦場で体験した感覚そのままに、反戦や厭戦の立場に立つわけではない。
 ロストフは、そのあとの攻撃に際して、落馬して手を捻挫しただけで、ほうほうの体でフランス軍から逃れ、負傷兵として運ばれた。「暖かく明るい家、毛の柔らかい毛皮外套、速い橇、健康な肉体、家族の愛情と心づかいなどを思い出していた。《なんだっておれはこんなところへ来たんだろう!》と彼は考えるのだった。」しかし、彼の厭戦的気分も長く続くものではなかった。若いアレクサンドル皇帝を一目見るや、「いまだかつて経験したこともないような、優しさと歓喜の感情を経験した。皇帝に属するいっさいのもの−−あらゆる線、あらゆる動き−−が、彼には、魅力あるものに思われたのだった。」「《ああ! もし陛下が今すぐ火の中へ飛び込めと命じられたら、自分はどんなに幸福になるだろう》とロストフは考えた。」古参の軽騎兵大尉ヂェニーソフは、出征中はだれにも惚れる相手がいないので、陛下に惚れ込んだのだと、ロストフのあまりにも甚だしい皇帝への熱中ぶりをからかうが、これはロストフを怒らせるだけだった。

 冒頭で紹介したパルチザン戦の具体的な記述においても、悪しき侵略軍を、同じ目的に身も心も結ばれた正義の防衛軍がやっつけるとでもいった血湧き肉踊るシーンを期待してはならない。そんなものはまるで描かれない。ここでもやはり、一人一人の人間がリアリティー豊かに描き出されるのである。
 あるパルチザン部隊は、同時にふたつの大部隊から合流を呼びかけられる。しかし、この部隊を率いるヂェニーソフは、どちらの部隊に対しても、すでにもう一方の指揮下に入ったという手紙を書く。彼は、自らの独立性を確保するためには、こういうしたたかなやり方も辞さない。
 このヂェニーソフの部隊には、チーホンという百姓出身の男がいた。彼はこの隊で最も役に立つ勇敢な男であったが、他のコザックや軽騎兵たちの道化にされていた。「ヂェニーソフの隊の中でチーホンは特別な例外的な地位を占めていた。なにかとくに骨の折れるいやなこと−−ぬかるみにはまった車を肩で押しだすとか、馬の尻尾をつかんで泥沼から引きだすとか、その皮を剥ぐとか、フランス軍のまっただなかへ忍び込むとか、一日に五十露里ずつも歩くとか、こうしたことをしなければならぬ時には、だれもが笑いながらチーホンをさすのだった。『なあに、あいつぁなにをされても平気だ、まるで頑丈な去勢馬よ』みんなは彼のことをこう言っていた。」
 さらにこの部隊に少年兵ペーチャがやってくる。彼は、軍人の兄(ロストフ)にあこがれ、自分も手柄を立てたいという功名心から軍隊に志願したのだった。「彼は、軍隊内で見たり経験したりすることでひじょうな幸福を感じていたが、それと同時に、のべつ、今自分のいないところでは、それこそ正真正銘の英雄的なことが行われているのではないかという気がしてならないのであった。そして彼はいつも、今自分がいないところへいそいで行こうとあせっていた。」そして、彼は、意味もなく無謀な行動に出て、頭を弾丸に打ち抜かれて死ぬ。
 一方、フランスの軍人として登場するのは、まずは、捕虜になった少年兵である。「少年は寒さからまっ赤になった両手で軽騎兵にしがみつき、むきだしの両足を暖めようとして、もぞもぞ動かしたり、眉をつり上げて、びっくりしたようにあたりを見まわしたりしていた。」
 モスクワから脱出したフランス軍のうち、捕虜を率いて進む部隊は、特に惨めな状態であった。物資を運ぶのはまだ何かの役に立つことがわかるが、「同じように飢えてふるえているロシア人を張り番したり、護ったりするばかりか、途中こごえて落伍する者でもあれば、命によって射殺しなければならぬのはなんのためか、−−これは不可解以上にいやなことであった。したがって、護送兵たちは、彼ら自身が苦しい状態におかれているなかで、彼らの心にある捕虜に対する同情の念に負けて、そのためいっそう自分たちの状態をわるくするのを恐れるかのように、ことさら陰鬱に、過酷に、彼らを扱うのであった。」
 このフランス兵たちによって、ピエール(この小説の重要な人物の一人ではあるが主人公ではない、この小説に「主人公」は存在しない)は、捕虜として辛酸をなめ、彼が精神的に大きな影響を受けたカラターエフは銃殺される。しかし、トルストイは銃殺した側の方がむしろ恐怖にかられていたことを書くのを忘れない。
 
 トルストイの、一人一人の人間に対する愛と批判を同時に兼ね備えた作家としてのまなざし。それはある人間や国家や民族を、お決まりの型にはめて、「悪」だの「善」だのというレッテルを貼ってすますことから最も遠いところにある。それは、戦争をあおるプロパガンダを見抜く目ともなる。この小説を堪能することによって、そういう人間観察の視点が養われていくのでは、と思わずにはいられない。


忙しい人に薦める『戦争と平和』の読み方

 実を言うと、トルストイの作品は、これまでほとんど読んでこなかった。トルストイぐらい読んでおかねば恥ずかしいという妙な「教養主義」に引きずられながらも、どうせ、お説教くさい小説に決まっているという根拠のない先入観にとらわれて、読むことを積極的に楽しもうという気にはなれなかった。
 この『戦争と平和』にしても、分量の長さと、登場人物の多さに加えて、最初の出だしが社交界での愚にもつかないおしゃべりとくれば、よほど暇を持て余している人間のための読み物であろうと判断して、本棚でほこりをかぶらせるがままにしてしまった。

 しかし、いまや、この時代−−世界が大きく変化しようとしている時代−−にあって、この小説が描き出していることを、新しい読み方で、−−単に教養を深めたいとかではなく、現代を理解するために、今現実に生じている出来事を全面的に把握する見地を得るために−−読み直すことに、大きな意義を感じている。

 私がお薦めするのは、トルストイの専門家などからはひんしゅくを買うかもしれないが、戦争のシーンだけを読むという読み方である。最初の第一編はそっくり飛ばして、第一巻第二編から読んでいくのである。遺産だの、恋愛だの、家庭生活だのといった話がでてくると、取りあえずどんどん飛ばしていく。分量は半分以下になる。それすら読む時間がなければ、冒頭に紹介した第四巻第三編だけでもいい。

 その上で、登場人物たちに馴染みになれば、他の箇所も読んでみることをお薦めする。そこには、例えば、農民たちの生活を改善しようという理想と善意に満ちたピエールの行動が、何一つまともな結果を生まず、かえって農民たちの生活を苦しくしている(しかもピエール本人はそのことに気がついていない)のを見るだろう。ピエールとは違って、実際的な能力に長け、戦場でその知性と勇気をいかんなく発揮するアンドレイ公爵が、愛するナターシャとの結婚に際しては、反対する頑固な父親が突きつけた条件に譲歩してしまうという不面目な様を呈するのを見るだろう。残忍な人間ではないのに、みんなからひどく怖がられているニコライ老公爵は、娘を知的な女性に育てたいと思って無理に数学を教える。その父親におびえて過ごしてきたのに、甥の勉強を見る時、同じように、厳しく振る舞ってしまうマリヤ。あふれる生命力そのものであり、おのが心のままに、時にはとっぴな行動をしでかしてしまうナターシャ・・・。最初は閉口していた人物の多さ、話の長さに、いつの間にか引きつけられている自分を発見するかもしれない。
木村奈保子

引用は、河出書房新社 世界文学全集21〜23(中村白葉訳)より。
現在入手可能なのは、岩波文庫(米川正夫訳)か新潮文庫(工藤精一郎訳)。
どの図書館にも必ず備えてあるはずである。