[ 紹介 ]フォト・ルポルタージュ
「イラク戦争」の30日 私の見たバグダッド
豊田直巳 著 七つ森書館 1800円+税

 緊迫感に満ちたルポである。米英軍の爆撃によっていつ命を失うかわからない、そんな文字通り命がけの取材に基づく戦時下のバグダッドにおける記録である。
 写真家の豊田直巳さんは、これまでにも何度もイラクを訪れ、戦争被害の実態を捉える取材を重ねてきた。湾岸戦争における劣化ウラン弾の影響による被害に苦しむ子どもたちの姿は、『イラクの子どもたち』(第三書館)におさめられている。また、『イラク/爆撃と占領の日々』(岩波書店)は、このルポと姉妹をなす写真集として、ぜひ多くの人に見ていただきたい。
 
 2003年3月、ビザが取れず、入国すら危ぶまれる状況の下で、ヨルダンにまで行った豊田さんは、ブッシュ大統領が一方的に突きつけた開戦までの48時間のリミットが切れる直前、ようやくビザを手に入れ、イラクへの入国を果たすことができた。しかし、その時点で空爆は既に始まっていた。
 この爆撃による最初の犠牲者は、ヨルダン人のタクシー運転手アハマッドさん、奇しくも豊田さんが乗りこんだタクシー運転手の兄であった。豊田さんのタクシーは現場に急行した。そこは郵便局であった。しかも周囲になんら軍事施設のない場所である。アハマッドさんはこの郵便局で家族に電話をかけていたところ、爆撃にあい、瓦礫に押しつぶされてしまったのだった。
「この日、バグダッドは40回にわたる空爆にさらされることになるが、米英軍による郵便局への爆撃と外国人のアハマッドさんの殺害は、これから始まるイラク全土での『誤爆』と市民の大量虐殺の事始めとなるだろう。」

 バグダッドに入った豊田さんを待ち受けていたのは、イラク情報省による厳しい監視体制であった。昨年までは情報省に睨まれながらも豊田さんの取材の便宜を図ってくれた人物が、戦時体制下での自分の身の安全を確保するため、情報局の一員になってしまっていた。
 以来、豊田さんは、イラク情報省の取材妨害や逆にイラク政権を正当化するための宣伝道具に使おうという意図に悩まされながらの困難な取材を強いられた。
「アメリカの蛮行を撮影させたくないのではない。そのアメリカの蛮行に、ほとんど無抵抗で、やられるままのイラク軍の無力さをさらけ出すことを恐れている」イラクの官僚体制に、豊田さんは思わず憤りを吐露する。
 このような経験をしたり、生活苦にあえぐ庶民やそれでも健気に働く子どもたちの姿に接したりするにつけ、豊田さんはイラクの体制に苦言を呈さざるをえない。しかし、そうすることにも悩ましさがつきまとう。
「もっとも『ブッシュの戦争』がすさまじい勢いで進行する現在、そのこと(イラクの体制への苦言)を声高に言えば、ブッシュ大統領の情報戦、宣伝戦を利してしまう皮肉。戦争報道の矛盾を否応なく実感する。」

 巡航ミサイルらしい精密誘導兵器による爆撃で、大統領宮殿が破壊された。豊田さんが宿泊するパレスチナホテルから1キロもない。
 この戦争は最初から無差別の攻撃で始まった。そして、そのことによる被害は日を追う毎に拡大していく。
「戦争はもう一週間も続いている。「ピンポイント」の爆撃から、無差別に爆撃目標が増えれば、それに比例して人的、つまり人の命も刻々と軽んぜられていく。あまりに無力な気にもなる。」
「現在のところ、確かに『誤爆』率は15パーセントに収まっているのかも知れない。しかし、この15パーセントに入ってしまった者には『率』は関係ない。死は死以外の何ものでもないのだから。」
 4月5日の取材では、クラスター爆弾が、パレスチナ人たちが暮らす集合住宅のある地区にばらまかれているのが確認された。
「それにしても玄関先にまで不発弾があるかと思えば、幼稚園の園庭にもクラスター爆弾がばら撒かれていようとは。無差別爆撃の実態を表す見本としても記録されなければならない。そして消防士たちがクラスターの不発の子ども爆弾を回収していることも。」
 
 そして4月8日。バグダッドに入ってきた米軍によるジャーナリストへの虐殺とも言える攻撃が始まった。豊田さんは、この日の朝、アルジャジーラのテレビ局への攻撃で死者が出たことを知る。
「アルジャジーラは、アフガンでも米軍に攻撃された。アメリカが気にくわない報道をする者は、おかまいなしに殺すということ。」
 そして、市内を取材して帰ってくると、パレスチナホテルが米軍に攻撃されたことを知る。被害にあったのは、豊田さんが宿泊している部屋と同じ15階にある部屋であった。米軍は「ホテルの1階から攻撃されたので応戦した」とありえない言い訳を述べた。ホテルのまわりは静かで、そんな攻撃などなかったことは、多くのジャーナリストが知っている。しかも米軍の戦車がホテルに砲を向けて発車した瞬間が撮影されていたのだった。その後、米軍は「誤爆」を認め、ロイター通信などの被害者に謝罪したが、アルジャジーラの被害者に対しては、なんの謝罪もなかった。
 イラク情報省の機能が停止して「自由な取材」ができるようになったと思ったら、この米軍の攻撃はジャーナリスト達に新たな圧迫となった。「イラクの情報管理に代わって、これからはアメリカの情報操作の駒に使われる可能性があるということだ。」
 その象徴が「サダム像引き倒し」である。「私の目の前で軍用車両から降りてきた海兵隊の兵隊たちは、物陰に散開し、四方に銃口を向けた。しかし、私はその兵隊の顔に50センチと近づいてカメラを向けたが、文句も言われなかった。」彼らは報道陣に「絵になる」ポーズを取ったのだった。「もう戦争の勝敗は決していたのだ。後は、このイラク侵略を正当化するためのアメリカの『正義』だけが必要だったのだ。数時間後、群がった世界中のカメラの放列の前で、『サダム像が弾き倒された』。」
 
 バグダッド陥落の後に始まったことは略奪であった。「アリババ」と呼ばれる人々が悪びれもなしにドロボーを行っていく。
 不発弾が処理されることもなく直射日光にさらされて転がっている。「無政府状態の中では、警察ばかりか、公共交通も消防もなくなってしまった。誰が責任をとるのだろう。」
 その一方で、米兵は、ただ移動するだけの人々に、執拗な検問を行い、荷物検査をし、身分証明書までチェックする。
 取材した病院では、停電のため、遺体が次々と腐敗していった。それらは病院の中庭に仮埋葬された。この病院だけで、この戦争中に1000名以上の死者を扱ったという。身元不明の遺体には、亡くなった時の情報を書いた紙を入れて置くことになっている。その紙を入れた「コーラのビンが、この戦争犠牲者のあまりに寂しい墓標である。」
「私は生後六ヶ月という赤ちゃんの、小さな小さな土饅頭と、その前の空きビンに入れられた紙切れの写真を撮影すると、その場を離れた。」
 
 4月15日、計画省のビルに、ガイガーカウンターを持ち込み、調査をする。バルカン砲を撃ち込むA10攻撃機を見たからだ。
「カメラバッグからガイガーカウンターを出してスイッチを入れる。ドロボーさんたちの去った静寂の中にガリガリガリと警報音が響く。怖い。何も見えない。何も匂わない。しかし、この部屋には間違いなく放射能が満たされている。」
 最後に、豊田さんは、白血病の子どもたちの取材に病院に行く。戦争の間、子どもたちは治療から見放されていた。しかも、再開された白血病病棟も薬が不十分なままである。
「米軍も英軍も人道支援にイラクに来たわけではない。サダムフセイン体制は崩壊したかも知れないが、マハンちゃんたちの病気が治るわけではない。しかも今回も街中で多量に使われた劣化ウラン弾による被害の実態が表面化するのは数年後になるだろう。それは想像を絶するような惨い形で、私の目の前に現れるかも知れないと、重い気分のままに病院を後にするしかなかった。」
 こうして、最後の取材を終えた豊田さんは、イラクの国境を後にした。入国時にそこにいた職員はおらず、代わりに迷彩服の米兵がいた。パスポートに出国スタンプが押されることはなかった。
 
 しかし、豊田さんの旅は終わらない。その後も、劣化ウラン弾の調査のため、「劣化ウラン弾廃絶ヒロシマプロジェクト」の森瀧春子さんらとともに、再度イラクに入った。そこで採取した土壌などから、劣化ウランが検出されてきている。
「しかし、その間にも数え切れないイラクの子どもたちが白血病で、ガンで苦しみ、そしてまっとうな医療から見放されて死んでいく、いや『殺されていく』。これだけは動かしがたい事実である。イラクの人々にとって、湾岸戦争も『イラク戦争』も終わりようがない。そして、いや、だからこそ私の旅も終わりがないのかも知れない。」 

(2003年11月4日 木村奈保子)