敗戦から60年
私は侵略者−−“らいを生きる”詩人桜井哲夫が、私たちに問いかけているもの

講演会「ハンセン病の歴史に出会う−“らいを生きる”詩人・桜井哲夫の世界」と『しがまっこ溶けた−詩人桜井哲夫との歳月−』(金正美 NHK出版)より

私は侵略者  桜井哲夫

「侵略者の娘を抱いたあなたは侵略者」
聞き慣れない言葉を聞いたのは
結婚して間もない妻の真佐子の口からであった
真佐子に「あなたは侵略者の娘だよ」と言ったのは真佐子の父であった
  (中略)
平壌の店先で
父は真佐子にチマチョゴリを買ってくれた

昭和28年 26歳で真佐子は死んだ
再び「侵略者」と日本人の口から聞いたのは
詩の先生松村武司からであった
松村武司もまた侵略者の子として生まれ
韓国の中学を卒業している
  (中略)
松村武司は言っていた
「私は侵略者、そして韓国人」と

妻の真佐子と松村武司以外に私は日本人の誰からも聞いていない
「私は侵略者」と

私は行こう韓国へ そして韓国人の前で言おう
「私は侵略者」と
そして深く膝を折り謝罪してこよう
私は謝罪の他に何もできないのだから
            (第5詩集『鵲の家』より)


 この詩の作者桜井哲夫は、元ハンセン病患者。17歳から、81歳の今も、ハンセン病の療養所で暮らしている。2005年6月18日に淡路島で開催された<ハンセン病の歴史に出会う−“らいを生きる”詩人・桜井哲夫の世界>と題された講演会(主催:淡路市人権教育研究協議会)。この日、初めて、詩人桜井哲夫に出会った。私は、何か、自分の心を占拠されたとでも言うような衝撃を受けた。

 講演会は、ハンセン病で声帯を冒された桜井哲夫の言葉を、金正美という女性が“通訳”する形で行われた。彼女は、まだ学生だった10年前、偶然に桜井哲夫と出会うことになり、それ以来続けてきた交流の歳月をまとめて一冊の本にしている。『しがまっこ溶けた−詩人桜井哲夫との歳月−』(NHK出版)である。この本には、講演会の内容が詳細に再現され展開されてある。

 『私は侵略者』と題された詩は、2000年末につくられた。私はこの詩を、講演会の朗読で初めて聞いた。そして、この本で、何度も何度も読み返した。それにしても、「らい予防法」の下で、自由を奪われ、苦難の人生を送ってきた、いわば被害者であるこの人が、何故、自分を侵略者と規定し、日本が侵略した国、朝鮮に謝罪するための旅を決意したのか。

*  *  *

 「しがまっこ」というのは氷のこと。津軽の言葉である。「しがまっこは、まだ溶けない」1996年、「らい予防法」が廃止されたとき、60年間を療養所で過ごしてきた桜井哲夫は、胸に秘めた怒りをこう表現した。


しがまっこ溶けぬ
     ──らい予防法廃止

津軽の分教場の傍らを流れる小川に
厚い 厚い しがまっこが張った
分教場の子供たちはしがまっこの上に乗って遊んだ

雪の降る朝 お袋が言った
「来年の春しがまっこが溶ける頃には 病気がよくなって帰って
これるから」と

療養所の寮舎の軒に
冬になると長い 長い しがまっこが下がった
しがまっこは 春になると音もなく溶けた
しがまっこが溶けても帰れなかった

  (中略)
お袋が五十年前の雪の日に言った言葉が胸奥で疼く
しがまっこは まだ溶けない
           (第4詩集『タイの蝶々』より)
       
 「らい予防法」は明治以来、1996年に廃止となるまで、約90年にもわたって、ハンセン病患者とその家族に対し、法の下で、様々な人権蹂躙を行ってきた。国は社会に大きな偏見と差別をもたらす政策を、国策として取り続けてきた。ファシズム台頭、中国・朝鮮侵略、植民地化、そして第2次世界大戦へと突き進む軍国主義。天皇制軍国主義とハンセン病に対する差別的政策とは一体のものだった。これらを背景に行われてきたハンセン病対策は、「民族浄化」の名の下、患者を治療するのではなく、死に絶えさせるための惨い政策であった。ハンセン病の温床である、貧困・栄養不良・衛生環境の不良などには目もくれず、戦争への道を突き進んできたことを、この法律が廃止となった時にも、そして10年たった今も、その責任を誰一人として果たそうとはしていない。数え切れない人々の命を、人生を、国はどう考えているのだろうか。


残雪

  (前略)
道を辿ると
残雪のなかに供養塔があった
谷を吹き上げる風が塔に纒わりついて声を挙げる

二十六歳で死んだ妻の声
人工掻爬の手術を受けて
十時間の命を最後に死んだ娘の声
残雪が消え
春を迎えた日に
俺は再び塔の前に立ちたい
            (第4詩集『タイの蝶々』より)


拭く

一九四一年 昭和十六年十月六日
旅立ちの朝
住み慣れた曲屋の門口まで送りに出た父が突然
「利造 勘弁してくれ。家のために辛抱してけろ」
と言って固く俺の手を握った
見上げた父の顔にひとすじふたすじの涙が走った
後ろを振り向くと おふくろはうつむいて
涙で曇ったのか しきりと眼鏡を拭いていた
  (中略)
列車は駅を離れた
おふくろの姿はたちまちホームの人混みの中に消えた
列車の窓を二度三度と拭いた
見えるはずの岩木山や赤く色づいたりんごは見えなかった

二〇〇一年 平成十三年六月十二日
  (中略)
それは五月十一日の熊本裁判の判決に沿う和解であった
裁判所を後に夜遅く帰園した
故郷を離れて六十年
今は亡き両親の涙を 俺は指のない手で静かに拭いている
列車の窓から見えなかった岩木山もりんご園の赤いりんごも
今日は盲目の俺の目によく見えたよ と
もう一度両親の涙を拭いた
            (第五詩集『鵲の家』より)

 この裁判で桜井哲夫は、その人生の中でも最も辛かったであろう、妻真佐子の人工妊娠中絶とそれによって死んでしまった六ヶ月の胎児、その処置の様子について、証言を行った。人前でそんなことを話したくないが、しかし当時の悲惨な状況を証言できる人が他にいない。裁判によって、本当の意味での人権回復や名誉回復ができるわけではなく、ひとりの人間の一生を返してくれるかというと、返してくれない。自分の人生も、死んだ真佐子や我が子の人生も戻ってこない。それでも、裁判によってしか、真実を伝えていくことはできないと思うから裁判に参加したと、彼は語る。そして、妻や我が子のことを法律なんかで、はい誰が悪いです、誰が正しいです、なんて裁いて欲しくない。社会の全ての人々に、なぜ我が子が死ななければならなかったのか、誰が殺したのか、もっと考えて欲しい。それだけなのだと。


カササギの街

  (前略)
夜の道々出会った人達も
「また来いよ 日本に帰っても孫と一緒に」
と言った
そして金正美にも言った
「ハラボジを連れてまた来いよ」

道を歩きながら考えた
考えながら 黙って 出会ったアボジやオモニやハンメ(お婆さん)に深く
 謝罪した
そして言った
「わたくしは侵略者」

もう眠ったであろうカササギの家のカササギにも
「わたくしは侵略者」
と言って謝罪した
            (第五詩集『鵲の家』「カササギの街」より)

 「らい予防法」によって、人生の時間を長い間奪われた桜井哲夫。その彼が考える「朝鮮の人たちへの謝罪」。中国・朝鮮への侵略、日本の植民地化政策によって、強制労働や差別が横行し、療養所内でも日本人患者が朝鮮人を差別するという現実を目の当たりにしてきた。どんな人にも、人の生きる場や自由を奪う権利はない。それを日本人は、朝鮮の人たちの人間としての尊厳を奪ってきた。自分が人生の長い時間を奪われてきたからこそ、二度と同じ事が繰り返されないようにきちんと謝罪したいのだと語る。「戦争に行かなかった、そして悪法の下で人生を奪われ、苦難を強いられてきた貴方が、なぜ謝罪に行くのか」という疑問に対して、「いつまでも被害者ではなく、日本人として、一人の人間として、平和の問題に取り組む第一歩にしたい」という、彼の強い思いが伝わってきたと、金正美は綴っている。 
 彼のスタンスには限りない敬意を感じ、そして同時に、私たちは一体何をしているのだろうという気持ちを抱かせてくれる。敗戦から60年、私たちが今どう生きていくのか、60年目の今年をどんな年にし、これからをどうしていくつもりなのか。彼の詩は、彼の生き方は、私たちにそのことを突きつけているのではないだろうか。
 (詩は全て「しがまっこ溶けた」から、桜井哲夫さん及び金正美さんの許可を得て引用)


*  *  *


 桜井哲夫に会った感動を記録しておきたいと思い、そしてできれば彼に何らかの形でお礼が言いたいと思い、以下に記してみた。     


詩人、桜井哲夫

詩人桜井哲夫に会った。
2005年6月18日。私は、彼に魅了された。

彼は81歳、元ハンセン病患者であり、詩人である。

彼には手がない。
正確に言うと、手首から先が切断されているのだ。
彼には光がない。30歳で失明した。左の眼球は摘出され目がない。
右にはわずかな裂孔があり、青白く眼球が動いているだけ。
彼には鼻もない。鼻翼がわずかに残存し、鼻孔が2つ開いている。
彼には声もない。声帯が冒され、わずかな息とともに出るような音、
それが彼の声なのだ。口は、口角が大きく裂けている。
初めて会った誰もが、まず一歩引いてしまうであろう彼の容貌。
すべて、らい−ハンセン病−という名の病気の後遺症である。
末梢の神経が冒され、身体の様々な箇所を蝕まれた。
手もない、光もない、その身体で、彼は詩をつくる。

桜井哲夫は本名を長峰利造という。
利造は津軽の出身だ。実家は大きなリンゴ園を営む農家で、
恵まれた少年時代を過ごしたという。
17歳で彼は突然この病気を発病した。
進学をあきらめて、群馬県草津にある国立療養所、栗生楽泉園に入所する。
以来、60年以上にわたってこの療養所で暮らしてきた。
6畳ひと間の個室で暮らしてきた。
「らい予防法」は、彼の人生をこの施設の中に閉じこめた。

彼ひとりではない。
「らい予防法」は、ハンセン病を発症したすべての人々の人生を、蹂躙した。
人間として生きていくことさえ奪ってきたのだ。

彼は療養所内で、真佐子と結婚した。
結婚の条件として、彼は断種手術を受けさせられる。
手術は失敗で、6年目に真佐子は妊娠した。
6ヶ月だった。
「らい予防法」の下、6ヶ月の胎児が、殺された。
療養所内で行われた真佐子の堕胎は、1人の男性医師と
夫である桜井のたった2人で、終盤数時間の処置が行われたという。
胎児は標本としてホルマリン付けにされ、
子宮内の残骸は、桜井がバケツに集めさせられて
雪の中に埋めたという。
胎生6ヶ月の我が子に、彼は「真理子」と名前を付けた。

それから2年後、26歳の若さで真佐子は病死した。
山の療養所で。

表現できないほどの苦難の道を歩いてきたであろう人生を振り返り、彼は言う。
「らいになって良かった」と。
自分は「らい予防法」の被害者ではあっても、
らいという病気の被害者ではない。
もう完全に治っているのだから。
らいにならなかったら、こんなに沢山の方々とのステキな出会いはなかったと。
つらいことも悲しいこともたくさんあったけれど、
それでも一言で言うと、やっぱり「良かった」のだと。

私たちは一体何をしてきたのだろうか。
らい予防法をいつ知ったのだろうか。
私は彼に詫びたいと思った。
この法律が廃止となった1996年以降も、
療養所に暮らすほとんどの人たちが、この病気に対する差別と偏見により、
里帰りさえかなわず、法律があった時と同じように暮らしている現実。
私に一体何ができるのだろうか。

詩人桜井哲夫は、50歳になって初めて詩を書き始めた。
彼の詩は、週に1回、代筆の人が来てくれる日まで、
彼の頭の中で記憶され、熟成され、ようやく「その日」に文字になる。
彼は、詩人になるつもりなど無かったのだという。
いろんな人と話がしたかっただけなのだと。
そして、身体全体で出ない声をふりしぼりながら、きっぱりと言う。
「人生に定年なんて無い。今年81歳。青春真っ盛り」

手もない、光もない、その身体から生まれた詩は、
私の心に深くしみいり、命に新たなエネルギーを注入する。
脳細胞に激震を与える。
桜井哲夫は、静かに、眩しいほどの光を放ちながら、
私の心の住人となる。

2000年12月になって、彼は「私は侵略者」という詩を作った。
彼の妻だった故真佐子は、ハンセン病発病の直前、
父の仕事の関係で、日本の植民地だった朝鮮の平壌で暮らしていた。
彼女が水豊ダムの建設に携わっていた父とともに見たものは、
日本人の朝鮮人や中国人に対するひどい扱い方。
朝鮮のためだと必死に働いたが、実は日本のためであり、
知らず知らずに「侵略」に加担していたという事実。
真佐子は父から「あなたは侵略者の娘だよ」と言われる。
真佐子は夫、桜井哲夫にこう言う。
「侵略者の娘を抱いたあなたは侵略者」と。
山の療養所内でも、朝鮮人が日本人から様々な差別を受けていた。
病気で社会から差別を受けている日本人が、更に弱い朝鮮人を差別した。
彼は2000年末に、韓国へ謝罪に行こうと決意する。

2005年、敗戦から60年目の年。
私は彼に出会った。
彼の詩「私は侵略者」を何度も何度も読み返す。

詩人桜井哲夫は、その人生を自分らしく生きる。
「らいを生きるってどういうことなのか今でもよく分からない」と語りながら、
抱えきれないほどの大切なものを、
発信し続けている。

 2005.7.3 Keiko