【書評】
  有事法制を強行するための
    『戦争プロパガンダ10の法則』
       『戦争プロパガンダ10の法則』に基づいて


 『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社 本体1500円+税)という本がある。この本は、第一次大戦中にイギリスで平和主義を貫いたボンソンビーの著書『戦時の嘘』に基づき、その当時、人々を戦争に駆り立てたプロパガンダの法則が、現在もやはり、同じように人々を欺くために使用されているということを、ブリュッセル自由大学の教授アンヌ・モレリが、さまざまな実例を挙げながら、展開したものである。
 これらの法則は、「ブッシュの戦争」にも「シャロンの戦争」にも、そして今まさに強行されようとしている有事法制にも非常によく当てはまる。


第一法則、われわれは戦争をしたくない。

 「ボンソンビーの指摘によると、あらゆる国の国家元首、少なくとも近代の国家元首は、戦争を始める直前、または、宣戦布告のその時に、必ずといっていいほど、おごそかに、まずこういう。『われわれは、戦争を望んでいるわけではない』」(p.20)
 例えば、ヒトラーは、ポーランド侵攻一年前の演説で、ドイツ・ポーランド不可侵条約についてこう述べている。
 「われわれは、この条約こそ、継続的な平和をもたらすものであると確信している。二つの国の国民は隣り合って生きてゆかねばならぬ。大切なのは、両国の政府、両国の理性的かつ先見の明のある人々が、お互いの関係を改善していこうという強い意志を持つことである。」(p.24)
 たいそう感動的な宣言である。(1年後にポーランドに侵攻をしなければの話だが。)

 われらが小泉首相の場合はどうであろう。
 「総理大臣として、本日の式典に臨み、改めて、平和への決意を新たにし、我が国が、今後とも国際社会の先頭に立ち、核軍縮・核不拡散の取組を押し進め、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、全力で取り組んでいくことを御霊の前にお誓い申し上げます。」
 これは、昨年の8月7日に長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列した際の挨拶である。これまた感動的な誓いの言葉が述べられている。(その6日後には、軍国主義のシンボルである靖国神社に「総理大臣小泉純一郎」として参拝するのだが。)

 「戦争および戦争に伴う恐怖は、たしかに常識的に考えて歓迎すべきものではない。よって、まずは、平和を愛していると見せかけるほうが得策というわけだ。」(p.20)
 さて、「すべての国家元首が、すべての政府が、こうした平和への意思を積極的に口にするとなれば、それでもときには、いや、かなりの頻度で戦争が起こってしまうのはなぜだろう。」(p.28)
「この疑問に答えるのが戦争プロパガンダの第二の法則である。話はこう続く。われわれは『いやいやながら』戦争をせざるをえない。というのも『敵国』が先に仕掛けてきたからであり、われわれは『やむをえず』、『正当防衛』もしくは国際的な『協力関係』にもとづいて参戦することになったのである……。」(p.28)


第二法則、しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。

「非常に好戦的な者たちこそ、みずからが哀れな子羊であるかのようにふるまい、争いごとの原因はすべて相手にあるのだと主張する。多くの場合、国家元首は、これは正当防衛なのだと世論を説得する(あるいはまた、みずからにもそういい聞かせているのかも知れない)。」(p.30)
 
有事法制においてはその必要性の根拠として「備えあれば憂いなし」ということが主張されている。
 しかし、現在の世界情勢の中で、最も緊急に「備え」を必要としているのはどこであろうか。それは、イスラエルによって現に侵攻されているパレスチナ自治区であり、世界第一の軍事力をもつアメリカから「悪の帝国」と名指しされ、軍事行動を辞さぬと言われているイラク、イラン、北朝鮮である。ところが、これらが「備え」をし、また現に侵攻されたことに対する正当防衛のための行動にでれば、たちまちのうちにそれは「脅威」であり、撲滅すべき「テロ」であると見なされるのである。
 一方、日本以外の国(特に「悪の枢軸」と名指しされた国)にとっては、アメリカ親分のためならどこまでも付いて行きますいう態度を表明し続ける日本の「備え」こそがまさに、自国への「脅威」と見えるにちがいない。にもかかわらず、この有事法案が想定する日本の姿は、ひたすら、いつの日かどこか得体の知れない国から襲われるかもしれない「哀れな子羊」なのである。


第三法則、敵の指導者は悪魔のような人間だ。

 戦時中の馬鹿馬鹿しいプロパガンダを経験した人の中にはこんな単純な手口に何度も騙されるもんかという気をおこす人もいるかも知れないが、これこそが「戦略の要」なので、それは「ありとあらゆる手段を使って」おこなわれてきている。そして、それは、アメリカのアフガニスタン攻撃を正当化するための効力を見事に発揮した。私たちは、ビンラディン、サダムフセイン、金正日などの人物について、こうした考えから本当に自由でいられるだろうか。

 「たとえ敵対状態にあっても、一群の人間全体を憎むことは不可能である。そこで、相手国の指導者に敵対心を集中させることが戦略の要になる。」(p.54)
 「指導者の悪を強調することで、彼の支配下に暮らす国民の個人性は打ち消される。敵国でも自分たちと同様に暮らしているはずの一般市民の存在は隠蔽されてしまうのだ。」(p.54)
「すべての悪は、こいつが原因だ。戦争の目的は悪者を捕らえることであり、彼が降服すれば、倫理的かつ文化的な生活が戻ってくるはずだ。」(p.55)
 ビンラディンを捕らえるためなら、アフガニスタン空爆は仕方がないなどという突飛な考え方は、このようなプロパガンダなしには浸透しなかったであろう。


第四法則、我々は領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う。

 最も注目すべきなのはこの法則である。現在の偉大な使命、それは「テロ撲滅」である。この世からあらゆるテロをなくそうとの呼びかけで、アフガニスタンへの空爆は行われた。日本をはじめ、世界の大半の国がそれに賛意を示した。しかし、空爆はテロを撲滅したであろうか。「テロ撲滅」というのがあまりにも高邁で深遠な理想なので達成が難しいのであろうか。しかしながら、石油パイプラインの通り道であるアフガニスタンにアメリカが地歩を獲得するという公には口にされなかった目的は達成されつつある。

 歴史を振り返ってみよう。第一次大戦の時、参戦したすべての国は、それぞれに植民地への野望を抱いていたが、公式な文書にはそうした野望は一切書かれていない。「特定の鉱山、または領地が欲しい」とか「植民地を取り返したい、力を示したい」とかいう記述はない。
 「こうしたことが目的だと公言すれば、多くの国民が、人を殺しに行ったり殺される危険を拒否すると踏んでのことだろう。そこで、何としてでも高尚な倫理観を示し、戦争を聖なる十字軍に美化しておきたいのだ。」(p.70)
 かくして、第一次大戦から、現在に至る、たいていの戦争で、次のような目的が掲げられる
●軍国主義の打倒
●小国の保護
●民主主義の確立
 しかしながら、それらの戦争において、このような目的が達成されたことはなく、それに引き替え、戦争の真の目的が首尾良く達成される例には事欠かない。
 第一次大戦後、イギリスは、戦前や戦時中には一度も公言しなかったのに、講和条約においては「魔法のように」様々な領土を「戦利品として手にし」た。(p.74)
 NATO軍によるユーゴスラヴィア爆撃においても、当初の目的であった「多民族社会の確立」も「少数民族の迫害阻止」も何一つ達成されていない。「にもかかわらず、空爆続行中は一度も口にされなかった経済的、政治的目的は達成されているのである。」すなわち、欧州南東部にまでNATOの駐屯地を拡大することに成功し、また、その地域における自由な資本の流通を可能とした。(p.84)
「1999年春、ワシントンでNATO50周年記念サミットが開催されたおり、フォード、ゼネラルモーターズ、ハニーウェルなどアメリカの大企業12社がスポンサーをつとめた。一見なんということもないが、見る人が見れば、これは「ギブ・アンド・テイク」である。ユーゴスラヴィア空爆によって社会主義経済を粉砕し、以前から大規模工事や貿易拠点を求めていた多国籍企業にその場を提供したことに対する「謝礼」であることはたしかである。」(p.85)

 湾岸戦争とアフガニスタン空爆の後、アメリカ経済が好況へと転じたことも、この例に付け加えておこう。
 そして、日本の場合、戦前の「大東亜共栄圏」のような、アジア地域における政治的・経済的盟主として振る舞いたいという欲求は、敗戦によっていったん影をひそめさせられたとしても、脈々として存在する。その時はドイツと組んで大失敗したが、今ならアメリカと組めば間違いは無かろうというわけである。


第五法則、われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる。

 昨年12月22日の不審船事件を思い起こしてみよう。不審船は逃走をし、中国の領海内に逃げ込んだ時点で、海上保安庁の巡視船は「威嚇射撃」をした。不審船からの発砲があったのは、巡視船の射撃による被弾を受け火災をおこした後のことである。そして応戦の末、不審船は沈没し、乗組員15名は、海に投げ出された時点では生存していた者がいたにもかかわらず、全員見殺しにされた。
 このような事件であっても、その不審船が北朝鮮籍であれば、(つまり、‘平和を愛する日本’に対して‘一方的に戦争をたくらんでいる悪魔のような指導者がいる国’のものであれば)、この第五法則を適用するのに何の差し支えもない。15人を放置したのは、海が荒れていたからしかたのないことであり、一方、相手が携帯ミサイルを発射して、巡視船側に2名の負傷者を出したことは、用意周到に仕組まれた許しがたい残虐行為ということになる!


第六法則、敵は卑劣な兵器や戦略を用いている。

 かつて、潜水艦がドイツの得意分野であったとき、連合国側は、潜水艦を卑劣な兵器としてののしった。ドイツの新兵器を非難したアメリカが、原爆を使用することについては何のためらいも見せなかった。
 「どこの国も、自分たちが使う可能性のない兵器(または使うことができない兵器)だけを「非人道的」な兵器として非難するのだ。」(p.124)

 こういうわけで、小泉首相が「核廃絶」を口にしても、何の不思議もない。日本は核兵器を保有していないし、(米軍が「持ち込む」とは‘通告していない’ので‘持ち込んでいるはずはない’)一方では、北朝鮮には「核開発疑惑」があるからである。


第七法則、われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大。

 「よほどのへそまがりでない限り、人は勝者の立場を好む。」(p.126)

 第二次大戦中の「大本営発表」は、大日本帝国の独占物ではなく、戦争をしたすべての国は、戦争における損害を実際よりも少なく見積もり、敗北した戦いをひた隠しにするのが常である。
 相手は悪魔のような指導者に率いられ卑劣な武器と戦略を使うのであるが、それでも、われわれは勝つ。ああ、なんと感動的な! 
 

第八法則、芸術家や知識人も正義の闘いを支持している。

 「すべての広告がそうであるように、プロパガンダも、人々の心を動かすことが基本だ。感情は世論を動かす原動力であり、プロパガンダと感動は切っても切り離せないものだと言っていい。」(p.134)
 「ところで、感動をつくりだすのは、お役人の仕事ではない。そこで、職業的な広告会社に依頼するか、感動を呼び起こすことが得意な職業、芸術家や知識人に頼ることになる。」(p.134)

 日本でも戦時中に多くの(ほとんどの)芸術家が戦意高揚のための作品をこしらえた。
 『はだしのゲン』のような情熱と執念のこもった反戦作品を生み出したこともある漫画界で、『戦争論』のようなものが登場し、それが書店の平台に積まれているのを見るのは、まったく忸怩たる思いである。

 「人集めが得意で、もろ手をあげて戦争支持にむかわせるような「メディア型学者」がプロパガンダに一役買った。彼らは、ショッキングな手法を考えだし、美談を語り、今日は「情報通」ぶったかと思うと、翌日にはその情報を否定し、少しでも自説に異を唱える者があれば罵倒する。こうして、視聴者の注目を集め、煽動するのだ。」(p.148)
 最近あまりテレビを見ていないが、ワイドショーなどではこういう連中が好き勝手にしゃべっているのだろう。見たいとは思わないが、いい例があったらどなたか教えていただきたい。


第九法則、われわれの大義は神聖なものである。

 「神聖な大義とあれば、何があっても守らなければならない。必要なら武器を手にとってでも。」(p.154)

 「国体護持」を掲げた戦争で敗北した日本において、武器を手に取ってまで守るべき「神聖な大義」などもはやない、とは考えたくない人々が存在し続けている。
 「神の国」で、騙される人はあまり多くはないだろうが、「民主主義」となるとどうだろうか。「国民の生命と安全」ではどうか。


第十法則、この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である。

 「戦争プロパガンダに疑問を投げかける者は誰であれ、愛国心が足らないと非難される。いや、むしろ裏切り者扱いされると言った方がいいだろう。」(p.166)

 5月7日の国会答弁において、中谷防衛庁長官が「同じ日本人、日本に住んでいる方として、こういった事態につきましては、ご協力をいただくというのは当然のことです。」と述べた。 戦時中は戦争に協力しなかったり疑問を投げかけることが許されない雰囲気があった、と当時を語る人は言う。この中谷長官の発言は、まさにそういう威圧を感じさせるものである。


 以上、「有事法制を強行する10の法則」として、原著に、現在問題になっている事態を付け加えて紹介してみたが、「これはまさにあの法則にかなっている!」と思われるような事態はまだまだたくさんあるだろう。
 この文章を読んで不十分に思われた人は、それぞれに、これを完成させていってほしいと思う。また、著者アンヌ・モレリのように新しい法則を追加してみてもいい。それぞれの創意と工夫で、ひとりひとりが自分自身の言葉で平和を語れるようにしていこう。
「たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれは、まったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ。」(p.9)

(2002年5月16日 木村奈保子)