【番組紹介】 NHK・BS2 2003年9月21日再放送
世紀を刻んだ歌
『人生よありがとう Gracias a la Vida』
〜南米 歌い継がれた命の賛歌〜
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
私にくれた ふたつの明星
それを開くと
はっきり見分けられる
黒いものと 白いものを
高い空から 星々の底を
人混みの中から 愛する人を
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
笑いをくれた 涙をくれた
そして私は見分ける 幸せと苦しみ
私の歌をつくる ふたつのものを
あなたたちの歌 それこそがこの歌
すべての人の歌 それが私自身の歌
人生よありがとう
こんなにたくさん 私にくれて
ビオレータ・パラの『人生よありがとう』――私はこの歌を20年以上前から知っているし、今でもとても好きな歌である。しかし、この番組を見てこの歌に対する私の思いはさらに強くなった。この歌が辿った運命が私の想像以上のものであったのだ。番組の冒頭、軍政に抗議する集会で『人生よありがとう』を歌う人々の姿を見ただけで、私のこの歌に対する印象は、大きく変えられることとなった。不勉強だと言われるかも知れないが、この歌がこのような闘いの真っ只中で歌われていたとは、私は全く知らなかった。
実際に、この歌はチリをはじめラテン・アメリカの軍事独裁政権の下で生き、闘ってきた多くの人々を励まし、力を与えてきた。なぜこの歌がそうした場で歌われたのか。その魅力の源はどこにあるのか。さらに、広く音楽一般の力というものについても考えさせられる番組であった。
今年の9月11日は、「もう1つの9.11」と言われるチリの軍事クーデターから30周年であった。ビオレータ・パラの歌と『人生よありがとう』は、チリ革命の歴史と切り離すことはできない。その様々な局面で、色々な思いを込めて歌い継がれてきた。番組は、メキシコの若い女性歌手、マリア・イネス・オチョアが、それが歌われた場所を訪ね歩く形で、描かれる。
1.アジェンデ政権を生んだ「新しい歌」
1970年、チリに、歴史上初めて選挙で選ばれた社会主義政権として、アジェンデ政権が誕生する。ビオレータの死から3年後のことである。アジェンデ政権は成立後、銅鉱山の国有化、大農場の解体、ミルクの無料支給など、それまで外国資本や大地主に搾取、抑圧され、苦しい生活を強いられていた民衆のための政策を実行に移した。
このアジェンデ政権を生みだした運動を、音楽で支えたミュージシャンたちがいた。その1人がビクトル・ハラである。彼は、学生時代にビオレータと知りあい、民衆に根ざした歌を歌う彼女にあこがれ、尊敬するようになる。当時中南米で起こっていた「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動。チリでは、ビクトルを中心とする、ビオレータの魂を受け継いだ若いミュージシャンたちがその運動に共鳴し、「歌で社会を変えられる」と信じ、活動していた。
アジェンデ大統領自身も、ビオレータと『人生よありがとう』がとても好きだったという。
2.禁じられた歌
アジェンデ政権の誕生は、しかし、チリ経済を食い物にしてきた者たちにとっては、大きな脅威であった。中でも、銅鉱山を牛耳りチリの富を奪い続けてきたアメリカは、失った利権を回復するために、何としてもアジェンデ政権を倒したいと考えた。ニクソンは、アメリカが備蓄していた銅を売却し、チリの輸出の80%を占める銅の国際価格を暴落させた。その他様々な経済的締め付けを行い、チリ経済を破綻の淵に追い込んだ。さらに、CIAを通じてチリ国内の反アジェンデ勢力を煽動し、アジェンデ支持勢力との対立を先鋭化させた。そしてついに、1973年9月11日、ピノチェト陸軍総司令官にクーデターを起こさせた。大統領官邸は爆撃され、アジェンデ大統領は殺害された。
このクーデター後、弾圧の嵐が荒れ狂う。多数のアジェンデ支持者が連行、暴行、虐殺された。クーデターから3ヶ月足らずの間に、現在判明しているだけで2000人近くが殺害された。ビクトル・ハラもその1人だった。クーデターの翌12日、チリ・スタジアムに連行されたが、捕らわれた人々を励まそうと、軍の命令を無視し歌ったため、ギターを弾けぬよう手を砕かれ、殺されたとも言われている。
ビクトルが手を後ろに組まされ、5千人の仲間とともに歩かされたという、スタジアムの細い通路を歩く、彼の妻ジョーン・ハラとマリア。コンサートなども行われた場所だというが、とてもそんな明るい雰囲気は感じられない。何とも陰鬱な場所になってしまっていた。ここで、いったい何人が殺されたのか。
ジョーンは、ビクトルが最期に残した詩を読む。
俺たちは五千人
首都の片隅に閉じこめられて
国中でいったい何人閉じこめられているのか
ここだけで一万の手がある
耕し 工場を動かしてきた手が
歌よ おまえは何と無力なのか
恐怖を歌わねばならないとは!
私が生きているという恐怖
死んでいくという恐怖を
この歌が 沈黙と叫びに終わる
その無限の瞬間に 私はいる
今感じる 見たこともない恐怖が
この瞬間に ほとばしるのを
大統領に就任したピノチェトは、左翼的と見なした本や映像、音楽を禁止し、焼き払った。その中に『人生よありがとう』も含まれた。チャランゴやケーナといった楽器までもが、「アジェンデ政権を連想させる」という理由で禁止された。
3.捕らわれの人々を励ました歌
しかし、歌は死ななかった。
マリアは、チリ最南端、マゼラン海峡に浮かぶドーソン島を見る。ドーソン島は、強制収容所の島であった。クーデター後、ここに最大400人が収容、強制労働に従事させられ、暴行、拷問を受けた。しかし、ここで『人生よありがとう』が歌われていたというのである。なぜかギターがあり、『人生よありがとう』やビクトル・ハラの歌を歌っていたという。絶望に陥りそうな毎日の中で、自らを励ますために歌った。捕らわれていた男性は言う。「私たちは音楽の価値を知った。特別な時間の中でね」。
同じくチリ最南端の町プンタ・アレーナス。マリアは、3人の女性に、町にあった「拷問センター」に案内される。「私はここに連行された。拷問の機械や器具があった」、「爪に電極を付け、電流を流した」、「金属製のベッドに裸でねかせて、電流を流していた」‥‥。
ここでも、『人生よありがとう』が歌われた。「胸が張り裂けそうな歌だった」が、「いつでも希望を持っていた。音楽はそれを助けてくれた」。「私たちは生き残った。拷問から生き延びたのだから。だから『人生よありがとう』なの。拷問を受けた昨日は消せないけれど、歌うことで前に進めた。それは私の命があったから」。
3人の女性は、比較的淡々と話しているように見えたが、話し終えた直後、1人が耐えきれなくなったように泣き崩れる。「私におきたこと、30年間誰にも話してこなかった。母は何も知らずに死んだわ。父にも一度も話してないの。私は強くならなくちゃ。今日は全部話せなかったけど」。凄惨な体験による心の傷の深さが感じられる。
4.国境を越えた歌
クーデター直後の弾圧を逃れ、、25万人以上がチリから海外に亡命したと言われている。亡命者はその後も増え続けた。海外ではチリ軍政に抗議し、亡命者との連帯を訴える声が高まった。メキシコで出されたレコード『メキシコ・チリ連帯』。このレコードには、マリアの母、アンパロ・オチョアの歌う『不正のただ中へ』(ビオレータ・パラ作詞)も納められていた。アメリカでは、ジョーン・バエズが『人生よありがとう』を歌った。
また、軍事クーデターと軍政は、チリだけではなく、他の中南米諸国にも共通した問題であった。アルゼンチンでは、76年3月にクーデターが起こる。アルゼンチンで「新しい歌」運動を担っていたメルセデス・ソーサも、スペインへの亡命を余儀なくされた。しかし、彼女はヨーロッパで精力的に活動し、大きな支持を得る。『人生よありがとう』は、彼女の歌声を通じて、世界的に有名な歌になった。
5.軍政と闘い、責任を問う歌
チリで軍政に抗議する集会を撮影した映像が残されている。もちろん、命懸けで撮影されたものである。催涙ガス入りの放水を浴び、護送車に放り込まれる参加者。そうした中で、またも『人生よありがとう』が聞こえてくる。連行されながらも、彼女らは歌うことをやめない。
マリアは、行方不明者家族の会の集会を訪ねる。軍政時代の17年間に、逮捕、拉致され、今も消息の分からない人々が、1000人以上いる。その家族が、真相を究明し責任を追及する運動を、軍政時代から今も続けている。その集会でも歌われる『人生よありがとう』。「なぜこの歌を?」「人生・命への賛歌だから。行方不明者の母、妻、娘である私が求めているものへの賛歌」。「(行方不明者が死んでいても)真実を知らせるため、命がけで闘っている私たちにとって『人生よありがとう』と言うことは決して矛盾ではない」。「私たちに闘い続ける力を、この歌はいっぱいくれるから」。
国内の反軍政闘争の高揚と国際的な批判に押され、チリの軍事政権は88年、信任投票を実施し、敗北。90年、チリはようやく民政を回復した。マリアは旅の最後に、サンティアゴのある公園を訪れる。そこでは、信任投票の後、勝利を祝う大集会が行われ、『人生よありがとう』が歌われた。
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『人生よありがとう』という歌がこれほどの力を持ったのは、文字通り命を賭けた闘いという極限の環境にさらされたからなのかもしれない。毎日のように仲間が暴行、拷問され、命を落としていき、明日は自分かも知れない。そうした中で、「生命への賛歌」である『人生よありがとう』は、大きな輝きを放ち、希望を見失わないための力を与える歌となったのだろう。それにしても、捕らわれ、強制労働させられ、拷問を受ける中で、「人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて‥‥」と歌う気持ちは、どのようなものであったか。
民政を回復したチリだが、軍政による大量殺人、人権侵害の責任は、30年たった今までほとんど追及されないままである。ピノチェトは一旦裁判にかけられたものの、「高齢」を理由に中止され、今も自由の身である。何よりも、クーデターの真の首謀者であるアメリカは、責任を問われないばかりか、その後も様々なやり方で他国への侵略を繰り返した。現在のブッシュ政権になって、ますますその性格を露骨にし、アフガニスタン、イラクの政権を倒し、多数の人々を殺戮した。アメリカの利益を冒す政権は、どのような手段を使ってでも倒すことを厭わない。その政権が、独裁政権か民主主義の政権かというような区別などないことを、「もう1つの9.11」は示している。
自らの利益のために平気で人命を踏みにじるものと対峙する時、生命への賛歌『人生よありがとう』は、それと闘う鋭い武器となる。この武器を、今一度アメリカに、ブッシュ政権に、突きつけたい。
2003年9月28日
(大阪 ウナイ)