書評 ******************
『ファル−ジャ 2004年4月』

ラフ−ル・マハジャンほか=著
益岡賢+いけだよしこ=編訳
現代企画室  1500円+税

イラク占領:悲劇と抵抗の拠点ファルージャの真実
−−2人のジャーナリスト、1人の人権活動家を通して現地住民が私たちに叫ぶ−−


 今年4月、バグダ−ドの西60キロメ−トルにある町ファル−ジャを包囲した米軍は、無差別に市民を虐殺した。
 市街を爆撃し、逃れようとする市民を米軍の狙撃兵はねらい撃ちにした。
 子どもや女性、老人、死傷者を助けようとする者や救急車の運転手も殺戮の対象となった。撃たれて傷つき動けない者は、米兵がナイフでのどを掻き切って殺した。最初の1週間で子どもや女性、老人を中心にイラク人600人以上を虐殺したのである。米軍の途方もない残虐な振る舞いは、日本で報道されることは稀であった。



 まやかしの「主権委譲」後も米軍は、ファルージャへの攻撃をやめようとしていない。7月18日にも、空爆で死傷者が14人出たと報道された。6月19日以降だけで6回、7回に及ぶ空爆による凶行である。子供や女性の犠牲者がほとんどだという。毎回、テロリスト・ザルカウィの暗殺が口実として使われている。一体、ザルカウィが何人いるというのであろうか。はらわたが煮えくり返る思いである。

 この本は、今年4月10日、11日、13日〜15日にかけてファル−ジャに侵攻し、700人とも1000人ともいわれる大量虐殺事件を起こした米軍とブッシュを断罪しなければならない、何が何でもこれをストップしなければならないという強い思いから出版されたものである。編訳者の益岡氏は、報道の貧困に危機感を持って事件の発端4月10日頃から自身のホ−ムペ−ジ上でファル−ジャの虐殺を告発していた。それを見た現代企画室の太田昌国編集長から、緊急にファル−ジャの本を出せないかとの打診があったのが4月15日。それから約2週間という短期間でこの本はまとめられたという。この本を益岡氏は自身のホ−ムペ−ジで次のように紹介している。

「2004年4月、米軍が街を包囲し、陸空から攻撃を行い、商店を破壊し家を破壊し、人々を殺害していたまさにその只中にファルージャに入った“西側”の人々の中に、米国籍のジャーナリスト2名と英国籍の人道活動家がいました。彼らはウェブログなどを利用してネットで日々の状況を発信していました。
 この218ページの小さな書籍は、これらのジャーナリスト(ラフール・マハジャン、ダール・ジャマイル)と人道活動家(ジョー・ワイルディング)の記事を、現代企画室と編訳者が独自に企画・編集し、日本語化したものです。
 ファルージャで何が起きていたのか、何が行われていたのか、何が為されていたのかを3人の視点によって立体的に描き出すこと。
 イラクの人々が生きる『いま』を知り、また、イラクの人たちと私たちの間にある隔たりに思いをめぐらせること。
 米英主導のイラク占領とは一体何なのか、そこで起きている『テロ』とは何なのか、さらに日本の自衛隊のイラク派遣はどのように位置付けられるのかを、じっくり考えること。 ちょっと欲張りすぎかも知れませんが、この本のねらいです。」

 編訳者を代表して益岡賢氏は、「あとがき」でアメリカの虐殺に反対の声を上げる事の大切さを強調している。
「私たちは、意志と希望とを選択しよう。ブッシュや小泉に、よりよい世界を求める私たちの意志と希望は破壊させないのだ、と。それは何よりも大切な出発点となるだろう。
 ファル−ジャでの米軍による虐殺を記録したこの小さな本が、イラクでの虐殺を止めるだけでなく、大国による不正と暴力が蔓延するこの世界を変えようという一人一人の行動に、わずかでも役立つことを願っています。」

 この本を読むには十分な想像力が必要となる。フャル−ジャ市民の立場に自分を置き換えて読むとよい。そうすれば占領下にあるイラク人の気持ちが少しは理解できるのではないだろうか。
 たとえば、自分の住む町が米軍に包囲されたとしよう。爆撃が始まる。500ポンド爆弾が炸裂する。すさまじい爆発、地響き。恐怖の時は、昼も夜も休み無く1週間も続く。ようやく爆撃が停止し、避難しようと屋外に出ると突然撃たれる。愛する人、家族や友人が倒れても助けることができない。これが米軍のやっていることなのだ。そして、小泉首相はこんな米軍を支持している。傍観者でいられるだろうか!
 そしてファル−ジャの市民は米軍に屈服するのではなく、自分自身と人間の尊厳のために、報復を覚悟して抵抗の道を選んだのである。

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■怒りを呼んだ米軍の暴力的で攻撃的なパトロ−ル。
ファル−ジャは、米軍が来るまでは比較的平穏な町であった。ところが、米軍の「攻撃的なパトロ−ル」や暗視鏡を使ってのプライバシ−の侵害が、次第にファル−ジャ市民の怒りを呼び、反発を強めていく。

 ラフ−ル・マハジャンによると、バグダ−ドで行われていたアメリカの攻撃的なパトロ−ルは次のようなものであった。
 「この強制捜査はいつも通りのやり方で始められた−−戦車で門を破壊して突入し、ハンマ−という軍用車両が乗り込んだのである。ハンマ−は救援物資の一部を踏みつけてめちゃくちゃにした。」
 「また、兵士たちは袋を引き裂いてライフルを探したため、車両で踏みつけられなかった物資もめちゃくちゃにされた。」
 「彼らは全員、銃を後頭部に突きつけられ、床に伏せることを命ぜられた。」
 「私たちはモスクと、モスクに併設されているイマ−ム・アドハム・イスラ−ム学校を隅々まで見て回った。何十枚もの扉が壊され、窓が割られ、天井が剥がされ、壁や天井は弾痕だらけだった。米兵たちは、天井裏に隠された不法な武器を探すために、まず天井に向けて銃を乱射し、それからパネルを剥がして天井裏に上り捜索したのだ。」


■平和的なデモに米軍が発砲し15人を殺害−−2003年4月28日、ファル−ジャ抵抗運動の始まり。 
「緊張は、こうして高まっていった。
 米軍のフャル−ジャ占領に対する抗議のデモは、4月28日、午後6時半頃に始まった。150人ほどの住民が、米軍が駐留するバアス党本部前に集まったのである。参加者によると、デモは平和的で、誰も銃は持っていなかった。」
 「夜10時頃、人々は再び集まり、小学校の方へ向かった。100人から250人ほどの人が参加していたという。ヒュ−マンライツ・ウォッチがインタビュ−した約20人の目撃者と参加者は、誰もが、デモ参加者は武器を持っていなかったと言っている。

 デモの一行が小学校に到達するとすぐに銃撃が始まった。デモ参加者とイラク人目撃者は、デモ参加者からは何一つ挑発行為がなかったにもかかわらず、米軍が発砲したことを強調する。」

 「この事件以来、ファル−ジャは米軍に対する強固な抵抗に転じた。」その後、約1年間、「レジスタンス勢力と米軍との間で戦闘が激化」「2004年3月31日、米国の傭兵会社ブラックウォ−タ−社の社員4名」が襲撃され、その焼死体が「ユ−フラテス川の橋に吊り下げられた。」


■救急車や女性や子どもを撃つ凶暴な米軍。

狙撃され弾痕が残る救急車。 アメリカ兵は運転手を殺している。
 「4月5日、米軍海兵隊はファル−ジャを包囲し、実質上封鎖、4人の傭兵会社社員を殺害した者たちを狩り出すという名目で、陸空からファル−ジャ市民への攻撃を開始した。
 10日、米軍は『一時停戦』を発表するが、閉ざされた街の中で、攻撃は続いた。これにより、4月半ばまでの半月間で殺されたイラク人の数は、女性や子ども、老人など、700人にのぼると推定されている。」
 「『停戦』の中、大規模爆撃は稀だった。大規模爆撃はいったん停止し、米軍は重火器で攻撃を続けていたが、基本的には、狙撃兵による攻撃が行われていた。」

 ラフ−ル・マハジャンは、「ファル−ジャ入りする前、私は救急車や女性や子どもが撃たれていると間接的に耳にしてはいたが、まさかそんなことはなかろうと思っていた。ここでは真実を知ることはとても難しい。けれども、私自身が目撃したのだ。フロントガラスの運転席側に、形のよい正確な弾痕が二つ残った一台の救急車。弾痕の角度は、弾が運転手の胸に当たったであろうことを示していた(狙撃兵たちは屋上におり、胸を狙うよう訓練を受けている)。それから、フロントガラスにくっきりとした弾痕が一つ残っているもう一台の救急車。これらは、パニックを起こしてやたらと発砲しまくった結果では、あり得ない。運転手を殺す目的で狙いすまして発砲されている。
 救急車は、赤・青・緑のランプを点灯させ、サイレンを鳴らして走っている。停電で真っ暗闇の街の路上で、救急車が別の何かと間違われることなど、あり得ない。」

 「小さな診療所に私たちがいた4時間ほどの間に、おそらく10人を超える負傷者が運び込まれるのを目撃した。その一人は18歳の若い女性で、頭を撃たれていた。診療所に運び込まれたとき、彼女は口を押さえ、口からは泡が出ていた。医者たちは、一晩持たないだろう、と言っていた。また別の少年は、大量に内出血していた。おそらくは、末期的状態だったろう。もう一人私が目にした男性は、上半身にひどいやけどを負っており、太股がズタズタになっていた。クラスタ−爆弾によるものかもしれない傷である。」


■イラク人はファル−ジャに連帯する。驚くべき団結心と連帯意識。
 ダール・ジャマイルは語る。「ファル−ジャはメディアにはほとんど登場しない。しかし、市全体が封鎖され、集団懲罰として、水道も電気も、もう数日間もストップされた状態だ。現地から新聞記事やニュ−スを伝えるジャ−ナリストはたったの二人。だから私はどうしても現地に赴いて、現在間違いなく行われている数々の凶行をこの目で見なければと感じた。」

 「ムジャヒディ−ンの支配地域に入ったのだ。農道を抜けてバスはくねくねと進んでいく。道端に人がいれば、その人は必ず『ファル−ジャまで行かれるあなた方に神のご慈悲あれ!』と叫ぶ。道端にいた人々はみな私たちに向けてVサインを示し、手を振り、親指を立ててみせた。 
 ファル−ジャの近くまで来ると、道の両側に子どもたちの集団がいくつも陣取って、ファル−ジャへとやってくる人々に水とパンを渡していた。子どもたちは、平べったいパンを重ねてくくったものを、私たちのバスにぽんぽんと投げ込み始めた。その団結心と共同体意識は信じがたいほどだった。道沿いにずっとこういう集団がいて、みなが私たちにエ−ルを送り、私たちを励ましてくれていた。」


■犠牲者のほとんどが女性と子ども。フャル−ジャ市民の決意と自信。
 「私がいる間にも、この不衛生な診療所には次から次へと女性や子どもが運び込まれてきた。米軍に狙撃された人々だ。何台もの車が診療所正面のカ−ブに猛スピ−ドで乗りつけては、家族が泣き叫んで患者たちを運び込んでいく。 
 ある女性と幼い子どもは、首を撃ち抜かれていた。女性は呼吸するのにゴボゴボという音を立て、医師たちは懸命に彼女の手当をした。女性は声にならないうめき声を上げていた。 
 幼い子どもの方は生気を失った目で中空を見つめ、医師たちはその子どもの命を救おうと急いで処置を施している間も、絶え間なく嘔吐していた。
 30分が過ぎ、女性も子どもも、どちらも助からないようだった。
 米軍の攻撃の犠牲者がひとりまたひとりと診療所に運び込まれていたが、そのほとんど全員が女性と子どもだった。
 狙撃が続き、こういった光景が夜まで途切れ途切れに続いた。夕刻が迫ったころ、近くのモスクのスピ−カ−が、ムジャヒディ−ンが米軍の車列を一つ殲滅した、と告げた。祝砲の銃声が通りを満たし、喜びの声が上がった。モスクが大音響で祈りを流し始めると、この一帯の決意と自信は私にも肌で感じられた。」

 「私がファル−ジャにいた間、ずっと絶え間なく何かの兵器の低音がしていた。」
 「長い夜だった−−濾過していない水を飲んだために具合が悪く、それが治まったかと思うと本格的な侵攻が始まるのではと不安になり、私は眠れなかった。眠りに落ちようとするたびにジェット機が上空を通り、本格的な爆撃が始まるのだろうかと思った。ファル−ジャ一帯で、低音は鳴り続けていた。」
 「再び救急車で出かけて2遺体を収容してきた友人のひとりによれば、彼女が出くわした海兵隊員が、まもなく軍は『町の掃討作戦』を開始する、空からの援護も行うから立ち去るように、と告げた、とのことだ。彼女たちが診療所に運んできた遺体のうち一体は、自宅の外で狙撃兵に撃たれた老人だった。家の中では妻と子供たちが泣き叫んでいた。
 自分まで米兵に狙撃されるのではないかと、家族は父親の遺体のところまで行くことができなかった。診療所に運び込まれた父親の遺体は硬直しており、蠅が何匹もたかっていた。」


■「私がしなければ、誰がするのだろう。」−−ファル−ジャ市民の救出に向かったジョー・ワイルディングの思い。
 「なぜ私がこのバスに乗っているのか。それは、知人のジャ−ナリストが夜の11時に私のところに来て、こんな話をしていったからだ−−ファル−ジャの状況は本当にひどい、手足を吹き飛ばされた子どもをファル−ジャから運び出してきたんだ。米軍兵士たちは住民に、夕暮れまでにファル−ジャを出ろ、さもなくば殺すと言っていたが、住民たちが運べるものをかき集めて逃げようとすると、市のはずれにある米軍の検問所で止められる。そしてそのまま、町を出ることを許されず、身動きを取ることもできず、日が沈むのを見つめるだけだったよ。
 そのジャ−ナリストはまた、救援車両やメディアもファル−ジャに入る手前で引き返させられていると私に説明した。そして、医療援助物資をファル−ジャに運び入れなければならないのだが、外国人、つまり西洋人がいれば、米軍の検問を通過してファル−ジャにはいりやすくなる、と。」


■白旗を掲げた老女を撃つ米兵。狙撃兵の前を通って、倒れた人を運ぶ恐怖の体験。
 「『こちらへ』とマキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこには、お腹に受けた銃創を縫ったばかりの、年老いた女性がいた。女性は、それとは別に脚にも怪我をしていて、そちらには包帯がまかれていたが、彼女が寝ているベッドには血が染み込んでいた。この女性は白旗を今も手に握りしめている。彼女の話も同じ。『バグダッドに向かおうと家を出たら、米軍の狙撃兵に撃たれたのです』。」

 「イラクに行くなんて頭がおかしいんじゃないの、と言った人たちが何人かいた。ファル−ジャに行くなんて、完全に正気の沙汰じゃない、と多くの人たちが言った。そして今、ピックアップ(小型トラック)の後ろに乗って狙撃兵がいるところを通り、病気や怪我で倒れた人たちを車で運ぶなんてことは、これまで見たこともないほど常軌を逸したことだと私に向かって言う人がいる。でも、私たちがしなければ、誰もしないではないか。」


■「戦闘年齢の男性は破壊される町から立ち去ることを禁ずる。」メディアの目から隠された凶行。
 「私たちが、銃火の中を安全に人々をエスコ−トするのではないかと期待したのだろう、子どもも、女性も、男性も、家からあふれ出てきた。そして、全員行くことができるのか、それとも女性と子どもだけなのか、と心配そうに私たちに尋ねた。私たちは、海兵隊に訊いた。若い海兵隊員が、戦闘年齢の男性は立ち去ることを禁ずると述べた。戦闘年齢って具体的に、と私は訊いた。海兵隊員は、少し考えて、45歳より下は全員、と言った。下限はなかった。
 ここにいる男性が全員、完全に破壊されようとしている街に閉じこめられるなんて、冗談ではない。彼らの全員が戦士であるわけではなく、全員が武装武装しているわけでもない。こんな事態が、世界の目から隠されて、メディアの目から隠されて進められている。ファル−ジャのメディアのほとんどは海兵隊に『軍属』しているか、郊外で追い返されているからだ。」


■倒れた人の喉を切り裂く海兵隊員。導師が語るファル−ジャ市民の決意。
 「診療所に遺体が一体運ばれてきた。脚を負傷し、喉が切り裂かれていた。怪我をして道に倒れていたところを、海兵隊員たちがやってきて、彼の喉を切り裂いたのだ、と男たちが言う。」
 「私たちはモスクの導師と話をした。彼は、病院は合わせて1200人の怪我人が出たことを記録しており、戦闘が始まって5日の間に、500人から600人の死者が出ている、また、最初の3日間で、86人の子どもが殺されたと語った。」 

 「『ファル−ジャの人々は、平和を愛しています。けれども、この米軍の攻撃で、米軍はこの土地の友人を一人残らず失いました。ファル−ジャには旧イラク国軍に所属し訓練を受けていた士官や兵士もいましたが、ほんの何人かですよ。それが今では、誰もがレジスタンスに参加しています。男たちが全員戦っているわけではありません。家族とともにファル−ジャから出ていった人もいますし、診療所で働いたり物資を運んだり、交渉団に加わっている人もいます。私たちは最後の最後まで戦う覚悟です。たとえ100年かかろうとも』」

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 その後のファル−ジャ市民の抵抗は、米軍が戦闘中止を検討せざるを得ないほどの打撃を米軍に与えた。2004年4月は、アメリカの占領政策の変更を迫る画期的ものとなった。ファル−ジャの虐殺は、使命感を持った人々がフャル−ジャに入り、報道をすることで明らかになったのである。自己責任論を振り回し、本来の報道責任を回避する堕落した日本のマスコミとは比べようもない。

 この本はファル−ジャの虐殺を告発するだけではない。イラクの悲惨な現状をもっと知るための文献やウエブサイトの紹介もしている。知った後は、アメリカの戦争犯罪を何としても止めたい、行動をしたいという人も出てくるはずである。巻末の「ささやかながら、できること」ですぐにでもできる行動を提案している。短期間でこのような素晴らしい本を出版された益岡氏らの奮闘にエールを送りたい。共に戦争の無い世界を目指して。
(大阪 高山)