チェ・ゲバラの原爆惨禍へのこだわりと広島への思い
テレメンタリー2007『炎の記憶〜原爆の残り火をキューバへ〜』

 いかにチェ・ゲバラが広島の原爆の惨禍にこだわり、悲劇を繰り返させまいと念じていたか−−丹念に取材された広島ホームテレビの番組から伝わってくる。国際医療支援や環境保護に精力的に取り組む「人類愛」ともいえるキューバの姿勢が、革命当初から、そしてゲバラの強い意志によって構築されたということが、「広島」「原爆」を通じてもひしひしと感じる。この番組は、ゲバラの銅像と共に魅力的なナレーションで始まる。「夏空の元に一人の男が立っていました。右手には武器。しかしその手は意外にも優しく柔らかかったといいます。キューバ革命の指導者チェ・ゲバラ。2年にわたるゲリラ戦を勝ち抜いた彼が行きたかった場所。それは平和都市広島でした。」
 1959年革命の成功からわずか半年後の7月、ゲバラは使節団の団長として日本を訪れた。このときゲバラは広島訪問に強くこだわった。日本を訪れたキューバの使節団は6名。団長はゲバラ。使節団は日本各地の産業を見学しキューバの特産品である砂糖の貿易交渉もした。広島行きはゲバラの強い希望だった。しかし、日本政府はこれを許さなかった。
 そのときの副団長であったフェルナンデスさん(ノーベル平和賞を受けた反核団体IPPUWのメンバーの一人)が回想する。「どうしても広島を見せてくれないんだ。アメリカがやったことは見せたくない、そう思ったのかもしれない。それなのにチェはすごかった。『僕らには48時間しかないから、日本政府には言わずに広島ににいこう』と言い出したんだ。フェルナンデスさんはいたずらっぽく笑う。使節団の半分を大阪に残しゲバラたち三人は極秘に夜行列車で広島行きを強行する。「原爆資料館で見たものはただ恐ろしいものばかりだった」という。ゲバラは大きな衝撃を受け、「これからは広島を広島の人を愛していこう」という言葉を残す。そして「アメリカが犯した罪、引き起こした惨劇を、つまり私たちが見た同じものをあなたたちもみてくるべきだ」というメッセージをカストロをはじめキューバ国民に発する。カストロ議長f2003年に広島を訪れた、ゲバラの思いをあらためて知ることになる。

 広島でも1945年8月6日8時15分の意味を知る若者も少なくなったという。キューバでは毎年8月6日平和を祈る集いが行われている。キューバで大人や子どもたちにインタビューを行う。原爆は中学2年生で学ぶ。教科書には3ページにわたって書かれている。「フィデルはよく広島のことを話すんだ」「アメリカが原爆を落とした日だと思います。広島と長崎」「原爆記念日です」−−子どもたちは口々に答える。「8月13日なら知っているさ。我らがコマンダンテ、フィデル・カストロの誕生日さ」とわざと冗談を言う子どももいる。フィデルとファーストネームで呼び、誕生日を知っているのが誇らしげだ。その子もすぐに「あっそうだ、6日は広島、9日は長崎だ」と答える。

広島の原爆の残り火をキューバに送る計画を進めるアテナジャパン代表の吉田沙由里さんは言う「キューバは広島・長崎について本気で考えてくれている。だから、残り火をキューバに送ろうと思いました」。キューバ側は外務省が中心になってプロジェクトを立ち上げている。残り火とは、一人の男性がすべてを焼き尽くした広島の残り火を故郷の福岡県星野村に持ち帰り燃やし続けてきたのである。そこには平和の塔がある。その残り火を世界に分けて核兵器のない平和な世を築きたいというのがこの計画だ。キューバは広島の残り火が向かう最初の国である。原爆の残り火を広島から持ち帰った山本達雄さんは2004年に亡くなった。大事に残り火を守りながら、時には「この手でアメリカをころしてやる」と話していたという。62年間消されることなく守り続けられてきた原爆の残り火は、被爆者を追悼する火であり、恨みの火でもあったという。
アレイダさんが講演で、ホセ・マルティの言葉「白いバラを誠実な友たちのためにつくろう」を引用した意味、チェ・ゲバラが「これからは広島を広島の人を愛していこう」と語った意味を何度も考えていきたいと思う。

2008年5月26日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 N



番組の一部以下で観ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=pdXZDjpiuPQ
http://www.youtube.com/watch?v=T5Z6y43n_nw&feature=related