泥沼化するイラク、パレスチナ紛争/
日本は孤立化する米国の「忠犬」でいいのか
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中村富美子 (『サンデー毎日』11月16日号)
悪化の一途をたどるイラク情勢は、中東全域を不安定にさせる危険をはらみながら、ブッシュ批判の声を内外に高めている。このまま無批判に米国に追従し続けるなら、日本は後戻りのできない袋小路へと追い込まれるだろう。緊迫する中東の、日本にとっての意味を再考したい。
10月26日、バグダッドの占領軍司令部となっているアルラシッドホテルが爆撃された。安全対策が最も堅固なはずのホテルには、ウルフォウィッツ米国防副長官が滞在中していた。ネオコンサーバティブの代表格である同副長官は、イラク戦争を最も強硬に推進したシオニストである。
翌27日。断食月の初日にもかかわらず、赤十字を含む5カ所が自爆攻撃を受け、死者は40人以上にのぼった。
急速に激化する抵抗。メッセージは明瞭だ。@米国は孤立しつつある。同盟国は増強されていないA地域の不満は高まっているーーの2点である。占領が続く限り、対象を選ばないテロへと拡大するだろう。
米国の孤立化は、マドリッドでのイラク復興支援国会議の結果にも表れている。目標の550億jに遠く及ばず、しかも拠出の8割近くは米国と日本が占めている。
マドリッド会議を前に、米国はイラク復興への経済援助を正当化するため、国連決議1511を可決に持ち込んだ。これにより国連憲章を無視して行われたイラク戦争の違法性は問われないまま、占領軍が事実上の国連多国籍軍となる。
仏独露は決議直後の声明でクギをさすように、追加の経済援助や派兵の意思はないことを表明した。
欧州が強く求めていた占領軍撤退とイラク国民による政権への移行について、米国は具体的な日程を示さず、実質的には何ら進展がなかったと判断したためだ。
パキスタンも決議後あらためて派兵を拒否した。米国からの強い圧力で、国民の反対を押し切って派兵を一度は決定したトルコも、米国の息のかかったイラク統治評議会からさえ受け入れ反対の声があがり、派兵中止に追い込まれた。
こうしたなか、日本の50億j拠出のニュースは突出し、当地フランスのテレビ討論会でもしばしば揶揄の対象になった。
「政治的前進がないのに支援する国はない」「日本以外はね」「ブッシュ側近の多国籍企業が独占する、米国のための経済復興に援助などできない」「日本以外はね」といった調子だ。
イラクの治安悪化が、技術的な安全対策以前の問題であることは誰の目にも明らかだ。戦争と占領の不法性が問われないまま、帝国主義的支配が続いていることに原因がある。
周辺諸国からイスラム過激派が大挙イラク入りしているとの情報もある。最大の被害者はイラク国民にほかならない。
この状況下で自衛隊を派遣すれば、どうなるか。強国の一方的な暴力に苦しむ人々の怒りの的となり命を落とす、あるいは奪う事態が発生するだろう。
イラクの泥沼化は、50年来、中東の火種となってきたイスラエル・パレスチナ紛争の悪化も影響している。イスラエルは1948年の建国以来、数多の国連決議を無視し、国際法に違反して占領を続け、占領地で市民を殺戮し、20世紀が清算したはずの植民地主義を続行し、アパルトヘイトを継続している。
それを許しているのは、米国の無条件のイスラエル支持である。
アパルトヘイトは今、「テロリストの侵入を防ぐ安全壁」として物理的に完成されつつある。高さ8b。パレスチナ占領地(ガザ地区、ヨルダン川西岸)の村を囲い込む分離壁は、国連決議が定める67年の国境線から4割近く占領地内部に食い込みながら建設され続けている。壁の建設のために家を破壊され、農地も水源も通行の自由も奪われ、高く厚い壁の内側に閉じ込められるパレスチナ人にとって「安全壁」は分離壁どころか監獄の壁、強制収容所の壁である。
その壁の中で生きる子供たちは、どうして怒りと憎しみを育てずにいられるだろうか。
国連総会は10月21日、反対する米国に抗し、賛成144の圧倒的多数で、この分離壁の建設中止と破壊を求める決議を行った。イスラエルのシャロン首相はこの決議に答えて言った。
「安全壁は建て続ける。国際社会に背を向けられても構わない。米国がいる」
10月5日、ハイファでの大規模な自爆攻撃の報復として、イスラエルは30年ぶりに隣国シリアを空爆した。テロ組織の訓練所があると言って。アラブ諸国はもとより欧州もいっせいに非難したが、ブッシュ大統領は反テロ戦争の一貫として再三にわたり肯定した。シリアを「悪の枢軸国」と見る米国は、イラクからさらにシリアへと泥沼を拡大させる可能性も高い。そうなれば中東は火の海だ。
中東全域の安定のためにも、イスラエル・パレスチナ紛争の解決は緊急課題である。そのためにはイスラル軍の占領地からの即時撤退、そしてパレスチナ人の生命と人権を守る国連軍の派遣が早急に求められる。
今、ブッシュ大統領の和平案に代わる別の和平案が非公式にスイスの主導で進行している。イスラエル側からは、かつて労働党の法相を勤めオスロ合意の立役者でもあったヨシ・ベイリン氏。パレスチナ側はアラファト・パレスチナ自治政府議長に近いヤセル・アベド・ラボ氏が参加している。
10月24日の『ハーレツ』紙に発表された草案によれば、イスラエル領内へのパレスチナ難民の帰還権放棄など、パレスチナ側の負担が重いように見える。しかしイスラエルの平和運動家ウリ・アブネリが指摘するように、シャロン首相が妨げている和平の可能性を、実現させようとする力が二つの社会にまだあることを示して希望はある。
今年3月、パレスチナ人の家を破壊しようとするイスラエル軍のブルドーザーの前に立ち、ひき殺された米国の平和運動家レイチェル氏は「パレスチナでは8歳の子でも、世界の構造を私よりよく理解している」と母親にあてて書いている。
極東の島国の役割は、孤立化する巨大な戦争機械に油を注ぎ続けることではないはずだ。
世界の中にしっかりと自らを位置づける努力をしない限り、私たちに未来はない。
在仏ジャーナリスト・中村富美子
[インタビュー]
映像の爆弾でイスラエルを批判し続ける
映画作家 アモス・ギタイ
イスラエル社会を内部から批判的に見つめる作品で、国際的評価を得る映画作家アモス・ギタイ。現代美術の発信地、ポンピドー・センターで開催中の回顧展のため渡仏した監督に話を聞いた。(映画写真はポンピドー・センター提供)
(プロフィール)
1950年、ハイファ生まれ。UCLAバークレー校で建築学博士号取得。73年に従軍したキプール戦争を機に映画作家となる。占領を扱ったドキュメンタリー『家』『従軍日誌』が放映禁止となり、83年パリに亡命。93年、オスロ合意とともに帰国。代表作に『キプール』『カドッシュ』がある。新作『アリラ』は11月末、東京フィルメックスにて招待上映。12月2−13日、アテネ・フランセ文化センターにてドキュメンタリー特集。
つい先日、20名の死者をだす自爆攻撃がハイファのレストランでありました。監督が生まれ育った街ですね。
あの店『マキシム』は私もよく知っています。気取りのない庶民的なアラブ料理が自慢で、ホンムスやタヒーニが絶品でした。経営者の家族にも客にも、アラブ人とユダヤ人が交じっていました。ユダヤ国家であるイスラエルには2割のアラブ系市民がいますが、日常をともにする地域はわずか。ハイファはイスラエルでも数少ない共存の街のひとつです。日常の中に多文化社会があることは、とても大切です。テレビだけを現実の窓にしていると「テロリストとしてのアラブ人」しか見えませんから。
ハイファの自爆攻撃を受けて、イスラエルは30年ぶりにシリアを空爆しました。30年前とは、まさに監督が従軍してシリアの爆撃を受けたキプール戦争です。
私はシリア国境のゴラン高原で、救援部隊として従軍しました。戦車ごと丸焦げになった兵士や、落下した飛行士を救助する、いわば戦闘の結果を拾い集める仕事です。戦争が始まって5日目の10月11日、私の23歳の誕生日だったのですが、私達はいつものように赤十字の救助ヘリに乗り、シリア側に墜落した戦闘機の救助に向かっていました。12時頃、向かうべき墜落位置を確認した、ちょうどその時です。ミサイルがコックピットを直撃した。めちゃくちゃに破壊された操縦席で飛行士の一人は死に、生き残ったもう一人が油圧システムをなんとか維持して3分ほど飛行し、イスラエル領地内に墜落したのです。私は奇跡的に生還しました。
イスラエル史上初めての敗戦となったキプール戦争は、社会に大きな衝撃を与えました。政権批判が高まり、3年後の76年、労働党(左派シオニスト)が支配力を失い、建国以来初めて右(右派シオニストであるリクード党)に政権が移ったのです。
個人的にも苦痛と断絶の体験でした。戦場にあるのは混乱と無意味、無秩序、不条理だけです。愛する人や生活から引き離され、すべてが意味を失う決定的なばかばかしさの中に放り込まれる経験でした。
イスラエル社会のあらゆる創造的活力は戦争国家になる中で後退してしまいました。爆弾、ミサイル、、、すべての活力と資源が戦争に食い荒らされ、ユートピア的なキブツも失われました。そんな戦争とは何なのかを考えるために、私は映像作家になったのです。
自伝的作品『キプール』にはほとんど言葉がなく、張り詰めた映像の中に、まさに戦争の無意味と混乱が現前しています
そもそも戦場に会話などありません。「運べ」「右だ」といった最小限の単語だけです。そういう生の戦争、戦場を支配する無意味と不条理、人間性の浪費を伝えたかった。
私たちの周りには戦争映画があふれています。戦争への偏愛、極端に形式化したキッチュな映像。もうそういう映画はいらない。現実から出発して、社会や世界を考え直すための映像表現が必要なのです。
それだけに、アラブ世界の巨匠シャヒーン監督が、カンヌで最も印象深かった映画として『キプール』を挙げてくれたことには感激しました。アラブの日刊紙に載ったその記事のせいで監督はエジプト映画作家連盟に呼び出され、どうしてイスラエルの作家など好きになれるのかと問い詰められた。監督はひるまず私の仕事を弁護してくれました「たとえ彼がイスラエル人で私がエジプト人でも、彼の仕事を尊敬している」と。中東のすべての公式機関がイスラエルには憎しみをもっているのですから、それだけで大変な行為です。
だからもし映画にできることがあるとすれば、橋をかけることでしょう。憎しみの河を渡る橋。それが私の仕事です。
直接的な政治活動への関心はなかったのですか
たしかに映画は直接的に世界を変えるための手段ではありません。しかし時として政治活動より効果的な批判力を持ちます。より根本的に過激に発言できるからです。
もっともいまはマーケッティングだけによって作られた、消費のためのパッケージ商品が多すぎます。
しかし教条主義も危険です。現実は単純ではありません。現実をその複雑さにおいて受け止め、アートとして翻訳するべきです。それは、こういうことです。
私はパレスチナの大義を支持している。他民族を一方的に'支配などできない。平和的手段によって'解決し共存するべきだと。しかしこの政治的立場を表現するのに、アラファトの顔も、シャロンの顔もいらないのです。
放映禁止となったドキュメンタリー『家』を見るとよくわかります。たった1軒のエルサレムの家。その所有者の移り変わりを撮るだけで、厳しい体制批判となっています。
あれはパレスチナ人の医者が住む家でした。48年の建国時の戦争で、彼は家を離れます。イスラエル軍による虐殺事件もあり、多くのアラブ人は一時的な避難のつもりで家を離れたのです。ところがイスラエル政府は「所有者不在」の法により一方的に没収し、ユダヤ人に払い下げていきます。
自分の家にユダヤ人が住み、戻る場所を失ったパレスチナ人。新たな住人であるユダヤ人に低賃金で雇われるパレスチナ人の石工。あの家はイスラエルそのものの比喩です。
この作品が今でもイスラエル人をいらだたせるのは、なぜだと思います? パレスチナ人が威厳に満ちているからです。ぼろをまとい埃にまみれた石工が、苦しい暮らしや悲しみを語る言葉は詩的でさえあります。彼のボデューランゲージは実に洗練されています。家主であった医師も穏やかで品格に満ちている。かたや現在の住人であるイスラエルの経済学教授は拝金主義的で粗野です。どちらが野蛮かを映像が語ってしまう。それがこの映画の爆弾なのです。
その映像の考え方はメディア批判にも通じますね
私にとって映像制作は常に主観的な行為です。20時のニュース番組でも同じことです。イスラエル,パレスチナ、米国、日本、フランス、ブラジルはそれぞれ別の視点で別のことを語ります。私達はそれらを総合して世界を見るべきです。一つの情報源だけを、例えばCNNだけをとりあげて世界を語ることはできません。
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