反占領・平和レポート NO.8 (2002/03/19) ドキュメンタリー「パレスチナ少女・交流の記録」 |
3月10日(日)、NHK衛星第1放送で、第10回地球環境映画祭・最優秀賞受賞作品「パレスチナ少女・交流の記録」(50分)の放映がありました。以下は、その内容紹介です。何一つ付け加えることはありません。少女たちの語る一つ一つの言葉が全てを物語っているのです。彼女たちにせめて何かできないのかと焦りを感じます。
モナとマナ
レバノン・ベイルートのシャティーラ難民キャンプで暮らす少女、モナ・ザルーラ13歳(もうすぐ14歳)。「鳥になりたい。鳥は空を飛べるから。」「誰にも自由を奪われたくない。」「難民キャンプは鳥かごみたい。私たちは自由を奪われた鳥。こんなところにいたら鳥は寂しさで死んでしまう。」
モナは、男5人女7人の12人兄弟姉妹。2歳のとき、学校の先生をしていた父親が心臓発作で亡くなりました。3人の姉がもう結婚しています。サマルという親友がいます。サマルは1歳のとき、このシャティーラ難民キャンプで起こった虐殺で父親を殺され、8歳の時、母親にまで見捨てられました。
パレスチナ・ベツレヘムのテヘイシャ難民キャンプで暮らす少女、マナ・マジート・ファラージュ14歳。マナは、男3人女2人の兄弟姉妹と両親の7人家族。難民キャンプ中の壁に、人々の思いが書きつけられています。その一つにはこうあります、“平和を望むなら、難民に祖国を返せ”と。
「キャンプの壁には私たち難民の心の叫びが書かれています。私は、それを写真に撮っておきたい。」「私が生まれたとき父は投獄されていました。父はいつもどこかに隠れ逃げまわっていました。たまに帰ってきても家には、ひと月いるぐらい。でもそのときには刑務所で覚えた歌を歌ってくれました。」
子供たちが集うセンターを通じた交流
テヘイシャ難民キャンプには、イブダ・センターという子供たちの活動の場があって、休みの日になると子供たちが集います。ここで、レバノンのシャティーラ難民キャンプの子供たちと文通してみないかという話しが出て、ビデオ・レターを送ります。シャティーラ難民キャンプにもサモード・センターという子供たちが集うセンターがあります。このセンターのほとんどの子供たちは、虐殺事件で父親を亡くしています。テヘイシャ難民キャンプからのビデオ・レターに、みんな思い思いの相手を見つけて手紙を書き、国境によってへだてられたパレスチナ人の子供たちの間で文通が始まります。
辛く、悲しく、また窒息しそうな日常の中で、子供たちは助け合い支え合って、笑顔を忘れず生きています。歌のうまい子が皆からせがまれて歌います。
祖国パレスチナよ 君への思いは変わらない
君に私の人生をささげる 君は我らの沈まぬ太陽
殺戮に苦しみ自由を奪われ 迫害されても変わらない
祖国パレスチナよ 我が心に問いかける
私の涙は止まらない なぜ幼いあの子が死ぬのだろう?
あの子は永遠に 我らの心で生き続ける
レバノン国境での交流
2000年5月25日、レバノン国境からイスラエル軍が完全撤退しました。国境で有刺鉄線越しにではありますが、人々が交流できるようになりました。モナたちは、バスに乗って国境まで祖国パレスチナを見に行きました。人々が歌い、踊る。モナも親友のサマルも。
「パレスチナが私を呼んでいる。・・・涙が止まりませんでした。祖国を見ることができた感動で胸がいっぱいでした。」
テヘイシャ難民キャンプのマナは、自分のルーツを知りたくて祖父に尋ねました。祖父は破壊された町と家が残っているところまで連れていってくれました。そのことも文通で語られます。それに触発されて、シャティーラ難民キャンプのモナたちも、大人たちに自分の故郷のことなどを尋ね、いろいろと話を聞きます。老人の話、父親の世代の人の話、さらに兄の世代の人の話。
「家族を養うために学校をやめた。でも仕事がない。」という若者の話に、モナは思います。「未来がないのに勉強する意味なんてあるかしら。夢はふくらむけど大人になれば夢なんて見ていられなくなる。何の権利もない難民が、夢なんか、かなえられるわけがない。若者は夢見る気持ちを失っていく。」
シャティーラ難民キャンプのモナたちは、二度目の国境行きで親戚にも会い、テヘイシャ難民キャンプのマナたちにも会うことができました。たくさんの人たちが涙ながらに肉親との再会を果たします。でも肉親とめぐり逢えない人もたくさんいます。「もう52年になる。」と叫ぶ老女。27年前の息子の写真を示して、「知っていませんか」とたずねる母。規制しようとするイスラエル兵に素手で立ち向かおうとする若者。「脅しても怖くないぞ。」と叫ぶ老人。・・・
モナたちは親戚と出会うことができました。そして、テヘイシャ難民キャンプから駆けつけたマナたちと、手を握り合って交流することができました。思わず皆が歌い出しました。
私たちはみんな兄弟
パレスチナという故郷が 私たちを結びつけた
私の故郷はあなたの故郷
私たちは兄弟
どこにいても どこに行っても
インティファーダはじまる
2000年9月末、インティファーダが始まり、モナはマナたちのことがとても気がかりになります。「イスラエルに抵抗するインティファーダが始まったわね。あなたのことがすごく心配。ニュースを見て死傷者がいないか確認してるわ。あなたの名前があったらどうしようって、いつもこわいの。・・・緊張で胸が張り裂けそう。ニュースは嫌いだけどいつも見るようにしてるわ。」
マナたちも投石します。
「これはモナの分」
「これはマフムードの分」
「これはハッサンの分」と・・・・。
交流したシャティーラ難民キャンプの子供たちの名前を言いながら、その思いまで代弁しようとして。
「イスラエルの占領下で生きる人生に生きる価値なんてあるかしら。私たちがこうして石を投げるのは、不正に対するせめてもの抵抗。自由になりたい、自由になりたい。安全な場所で暮らしたい。そう思いながら投げているの。」
投石する子供たちにイスラエル軍兵士が銃撃します。それでも子供たちは投石をやめません。イスラエル軍の銃撃で何人もの子供たちが負傷していきます。マナたちは次第に無力感にとらわれていきます。
「はっきり言って難民キャンプは牢獄だわ。まわりは見渡す限りイスラエルの入植地なのよ。どこもかしこも。本当にこれじゃ牢獄よ。ねえモナ。私たち、デモを続けてきたけど、何ひとつ変わらなかったわ。これからもずっとこんなひどい弾圧を受けるのかしら。このままでは私たちのうっぷんはいつか何かの拍子に爆発してしまう。」
頭を撃たれて死んだ少年の葬儀が怒りのデモになります。
不正義と闘い続けることを全世界にアピール
マナは、モナへの手紙で「もう私たちの手に負えなくなった。」と書きました。でもマナたちは決して希望を失ったわけではありません。それを象徴するかのように、この作品の最後は、ワシントンDCでの抗議行動に参加してアピールした、マナの力強い次の言葉で締めくくられています。
「彼らは私の故郷や夢を奪い、私の子供時代を奪った。私たちは力を合わせ、闘い続けます。故郷が再びこの手に戻るまで。」
アメリカの「報復戦争」と日本の参戦に反対する署名運動 事務局 |