反占領・平和レポート NO.7 (2002/03/09) シャロン政権崩壊の危機 インティファーダから民族解放=独立戦争へ |
■ シャロン政権崩壊の危機
−世論の支持失うシャロン。動揺する労働党−
イスラエル最大のヘブライ語日刊紙「イェディオト・アハロノト」が、シャロン政権発足からちょうど1年を迎えようとする3月6日に、1面でシャロン政権退陣要求をつきつけました。「荷づくりをして、書類をまとめて、かぎを返して、政府を去れ」という痛烈なものです。「テロを止めるという公約も、不況を終わらせるという公約も、和平を進めるという公約も、すべて失敗し、逆に悪くなった。結果から判断すれば、現政権は零点だ」と。3/7朝日新聞が大きくとり上げ紹介しています。1月下旬ごろから起こりはじめたイスラエル世論の大きな転換が、ついにここまできました。
これに対してシャロン政権は、パレスチナへのいっそうの攻撃拡大と虐殺のエスカレーションで乗り切ろうとしています。3月1〜8日の間に、ジェニン、ナブルス、ラマラ、トゥルカレム、ベツレヘム、ガザなどの各市(自治区)に侵攻し、陸海空軍を総動員した軍事作戦をはじめています。非戦闘員・一般市民への無差別攻撃や救急車への銃撃・破壊までが公然と行われていると伝えられています。この1週間でパレスチナ人死者は100人を越しました。
パレスチナとイスラエルの人権諸団体をはじめ、国際的な人権団体も含めて、イスラエル軍の虐殺行為・国際法違反の残虐行為を非難し、国連をはじめとする国際社会に緊急行動を要請しています。
労働党の動揺と深まる政権内の亀裂
3月5日の安全保障閣議で、自治政府議長府への戦車による包囲を復活させることを含む新たな武力弾圧強化を決定する際に、それに反対するイスラエル労働党との対立が決定的に深まりました。暴走するシャロン政権にどこまで追随するか、労働党が重大な岐路に立たされているのです。労働党が連立政権を離脱するか否かではなく、いついかなる形で離脱するかが問題になっています。
保守系の「エルサレム・ポスト」紙は、「ペレス:私はこの政府に加わったことを遺憾に思う」という見出しで、閣議後のペレス外相のコメントを報じました。ペレス外相だけでなく、これまでシャロンに積極的に協力してきたベン・エリエザー国防相(現労働党党首)も反対にまわりました。これまでは、ペレスがしばしば離脱をほのめかしても、ベン・エリエザーは一貫して離脱に反対してきました。5日の閣議後ベン・エリエザーは、「結局は離脱しなければならないだろうが、今この時点で離脱するのは時期尚早だ」と語りました。7日に予定されていた労働党内での協議は来週に延期され、いつどのような形で連立から離脱するかをめぐって、労働党の動揺が続いています。
「ハ・アレッツ」紙によれば、ペレスは次のようなシナリオを語ったといいます。自らが発案してパレスチナ評議会議長クレイとの間で合意した「和平案」の承認を労働党に求め、次いでシャロン政権に正式に提示して承認を求める。シャロンは閣議の採決に付することを拒否するであろうから、そのとき政権を離脱する。ベン・エリエザー国防相が離脱を拒否しても今度は単独でも離脱する、と。クレイ議長と合意したというペレス案は、破綻した「オスロ合意」に復帰することを提唱しただけにすぎないミッチェル報告(公的にはこれが現在のアメリカの立場です)を補完するものでしかなく、パレスチナ国家の即時承認だけが目新しいだけで、本質的な問題のすべてを先送りして、現在の武力衝突をともかくおさめようとするものです。
いずれにしても、ペレス案などは解決への第一歩にすらならないでしょう。イスラエルが占領を放棄するのでなければ、事態の長期化は避けられません。
野党のメレッツ党(「ピース・ナウ」を通じて労働党と一定の協力関係にある)は、労働党に対して即時連立離脱を要求しました。
反戦平和運動の強まりと軍内部の動揺
占領地での軍務拒否運動と反戦平和運動が、新たな高揚を見せつつあります。1982年のレバノン戦争当時に酷似した状況になりつつあります。当時も軍務拒否者が続出し、反戦平和運動が一大高揚をとげ、当時のシャロン国防相を辞任に追い込み、レバノンからのイスラエル軍撤退を実現しました。当時50万人の大集会が行われたことからすれば、現在の規模はまだ10分の1以下ですが、しかしながら、新しい重要な質が現れています。
一つは、現場の指揮官である士官クラスの予備役将兵を中心とする、集団的組織的軍務拒否であることです。イスラエルでは、予備役というのは「予備」ではなく「現役」であって、毎年6週間軍務に就き、18歳から21歳のリクルートの一兵卒を指揮する指揮官として重要な役割を担っています。もう一つは、現在の反戦平和運動を牽引している主力部隊は、シオニズムの枠から脱却してイスラエルの植民地主義・人種差別主義に真っ向から闘いを挑んでいるということです。
イスラエルのような軍国主義国家では、軍内部の動揺の広がりは致命的な打撃です。支配層の重要な部分からも、それを深刻に恐れる動きが出てきています。軍の退役将校、対外情報機関モサドの元高官、国内治安情報機関シンベトの元高官などで構成する「平和と安全保障委員会」(会員約1000人)が、西岸とガザ地区の大部分からの一方的撤退を呼びかける運動を、会員の8割が賛成署名して開始したと伝えられています。
パレスチナ武装勢力による標的を絞り込んだ波状攻撃
昨年12月初めからの「シャロンの戦争」に対して、パレスチナ武装勢力は、年末ごろには反撃体制を整えて強力な反撃を開始していました。そして、攻撃目標を次第に軍施設と入植地に絞り込むようになりました。これは、イスラエル内での反戦平和運動の高揚をはっきり意識したものにまちがいありません。
武装闘争の新たな段階を象徴するような出来事が、2月中ごろに起こりました。2/14には入植地ネツァリム近くの路上で、世界屈指といわれる「メルカバ3」戦車が爆破されて乗員兵士3名が死亡し、イスラエル軍に衝撃を与えました。2/19にはラマラ近郊の軍検問所襲撃で、イスラエル兵6人が死亡。翌日のイスラエル紙では「軍は攻撃する側から攻撃される側になった」とまで報じられました。それほど波状的な攻勢がかけられ、イスラエル軍が守勢にまわるという状況すら一部で現れたのです。
2/28〜3/2のイスラエル軍によるジェニンとバラタの難民キャンプ襲撃に対しては、即刻3/2夜から複数箇所で同時多発的な反撃が行われました。特にラマラ近郊の軍検問所では、銃撃によりイスラエル兵10人が死亡しました。1回の戦闘でのイスラエル兵の死者が6人、10人というのは、これまでに全くなかったことです。
抵抗闘争インティファーダから民族解放=独立戦争へ
少年たちの石ころによる反逆に象徴されるような抵抗闘争から始まった「ニュー・インティファーダ」は、イスラエル軍の武力弾圧を前にして、急速に武装部門中心の闘いに発展しました。そして「シャロンの戦争」の発動によって、パレスチナ人民の抵抗闘争は、はっきりと民族解放独立戦争という性格をおびはじめました。
「第一次インティファーダ」を指導したファイサル・フセイニ氏(2001年5月心臓発作で急死)は、今回の新たなインティファーダが開始された段階で、これを「パレスチナ独立戦争」と位置づけました。ファタハ本部事務局長で統一組織「パレスチナ民族およびイスラム最高委員会」代表でもあるマルワン・バルグーチ氏も、90年代の「中東和平の時代」に導入されたパレスチナ自治統治を乗り越えて、今や「独立戦争」へと転化したという位置づけをしました。著名なフォトジャーナリスト広河隆一氏が、現在パレスチナ現地に入って取材中なのですが、2/28付の通信でこう述べています。「このすさまじく激しいパレスチナ人の闘いを「テロ」と呼ぶのではなく、「独立戦争」と呼ぶ日がいつか来るかもしれません。」と。
2000年9月末の開始から17か月を経て、闘争のこのような位置付けがパレスチナ人民の総意となり、また現実となりつつあるのではないでしょうか。ファタハの西岸とガザの各支部を束ねる統括指導委員会事務局長フセイン・シェーク氏と会見取材した3/8の朝日新聞の報道によれば、「歴史上初めてパレスチナ民衆が独立闘争の主体になった」との見解を示したといいます。民族解放独立戦争のゲリラ戦を闘い抜く根本条件は、人民に依拠した闘いであるということにあります。軍事力の圧倒的な差をものともせず闘い続け屈服することのない、いかなる犠牲を払おうとも勝利するまで止むことのない、天を突くような高い士気のもとで闘われる全人民的闘争。それが今まさにパレスチナの地で闘われているのです。「いかなる暫定的な合意も拒否する。」「イスラエル軍の占領地からの全面撤退と難民問題の解決」「それだけがイスラエルの治安を保障する」とフセイン・シェイク氏は語っています。
アメリカの「報復戦争」と日本の参戦に反対する署名運動 事務局 |