反占領・平和レポート NO.19 (2002/06/18)
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ジェニン大虐殺を直接遂行した兵士の証言
−イスラエル軍、そしてイスラエル社会そのものの狂気と頽廃−
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■イスラエル最大のヘブライ語日刊紙「イェディオト・アハロノト」紙の5月31日の紙面に、ジェニン難民キャンプの中心地で軍用ブルドーザーを運転し、多くの家屋を人がいるままに破壊し地ならしをして住人を生き埋めにした、まさにその兵士の直接のインタヴュー証言が掲載されました。モシェ・ニッシームという人物です。
イスラエル内で先進的な平和運動を中心的に担っている「グッシュ・シャロム」が、それをヘブライ語から英語に訳し、6月12日に全世界に配信しました。翌日には「グッシュ・シャロム」のウェブサイトにも掲載されました。また、同日、著名なフォトジャーナリスト広河隆一氏のサイトにも主要な内容が紹介されました。
http://www.hiropress.net/column/
http://www.gush-shalom.org/english/index.html
■私たちは、4月14日、ジェニンの大虐殺の現地証言が出はじめたとき、その衝撃と危機感と事の重大さの認識から、ギラ・スヴィルスキーさんの「最前線からの手紙」の翻訳紹介と合わせて、緊急のメールニュースを配信しました。その後しばらくの間は、日本においてもジェニンの虐殺の報道がある程度は行われましたが、5月初めごろから大虐殺を否定する論調に変わりました。そのきっかけは、国際的な人権団体が「虐殺の事実は確認されなかった」と声明や報告を出したことでした。アメリカの庇護の下にイスラエルが居直りはじめ、国連調査団が解散されたことは、皆さんもよくご存じのことと思います。
イスラエルが証拠隠滅を図り、あらゆる手段を使って真実が隠蔽されてきましたが、いろんな形で真実の一端が漏れ出てきました。
■しかし問題は、以下に翻訳紹介する直接手を下した兵士個人の問題ではないということです。この兵士の証言によれば、確かに彼自身の特異なパーソナリティが随所に出ています。しかしそれはイスラエル軍そのものの信じ難い猟奇性、残虐性を象徴しているにすぎないのです。イスラエル軍とイスラエル社会の腐敗と頽廃、その直接の帰結としてヘドの出るような殺人マシーンと化したイスラエル軍兵士...。かつて大日本帝国の皇軍と皇軍兵士が、南京大虐殺をはじめとする残虐行為をいたるところで行ったことが想起されます。
私たちは、ジェニンの大虐殺を、イスラエル軍そのものの組織的計画的な戦争犯罪として告発し追及します。この証言の中にも彼が「上官の命令」で遂行したことが書かれています。
イスラエル国家は、54年前、パレスチナ人の物理的排除の上に建設されました。更にその上に、35年にわたって一民族全体を占領支配し続け、軍事監獄的アパルトヘイト体制の支配抑圧を続けています。この帝国主義的植民地主義的な支配、占領支配こそが、イスラエル軍とイスラエル社会そのものを腐敗と頽廃の淵に陥れているのです。
■しかしながら、イスラエル社会の中にあって、そのような腐敗・頽廃と必死で闘っている人々がいます。「グッシュ・シャロム」や「女性連合」を中心とした反戦平和運動と人権擁護運動の諸団体は、戦争犯罪として告発する準備を進めていると伝えられています。その際に、「グッシュ・シャロム」が最後に付けたコメントに示されているように、直接手を下した兵士個人以上に、システムそのもの、つまりイスラエル軍そのものに鋭い批判の矛先が向けられています。
■「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」や「アムネスティ・インタナショナル」のようなリベラルな国際的人権団体は、国連調査団をイスラエルが受け入れざるをえないかどうかの瀬戸際のときに「虐殺の事実は見出されなかった」とアナウンスしたことで、客観的事実において、イスラエルの居直りと国連調査団の解散に「貢献」しました。しかし、最近になって、ANSWER連合のような戦闘的な反戦平和運動を担っている組織などが、独自の視察団を現地に派遣し、報告を出しはじめています。
それらの現地報告も引き続き翻訳紹介していく予定です。
2002年6月18日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
<グッシュ・シャロムの前書き>
これは、独特な記録文書です。それは、イスラエルの最も広く読まれているタブロイド紙「イェディオト・アハロノト」紙2002年5月31日に公表されました。それは、ジェニンで実際に起こったことに関する最初のまぎれのないイスラエル人の目撃証言、それを実際に遂行し、かつそれを誇りに思っている兵士の一人による目撃証言です。
そのショッキングな暴露もさることながら、これはまた、驚嘆に価する人類史に残る記録文書です。
このインタヴューの公表の後に−−この公表にもかかわらず−−、この男が所属する部隊は、軍から顕著な軍務に対する正式の表彰状を受けました。
「イェディオト・アハロノト」紙(5月31日)
「俺は、難民キャンプのど真ん中に、奴らのために競技場をつくってやったんだ。」
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□ 俺は、狂気にかられて、ヤケになって、ありうる最悪の状態でジェニンに入った。
□ 俺は、女房に言ったんだ、「俺にどんなことがあっても、少なくとも誰かがおまえの面倒を見てくれるだろう」と。
□ ちょっとおもしろいのは、俺が、D−9の操縦のやり方さえ知らなかったということさ。
□ 2時間で俺は前へ進むことと平らな地面をつくることを教わった。
□ 俺は、サッカーチーム「ベイタール」の旗をブルドーザーの後ろにつけて、奴らに言ったんだ、「離れろ、俺に仕事をさせろ」ってね。
□ 3日間、俺は、つぶしにつぶしたんだ。
□ 俺は、疲れを吹っ飛ばすために、ウィスキーを飲み続けた。
□ 俺は、D−9のキャタピラーの下に死体を見はしなかったし、どこに何があったって気にしなかった。
by ツァドック・イェヘスケリ、「イェディオト・アハロノト」記者
モシェ・ニッシーム、ニックネーム「クルディ・ベアー」、ジェニン難民キャンプの住人たちの恐怖となったD−9軍用ブルドーザーの操縦者が、検閲なしで彼の栄光のときを語った。
「俺は、狂気にかられて、ヤケになって、ジェニンに入った。俺は、解放感を与えてくれるものは何もないと感じていた。たとえ俺が『それを手に入れて』いたとしてもたいして違いはなかったんだが。
俺は、女房に言ったんだ、『俺にどんなことがあっても、少なくとも誰かがおまえの面倒を見てくれるだろう!』と。
俺は、ありうる最悪の状態で予備役の軍務を始めた。たぶんそのせいだろう、俺がクソくらえって思ってたのは。爆弾攻撃だってどうってことなかったし、銃撃だって。
「俺の女房は、ここ1年半ずっととっても嫌な状態だったんだ。ほとんど半年の間、俺はエルサレム市の警視としての仕事を停職になっていてね。
俺は17年間そこで勤めていた。あの呪わしい日まで。1月20日、ちょうど俺の40歳の誕生日、警察が来て俺を逮捕した。
調査隊で俺と俺の仲間が契約者や他の実業家たちから賄賂を受けた嫌疑がかかっていると言うんだ。実際俺たちは買収された一団だと言うんだ。
「これは、ひどい不正義だ。俺は、とっても人なつっこい人間なんだ、それでこの仕事では、調査した人々と親しく交わった。しかし、賄賂だって? この俺が?
この話のずっと前から、俺は、数十万シェケルの借金がある。もし賄賂を取っていたんなら、俺には金があっただろう。だけど、俺には弁護士に支払う金さえなかったんだ。そのときから俺は停職だ。女房まで首を切られた。なのに俺には養わなければならない4人の子供がいる。
「これは最初の打撃ではなかった。その2〜3か月前、俺は背中にひどいケガをした。女房は首を切られた。おまけに息子は車にひかれて、足を手術しなければならなかった。
今では息子はよくなっているが、あいつの大きな夢、そして俺の夢でもある、ベイタール・エルサレムのサッカー選手になりたいという夢は、たぶん永久に消えてしまった。かわいそうに。あいつは本当に才能があったんだ。俺は、あいつに、ベイタールの子どもチームに入れてやる約束をしていたんだ。
「2年にわたって、ひとつまたひとつと打撃に見舞われた。俺は1セントも稼げなかったが、人々を愛している。無関心ではいられない。休日ごとに、食べ物の入った袋を貧乏な人に配っている。過ぎ越しの祭りでもそうだった。俺は、狂ったみたいに走り回った。ちょうどそのころ、仲間たちからこんな電話がくるようになったんだ、『クルディ、俺たちは皆、予備役の軍務に召集されているが、お前は呼ばれていないんだな』とね。
「実を言えば、俺は、俺の指揮官のことがわかっていたんだ。そうさ、俺はもう16年も予備役の義務を果たしてきた。そして俺は役立たずだった。トラブルを起こすだけだった。
「義務的軍務の3年間、俺は絶えず刑務所への判決を下された。というのは車輛電気技師になるのを拒否したからだ。俺の隊でも、トラクター部隊だけど、俺は電気技師だと思われていた。だけど実際には俺は何もしなかった。そこらじゅう、ひっかき回すだけだった。俺は、部隊にやって来てすぐにトランプのテーブルを開き、ボトルを開けた。どんな士官でも俺を守衛の義務につかせようとしたら、俺はそいつにまずやらせたんだ。クルディはいつも自分のことをやっていたさ。
もし俺がベイタールのサッカーの試合を見たくなったり家へ帰りたくなったりしたら、誰も俺を止められなかったのさ。俺はただ車のエンジンをかけて行くだけだったさ。
「実のところ、みんなは俺のことを知りさえしなかったんだ。責任を与えられているときには、俺は、全然違ったふうに行動できるんだ。「ヴェルサイユ」惨劇事件(2001年1月に「ヴェルサイユ」という名のホールで25人が死んだ事件)では、俺は、現地での調査チームの責任者だったんだ。俺の部隊の仲間の一人がその俺を見かけたとき、そいつはとてもショックを受けたんだ。
そいつはこう言った。『軍隊ではおまえは靴のひもを結ぶこともできないのに、ここではおまえは大した主任だ!』とね。
実のところ、俺は、いったん何かすると決めたら、とても頑固者なんだ。最後までとことん頑張るんだ。今回もそういう時のひとつだった。軍に俺を採用させるために何をしたかって? 仲間を送り込んで大隊の司令官に圧力をかけたんだ。中隊の司令官に電話も入れた。俺は、彼らを気が狂わんばかりにさせたよ。『私は仕事をすることを約束します』と大隊の司令官に嘆願したんだ。とうとう彼は俺にチャンスを与えることに同意した。
「俺は自分に言い聞かせた。『クルディ、おまえは彼らをがっかりさせてはいけない。もう気ままにふるまうことはやめよう!』とね。
この話者は、モシェ・ニッシーム、「モシェ・ニッシーム・ベイタール・エルサレム」として知られてもいる。
ジェニン難民キャンプでは、彼は、軍放送ラジオで「クルディ・ベアー」と呼ばれていた。
クルディ、というのは、これは彼が強く主張した名前だから。ベアー、彼が操縦して家をつぎつぎに破壊していったD−9にちなんで。(注:「ベアー」はD−9トラクターの軍用コード名。「クルディ」はクルド人の一人という意味。)
ジェニンで彼の名前を聞かなかった兵士は一人もいなかった。クルディ・ベアーは、最も献身的で、勇敢で、そしておそらく最も破壊的な操縦者とみなされていた。
ジェニン難民キャンプ調査委員会の人なら、尋問をするためにちょっと話をしたいと大いに思うことだろう。
75時間にわたって休みなく、彼は巨大ブルドーザーにすわって、充電したものを爆発させながら、次から次へと家々をつぶしていった。
彼はあけすけに抑制なしで語ったのだが、その話は、通常の戦争武勇伝とはほど遠い。メダルが授与されるようなものではないと思われる。(実際には、後に彼の部隊は顕著な軍務に対して表彰状を与えられた。)
はじめての体験
「ちょっとおもしろいことは、俺は、D−9の操縦のやり方さえ知らなかったんだ。これまで一度も操縦者になったことなんかなかった。だけど俺は、学ぶチャンスを与えてくれるように、たのんだんだ。
俺たちがシェクヘム(ナブルス)に入る前に、仲間の何人かに俺に教えてくれるようにたのんだ。彼らは俺のそばに2時間すわって教えてくれた。前へ進むやり方と平らな地面をつくるやり方を教えてくれたんだ。
「俺はそれを問題なく身につけて、彼らにこう言ったんだ、『これでいい。脇へどいててくれ、俺にやらせてくれ。』ってね。
これはジェニンでも起こったことさ。俺は、これまでに家の取り壊しなんて一度もやったことがなかった。壁さえ取り壊したことがなかった。俺は、友達の一人イェメニーテといっしょにD−9に乗り込んだ。一時間のあいだ、彼に仕事をやらせた。それから言ったんだ、『オーケー、俺にもわかった』ってね。
「だけど、本当のことは、ジェニン難民キャンプのあの狭い通りで13人の兵士が殺された日に始まったんだ。
「俺たちが隊に参加したとき、俺はわかってた、誰も俺といっしょに仕事をしたくないってことがね。みんな、トラクターの上で俺といっしょにいるのを怖がってた。俺はトラブルメーカーで有名だっただけじゃなく、恐れを知らない男でも有名だったんだ。実際そのとおりだったけどさ。俺は本当に恐怖心というものをもっていないんだ。みんな知ってた。俺が恐れを知らないってこと、何でもクソくらえで、どこへでも行くことができる、疑問をはさむこともなく、戦車やなんかの護衛もなしに。ジェニンで、一度、俺は戦車から離れたんだ、どこへでも俺たちを護衛してくる戦車から。俺は、キャンプの周りをまわって何が起こっているか見たかったんだ。俺といっしょにいたもう一人の操縦士のガディは、ほとんど気絶しそうになってた。あいつは頭がおかしくなりはじめた。「戻れ! 護衛がないじゃないか!」って、あいつは叫んでた。だけど俺は、そこの場所をもっとよく知って出口をみつけておかないといけなかったんだ。それが必要になったときに備えてね。俺は死ぬことなんか怖くなかった。それでもともかく保険はかけていた。それは俺の家族に役立つだろうからね。
旗のこと
「俺たちがキャンプに入ったときには、D−9がいくつも待機していた。シェクヘム(ナブルス)から引きずってきたものだった。俺はでっかいD−9Lに乗った。俺とパートナーのイェメニーテだ。俺がした最初のことは、ベイタールのチーム旗を結び付けることだった。前もって準備していたんだ。俺の家族に俺だとわかってほしかったからね。家族と子供たちに言ってたんだ、『テレビで俺のトラクターが見えるぞ。ベイタールの旗が見えたら、それが俺だ。』ってね。そして、きっちりそうなったんだ。
「それが狂ってるように聞こえるのは知ってるさ。だけどこの旗を掲げるのは俺にとっては全く自然なことだったんだ。ものを食うのと同じぐらいにね。ほら見てよ、これ、俺の首のまわりのベイタールのペンダント。絶対はずさないんだ。俺もはずさない、子供たちもはずさないんだ。俺は、どこへ行くときでもベイタールの旗をもっていくんだ。俺の車を見てよ。全体がこの旗でおおわれている。これが俺のやり方なんだ。俺はいつもベイタールの試合を見に行く。そのときは、ベイタールのカラーのガラビア(アラブ人男性の衣服)を着てさ、国からもってきたクルド族の大きなドラムを持って。一度こんなことがあったな、初めて国内優勝したとき、俺は車の屋根の上に乗って、そのドラムを持って、ずっとエルサレムまで行ったんだ。
「ベイタールは、俺の脳のなかの‘こり’みたいなものなんだ。ほかに説明しようがないよ。それは、俺の人生で、家族の次に大事なものなんだ。そして俺を殺すことのできるただひとつのものなんだ。ジェニンでは、俺は一瞬たりとも恐れなかった。だけど俺、もう1年半もベイタールの試合を見に行けてないんだ。不安な緊張感で死ぬかもしれないからさ。心臓発作がくるんじゃないかと絶えず恐れているんだ。ときどき俺は、チケットを手に持って、「テディ」(エルサレムのメインスタジアム)の周りを歩くことはできる。だけど入れないんだ。ベイト・シェアンでのある試合で、俺はゴールがきまったときに気を失った。これがどんなふうに聞こえるかわかってるさ。だけどそうなんだから、しかたないさ。不治の病さ。家では、家族は、ベイタールが負けたとき俺に話しかけるほどバカじゃない。
「それで、ベイタールの旗がどうしてジェニンでトラクターについていたか、わかっただろ。誰かが俺に言いに来たんだ、司令官がそれをはずしてほしいと言ってるって。だけど、まさか。そのことで言いたいことが俺にあるとすれば、キャンプのモスクのてっぺんにベイタールの旗をつけたいということだろうね。いっしょに仕事してるゴラニ(イスラエル軍の歩兵旅団)の士官に、モスクへ上って旗を掲げさせてくれるように納得させようとしたんだが、拒否された。その士官は、そんなことをしようとしたら撃たれるだろうと言ったんだ。かわいそうに。
「この旗は、キャンプの中で一番目立つものだった。短期休暇で家に帰った予備役兵たちがベイタールの旗を持って帰ってくるんだ。俺を真似てね。やかましいことになったんだ、俺の旗のことだよ。ゴラニの兵士たちが当惑した。『君はベイタールをここに持ち込んだ』と彼らは俺に言ったんだ。それで俺は言ってやったんだ、『俺はここにテディ・スタジアムをつくるつもりだ。心配するなよ』ってね。
「ラジオでは、俺のことを『モシェ・ベアー』と呼びたがったんだ。だけど俺はクルディだって言い張ったんだ。ゴラニ全体に俺はクルディだって言ったんだ。そして俺のことをほかの名前で呼んでも返事はしないと言ってやったんだ。そんなふうにして『クルディ・ベアー』が生まれたんだ。これが俺の名前だ。そして俺は頑固者だ。
突入
「トラクターをキャンプに乗り入れた途端、何かが俺の頭の中で切り替わったんだ。俺は気がおかしくなった。個人的な状態が原因のあらゆる絶望感は、またたく間に消え失せていた。心の中に残っていたのは、俺たちの仲間に起こったことについての怒りだけだった。もし俺たちがもっと早くキャンプに入ることを許されていたら、俺たちの力をもってすれば、24人の兵士はこのキャンプで死ななかっただろうにと、今では俺は確信しているし、他の連中もそう確信している。
「キャンプに入った瞬間、初めて、俺は本気で考えたんだ。この兵士たちを、戦闘員たちを、俺の息子と同じぐらいの年の子供たち(イスラエル兵士)を、どうやって助けるべきかを。もし一歩進むごとに攻撃が仕掛けられるとすれば、彼らがそこでどんなふうにやっているかを把握できないだろう。
「俺に与えられた最初の任務のことだが、キャンプ内で進路を切り開くということ、これがどんな類の地獄か俺は理解した。
「俺の最初の任務は、自発的に申し出たことだが、兵士たちに食べ物を持っていくことだった。俺はこう言われた、『食べ物をそこへ届けるただひとつの方法は、D−9でやることだ』と。彼らはここ2日何も食べていない。鼻を突き出すこともできなかったんだ。俺はトラクターをてっぺんまでいっぱいにして、彼らのいるところのドアのすぐそばまでトラクターをもっていったんだ。彼らがシェルターから一歩も外へ出る必要がないようにね。腕や足を失うには、一歩外へ出るだけで十分だった。
「攻撃がどこであるかということはわからなかった。奴ら(パレスチナの戦闘員)は、地面に穴を掘って仕掛けを埋めた。車輛を動かしはじめるだろ、するとパイプに当たってさ、両端に溶接されてるんだ。それに触れたとき、爆発するんだ。どんなものでも爆弾が仕掛けられているみたいだった。家の壁でさえも。さわった途端に爆発する。あるいは、入った途端に撃ってくるとか。道にも、床の下にも、壁の間にも仕掛けがあった。開けた途端に爆発する。俺は、あるペットショップで鳥かごが吹っ飛ぶのを見た。そこは俺たちが進路を切り開こうとしていたところだったんだが。空飛ぶ鳥かごだ。俺は鳥たちがかわいそうだと思った。奴らはどこにでも仕掛けを埋め込んでた。
「俺にとっては、D−9の中で、それは何でもなかったさ。俺は気にしなかった。いくつも爆発の音が聞こえたさ。
「80キロの爆弾でさえ、トラクターのキャタピラをガタガタいわせただけだよ。これは3トン半の重量がある。(注:D−9は実際には、装甲なしで48.7トンある。装甲を装着すると60トン近くになる。)こいつは怪物だよ。戦車1台が横っ腹にぶつかれるぐらいでかいんだ。その腹は敏感だがね。D−9についてはね、屋根の上のRPGや50キロ爆弾だけ、気をつければいいんだ。しかし俺は、そのときにはそんなことも考えなかった。問題だったのはただひとつ、あの兵士たちが危険をおかさずに飲み食いできるということだけだった。
「俺はあの子たちに恋したんだ。俺は、彼らが求めてくることは何でも俺のトラクターでやってやろうと思ってた。俺は、自分から望んで仕事を求めたんだ、『もうひとつ家を片付けさせてくれ。もうひとつ進路を切り開かせてくれ』ってね。
彼らは、お返しに俺の護衛をしてくれた。俺はよく武器ももたずにトラクターから離れた。なにもなしでだ。ただ歩いて。彼らは狂気の沙汰だと言ってたが、俺は言ったんだ、『ほっといてくれ。ともかく、装甲胴着で助かることはないんだ』とね。これが俺の働きかただったんだ。シャツさえなしで、半分裸でね。
「俺がどうやって75時間もちこたえたか、わかるかい? 俺はトラクターを下りなかったんだ。疲れなんて問題なかった。ずっとウィスキーを飲んでたからね。俺はいつもトラクターにボトルを持って入った。あらかじめバッグの中に入れておいたんだ。他の連中は服を持っていくが、俺は、そこで俺を待っていることがわかっていたからね、だから俺はウィスキーとむしゃむしゃ食えるものと、持っていったんだ。
「服? そんなものは必要なかった。タオルで十分だったさ。ともかく俺はトラクターを離れることができなかった。ドアを開けたら弾をくらう。75時間のあいだ、俺は家庭での生活のことも、いろんな問題のことも、なにも考えなかった。そういうものは全部消えてた。ときどきエルサレムでのテロ攻撃のイメージが頭の中を交錯した。俺はそのいくつかを目撃しているんだ。
俺たちの対抗手段の純粋さ
「『進路を切り開く』というのは、どういうことかって? 建物をつぶすんだ。道の両側で。選択の余地はないんだ。だって、トラクターの方があの狭い道よりずっと幅が広かったんだ。だけど俺は、言い訳かなにかをさがそうとしているんじゃない。そこを「そぎ落と」さないといけない。俺は家を取り壊すなんて少しも気にしなかった。だって、それが俺たちの兵士の命を救うんだから。俺は兵士たちが虐殺された所で作業した。実際に起こったことの真実がすべては語られていない。奴らは、壁に穴を開けていたんだ、銃撃のための穴だ。攻撃をのがれた者も、この穴から撃たれたんだ。
「俺は誰をも容赦しなかった。俺たちの兵士が危険に身をさらさないように、俺はD−9で誰だって押しつぶしてやる。それが、彼らに俺が言ったことさ。俺は兵士たちのことが心配だった。ひとつの家で40人の兵士がぎゅうぎゅう詰めでいっしょに寝ていることだってあるんだぜ。俺の心は彼らの方へ行っちゃってた。だから、取り壊した家のことなんか少しも気にしちゃいなかった。−−それで俺は大量に取り壊していったんだ。最後には、俺は「テディ」サッカー・スタジアムをそこにつくったんだ。
「難しかったか、だって? まさか。冗談だろ。俺はすべて破壊したかった。俺は士官に無線でたのんだんだ、俺に全部ぶっつぶさせてくれって。なにもかも平らにさせてくれって。なにか俺が人殺しをしたがっているかのように思うかもしれないが、そうじゃないんだ。家だけなんだ。つぶしはじめた家から白旗を挙げて出てきたやつには危害は加えなかった。戦いたがっている奴らだけをねじふせたんだ。
「家をつぶす命令を拒否する者なんかだれもいなかった。そんなことは全然なかった。俺は、家を引き倒すように言われたとき、何軒か多くの家を引き倒したんだ。俺が望んだんじゃなくって、ひとつの家を取り壊すように言われたとき、いつも何軒かの家がじゃまになってるんだ。他にやりようがないんだよ。やりたくなくったって、やらねばならないんだ。いくつもの家が邪魔なところに建っているんだ。ある家をつぶさねばならいとなったら、どんな邪魔が入ろうと、俺はやるんだ。信じてくれ、俺たちが取り壊した家はそれでもまだ少なすぎるんだ。キャンプじゅうに爆発物が散らばってたんだ。それは実際パレスチナ人たち自身をも救ったんだ。だって、あいつらが家に戻ったとしたら吹き飛ばされるだろうからさ。
「3日間、俺は壊しに壊した。そこの全部だ。そこから銃撃があった家は全部ブッ壊した。そういう家をブッ壊すために何軒も余計に引き倒した。俺が行く前に、奴らは家を出るようにラウドスピーカーで警告されたが、俺は誰にもそのチャンスを与えなかった。俺は待たなかった。一撃を与えて奴らが出てくるのを待つなんて、俺はしなかった。フルパワーでその家に突進して、できうる限りはやく家を引き倒した。他のたくさんの家もやりたかったからね。できるかぎり多くをね。他の連中は自制したかもしれないし、そう言ったりしている。でも冗談だろ? そこにいて、家の中に俺たちの兵士がいるのを見たやつなら誰でも、死のワナが待ってるってことを理解したはずだ。俺は兵士たちを救うことを考えていたんだ。パレスチナ人なんて少しも気にしないんだが、俺は何の理由もなしにただ破壊してたんじゃないんだ。全部、命令の下にやったんだ。
「俺たちが取り壊そうとした家の中に、たくさんの人間がいた。奴らは、俺たちが作業を続けている家の中からたぶん出てきたんだろう。D−9のキャタピラの下で死んでいく人間を俺は見なかった、自分の目ではね。それに、生きた人間の上に家が倒れかかっていくのも見なかった。だけど、もしいたとしても、俺は全く気にしてなかった。これらの家の中であいつらが死んだのは確実だと思う。だけど、確かめるのは困難だった。いたる所すごいほこりだらけだったし、俺たちは夜に多く作業をしたからね。俺はあらゆる家を引き倒していって嬉しさをおぼえた。だって、俺は知ってたからさ、あいつらは死ぬことなんか気にしないのに家のことは気にするってことを。もしひとつの家を引き倒したなら、数世代にわたる40人か50人を埋めたことになるんだ。俺に何か残念に思うことがあるとすれば、キャンプ全体を破壊しなかったことさ。
満足感
「俺は一瞬たりとも止めなかった。2時間の休憩をとったときでさえ、俺はやり続けることを主張したんだ。俺は、傾斜路を準備して4階建ての建物を壊したんだ。俺が一度右へ鋭くハンドルをきったんだ、それで壁全体が崩れてきた。突然、無線で叫ぶ声が聞こえた、『クルディ、気をつけてくれ! 私たちだ!』ってね。そこは俺たちの兵士が中にいる所だってことがわかったんだ。俺に連絡し忘れていたんだ。
「俺はたっぷり満足感を味わった。本当に楽しかったんだ。4階建ての建物の壁を崩壊させたのを覚えている。それは、俺のD−9の上に崩れてきたんだ。俺の相棒は戻るように俺に金切り声で叫んだんだが、俺は壁が俺たちの上に崩れてくるままにさせたんだ。俺たちは建物の横へ回ってそれに突進してぶち当たったんだ。もし仕事が困難になったら、戦車の砲撃をたのむことになっていた。
「俺はやめることができなかった。俺はいくらでも働きたかった。俺たちに無線で命令を与えてくるゴラニの士官がいたんだが、俺はその士官を気がおかしくなるほどにさせた。俺はどんどんもっと多くの任務を求め続けたんだ。日曜に、戦闘が終わった後、俺たちはD−9をその地域から引き上げろという命令を受けた。「サッカースタジアム」をつくる作業をやめろというんだ。というのは、軍はカメラや報道機関が俺たちの作業を見るのを望まなかったからだ。俺は本当にあたふたした。だって、ジェニンの入口に大きな標識を建てる計画をしていたんだ、アラファトの写真付きの3本のポールなんだ。でも日曜に、俺たちがその作業をする間もなく引き上げさせられたんだ。
「俺はもっと仕事をやらせろって彼らにブツブツ不平を言ったんだ。俺は無線で言ったんだ、『なんで俺を休まそうとしているんだ? 俺はもっと仕事が欲しいんだ!』って。このときばっかりは本当に気分が悪かった。熱があった。俺はジェニンから戻ってきて崩れ落ちた。詳しく検査された。翌日、俺はまた起き出していった。仲間の一人が具合が悪かったから、俺は自分から手伝った。俺はそこへ復帰した。大隊の司令官は俺を見かけてショックを受けた。他の操縦者はみんな、まいっていて休みが必要だったが、俺は離れることを拒否した。俺はもっとやりたかったんだ。
「俺はジェニンで大いに満足した、大満足だ。何もしなかった16年を全部とりかえしたみたいだった、この3日でね。兵士たちが俺のところにやって来て言ったんだ、『クルディ、どうもありがとう。どうもありがとう』って。それで俺は13人のことを悲しく思ったんだ。彼らが待ち伏せされた建物にまで俺たちが行けてたら、そこで全部のパレスチナ人を生き埋めにしてやるところだったんだが。
「俺は兵士たちのことを考え続けた。俺は、ホームレスになったあのパレスチナ人たちが気の毒だとは思わなかった。その子供たちは気の毒に思ったけどね、子どもに罪はないから。けがをした子供が一人いた。アラブ人に撃たれたんだ。ゴラニの医療補助員がやってきてその子の包帯を替えた。その子が退去するまでね。俺たちは子供たちの面倒はみたんだ。兵士たちは子どもらにキャンディーを与えた。だけど俺は、その子供たちの親たちには慈悲の気持ちなんて全くなかった。
俺はテレビで見たのを覚えてるんだが、母親がこう言ってたんだ、テルアビブで自爆する子供たちを生むんだって。俺はそのテレビで見たパレスチナ人の女にききたかった、『恥ずかしくないのか?』って。
「俺は、仕事を終えた後トラクターから出て、道の脇に服を積んで、そこで寝込んだんだ。兵士たちが俺の面倒をみてくれた。俺が戦車やなんかに引かれないようにね。75時間の疲れが全部のしかかってきたんだ。俺がやったことで、すごい興奮があったんだ。実際、俺はトラクターを操縦しながらすばらしいことをしたんだ。全部終わった後で俺のところにやって来た兵士たちが、『ありがとう』って言ったんだ。俺はそれで十分だった。あの兵士たちとわかれて寂しいよ。俺は、彼らみんなをクベーの俺のところへ招待したんだ。司令官のコビーは、75時間を通していっしょに働いた一人だが、俺の招待に驚いてたよ。
『君は中隊全体に来てほしいというのかい?』ってね。
俺は言ったんだ、『私に関する限りは、大隊全部にきてほしいんです』ってね。
俺は母親にD−9から電話して、大隊全部が行くからね、って言ったんだ。母親は『心配無用だよ。みんなを待ってるよ』って言ってくれた。
政治
「俺は、多くの人がこう考えるだろうということはわかってるさ、つまり、俺の態度は『ベイタール』と『リクード』のメンバーだということからきているってね。(注:『ベイタール』はナショナリスティックな青年運動。『リクード』は主要な右翼政党。)それは本当だよ。俺はかなりな右だ。だけど、これは俺がジェニンでしたこととは何の関係もない。俺にはアラブ人の友達がたくさんいる。そして俺はいつも言ってるんだ、そいつが何もしなかったらそいつに触れるな、ってね。そいつが何かしでかしたら、そいつをつるし上げる、俺に関してはね。妊娠している女だって、後ろにテロリストを隠していたら、無慈悲に撃つ。俺がジェニンで考えたことはそういうことさ。俺は誰にも受け答えなんかしなかった。少しも気にしなかったさ。主要なことは、俺たちの兵士を助けることだったんだ。もし俺に3週間が与えられていたら、もっと面白かっただろうにと思う。つまり、俺にキャンプ全体を引き倒させてくれていたら、ということだよ。俺は無慈悲にやっただろうさ。
「人権団体や国連なんかはみんな、ジェニンのことをいじくりまわして、俺たちのしたことをあんな問題に変えてしまって、ほらを吹いているだけなんだ、うそつきなんだ。多くの家の壁がひとりでに爆発したんだ、俺たちがほんのちょっと触れただけで。もっとも最後の数日で俺たちがキャンプを粉砕したのは事実だ。そしてもちろん、それには正当な理由があった。奴らは俺たちの兵士を大量殺戮したんだ。奴らには降伏するチャンスがあったんだ。
「あれをやることに対して留保を表明した者は誰もいなかった。俺だけじゃないんだ。そんなこと、誰が言える? もし誰か大口をたたく奴がいたら、俺はそいつをD−9の下に埋めてやっただろうよ。だから、俺は、俺たちが平らにした100メートル四方を見てもどうってことなかったんだ。俺について言えば、俺は奴らにサッカー場を残してやったんだ、奴らがプレイできるように。これがキャンプへの俺たちの贈り物だ。奴らを殺すよりいいだろ。奴らは静かにおとなしくするだろう。ジェニンは、以前のジェニンには戻らないだろう。
エピローグ
ジェニンから出た2日後、「クルディ・ベアー」は肺炎を患って病院に収容された。明らかなように、75時間ぶっ通しにD−9の中にいたことによるものだった。彼が家に帰って何日かしてから、真夜中に一本の電話が彼を起こした。
「ある夜、俺は家に帰って、ちょっと訳があって眠れなかったんだ。すごく気分が悪かった。
朝の4時までぶらぶらしていたとき、突然電話が鳴って、『ナチのお父さんですか?』俺は何が起こったんだと尋ねたんだ。『こちらへ来て下さい、病院へ。』って言うから、俺は言ったんだ、『本当のことを言ってくれ。俺は知る必要がある』って。電話の女性が言うには、『事態は良くありません。来て下さい』ということだった。俺はテル・ハショメル病院へ飛んでいった。看護婦とソーシャルワーカーがそこで俺を待っていた。二人は俺に息子は死んでしまったと告げたかったんだ。息子が運び込まれたときには既に死んでいたと。終わっていたと。重大な脳障害で。彼らは息子の臓器を提供するように俺にたのむ計画だったんだ。
「突然看護婦が外科医のところへ走って行って、戻ってきてこう言ったんだ。脳から血栓を取り出したんですが、生きていてくれるといいんですけど、72時間以内にはわかるでしょう、って。俺たちは、ラビ(ユダヤ教律法博士)のカドゥリさんにお守りをもらおうと急いだ。それは、ベイタール・チームが下のリーグに落ちそうになっていたとき、ご利益があったんだ。金曜に俺たちは病院へ呼び戻された。彼らはショックを受けていた。子どもが呼吸チューブを引き離して起き上がったんだ。」
20歳のナチ・ニッシームは、ベイト・レヴィンスタイン病院の5階で、頭からつま先までベイタール・サッカーチームの黒と黄色のユニフォームにつつまれて、ベッドに横たわっている。彼は突然言う、「父さん、忘れないでね。僕はセミファイナルに行く必要があるんだ。」クルディ・ベアーは、剛毛のアゴと赤い目で一瞬凍りついて、それから息子を現実に引き戻そうと試みる。「ナチ、俺はおまえにもう言ったはずだ。ベイタールは負けたんだ。」と彼は優しく言う。
ナチは笑う。「まさか! 僕は試合に行くつもりだよ!」彼はそう言って起き上がろうとする。父親はフラストレーションを抑えてあがらうことを諦める。事故のために息子は短期的な記憶を失った。ちょうど映画「モメントー」でのように、彼は、ベイタールのどんなゴールでも10年かそれ以上にまでさかのぼって、驚くべき明瞭さで思い出すことができる。しかし、数分前に自分が誰としゃべっていたかを忘れている。「どうして僕はここにいるの?」と彼は両親に繰り返し繰り返し尋ね、知人が彼に一昨日かわした会話を思い出させようとするとき、当惑で首をかしげる。
クルディは病室にすわり、できるだけ楽観的な様子にみえるよう努める。医者たちは、長期にわたる回復過程について話している。ナチの記憶が通常に戻るかどうかもわからないし、いつ戻るかもわからない、と医者たちは言う。財政事情もあまりよくない。彼と彼の妻ロニートは、カステル近辺から病院までおんぼろのスバルで通おうとしても、そのガソリンをほとんど買うことができない。クルディは、病院の前に自分のテントを建てたいと思う。当面の間、彼は車の中で寝る。
「ジェニンは俺を強くした。」と彼は言う、「厄介なことを忘れさせてくれた。俺にとっての何らかの転換点になってくれるだろうと期待した。今度のことが襲ってくるまではね。でも、ナチに起こったことは、俺に、本当に大切なことは何かということを教えてくれた。俺は今、息子のために生きている。他のことは本当に大切なことじゃない。」
彼の予備役隊の友達が彼を助けている。
「彼は、本当に重要だったときに立ち上がった。彼は最もつらいときにそこにいた。」と彼といっしょに軍務についていた兵士ハイーム・タマムは言う。「誰も彼がやったようには行動できなかった。そして、頭に弾丸を受けることなしに彼が経験した悪夢を私たちの誰かが経験するかどうか、私にはわからない。私たちはみんな彼に驚嘆している。」
ジェニンでの彼のトラクターのパートナー、イェフェット・ダムティは、ひとつのことだけは確かだという、「次の任務のときも、俺はただクルディについていくだけさ。」
クルディの方はといえば、彼にチャンスを与えてくれた司令官たちに感謝している。
当面、彼らが配慮と同情で彼を包んでいくことだろう。彼らはここの病院にまで来て、彼といっしょにいる。彼が寂しがらないように。彼らは彼を助けるための基金を募ることを話し合っている。彼らが彼の息子のベッドのそばで会うとき、あの75時間の記憶が戻ってくる。
息子のベッドの周りでのおしゃべりは、ジェニンを破壊したことを自慢して鼻にかけるのを止めるように病院の管理人が呼び出してたのむまで続く。アラブ人の医療関係者もいて、傷ついているかもしれない。そして、アラブ人の患者の一人は既に不満を述べた。
<グッシュ・シャロムのコメント>
これは、モシェ・ニッシームが自ら語った信じられないような物語です。彼は狂信的なサッカーファンで、いつもトラブルメーカーでしたが、予備役部隊の司令官たちに今回の「作戦行動」に参加する機会を与えてくれるようにたのみ込みました。
「作戦行動」ということで彼が述べていたのは、数多くのパレスチナ自治区で、特にジェニン難民キャンプでイスラエル軍によって遂行された大規模な破壊のことです。
彼はジェニンに送られて、60トンの家屋破壊用ブルドーザーに乗りました。−−それも、16年にわたってうっ積した個人的フラストレーションを抱え、多量のウィスキーを飲み、たった2時間の訓練だけで、あの装甲車輛に乗ったのです。
「前へ進むことと地面を平らにすることの訓練で十分」と彼自身がインタヴューで証言しています。
彼の話は極端かもしれません、またこの男は多くの重大な質問に答えねばなりません。でも、モシェ・ニッシームは、ヨーロッパの諸都市でサッカーの試合の後で暴れる欲求不満の暴力的サッカーファンと大して違いません。
しかしそれでも、イギリス軍が酔っ払った欲求不満のマンチェスターファンをD−9ブルドーザーに乗せてベルファーストへ送り込むなどということは、もちろん考えつくこともできません。
したがって、真の問題は、彼をこの破壊の任務でジェニンに送ったシステムに向けられねばなりません。このシステムとはイスラエル軍です。
1.いったいどんな類の軍が、60トンの数百万ドルもする家屋破壊用トラクターを、以前に操縦もしたことのないそのような男の手にゆだねるだろうか?
2.いったいどのようにして、どのレベルにおいても一人の士官にもとめられることなく、彼の凶暴な行為が進行し得たのか?
3.いったいどのようにして、そのような軍が「世界で最もモラルの高い軍隊」だと主張できるのか?
4.このインタヴューによって、ジェニンでの軍の行為を調査されるのをイスラエルが拒絶したことに、もっと光があてられるだろうか?
5.ジェニンで本当のところ何があったのか?
私たちは、この吐き気がするようなインタヴューを読んだ後、あなたがたがこれらの疑問やその他あなたがたがもつ疑問を、大使館を通じてイスラエル政府に送り、またイスラエル軍に送る方法を見出してくださることを希望します。このイスラエル軍は、そのすばらしい軍用道具がこのような残忍で無法なやり方で使用されることを、許容しないはずですから。
*写真は、「和平のための女性連合」のHPより。 |