反占領・平和レポート NO.16 (2002/05/13)

4.20ワシントン行動の歴史的意義−−−−−−−−
パレスチナ人民連帯の課題が前面に躍り出たアメリカ反戦平和運動史上最大の行動

翻訳紹介:「パレスチナは今や反戦運動の重要課題−−4月20日抗議行動が“歴史的”といわれるのは何故か−−」(5月2日「ワーカーズ・ワールド」より)


■ 4月20日のワシントン行動は、首都ワシントンに10万人が結集し、全米で20万人がパレスチナ連帯の声をあげました。9.11以降7ヶ月、10月7日の対アフガン侵略以降6ヶ月が過ぎたとはいえ、今なお「戦時体制」下のアメリカで、9.11以降最大の反戦平和行動が行われたのです。これが一つ目の意義です。
 なぜこれだけ大規模な反戦平和の行動が打たれたのか。それはこれまで別々に行動してきたアメリカの反戦運動の2つの大グループ(ANSWER連合[Act Now to Stop War & End Racism]とUWM連合[the United We March Coalition])が大同団結したからです。ANSWERは当初、行動日を4月29日にしていました。ANSWERがUWMに合わせて日程を変更したと思われます。

■ 私たちも注目しているインターナショナル・アクションセンター(IAC)の活動家は、4.20行動の挨拶の中で、「今日、私たちは皆パレスチナ人だ」(We Are All Palestinians Today.)と演説し、熱い拍手が巻き起こったと言います。このスローガンこそ、集会の性格を一語で特徴づけるものだったのです。そして私たちも衝撃を受けたジェニンの大虐殺について厳しく批判したのです。ジェニンでのイスラエル軍による残虐行為が多くの民衆を行動に駆り立てたことは間違いありません。
 反戦平和運動、あるいは反グローバリズム運動とパレスチナ人民連帯、イスラエルの侵略行動反対の運動が結び付いたことが、ワシントン行動の二つ目の、そして最大の歴史的意義でした。パレスチナ人民連帯が公然とメインスローガンに掲げられたのは1967年以来はじめてです。
 この行動は、更にもう一つ重要な意義をもちました。それは、9.11以降ずっと抑圧されてきたアラブ系アメリカ人の、はじめての大規模な大衆的抗議行動でもあったということです。
 今回紹介する「ワーカーズ・ワールド」の論評は、“歴史的画期”となったワシントン行動の、この3つの歴史的意義を確認することを主なテーマとしています。同時に、どのようにしてパレスチナ問題が前面に押し出されたのか、その経緯と議論の一端を紹介してくれています。大成功を収めたワシントン行動の裏には以下で述べるような大変な準備過程があったのです。

■ イスラエルによる軍事侵攻が3月29日に始まるまでは、パレスチナ連帯は、まだ最重要の中心課題とはなっていませんでした。中心的テーマは、反グローバリズム運動と反戦平和運動の結合にありました。反グロと反戦平和との結合自身も極めて重要なテーマであり、9.11以降の閉塞状況を打破していく上での、新たな“突破口”、新たな“方向性”を示すものでした。

■ しかしシャロン政権による3月29日の軍事侵攻は、ワシントン行動を準備してきた指導的部隊の準備過程とスローガンをめぐる協議を一変させました。一撃を与えたと言ってもいいでしょう。
 統一行動と大同団結に試練が訪れました。シャロンの全面侵略戦争反対とパレスチナ人民連帯を取り上げるのか否か。否、取り上げるのは当然で、最前面に押し出すのか、それともワン・ノブ・ゼム、幾つかのスローガンの一つとして取り上げるにとどめるのか。2つの連合の間で相当激しい議論と協議が重ねられてきたようです。私たち日本の運動では伺い知れないアメリカ国内の親イスラエル感情、イスラエル・ロビーの存在、特に民主党の支持層での影響力の大きさが、背景にあります。
 ANSWER連合の全国運営委員会は何ヶ月も前から議論を重ね、2月段階からはパレスチナ連帯の具体的な組織化を積み重ねていました。しかしそれを 4.20のメインスローガンのひとつに掲げるには、特にUWM連合の方に大きな抵抗があったことが分かります。その主要な原因は、民主党のリベラルな部分に受け入れられるスローガンを掲げるという考えにあったことが、この論評から知ることができます。シャロンの暴挙は、皮肉にもそのネックを突破することに「貢献」したのです。
 そんなことを考えると、改めて4.20行動の大きな意義が私たちにも伝わってくるようです。ぜひこの論評をお読み下さい。

2002年5月13日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




翻訳紹介:「Workers World」(May.2.2002)より

4月20日抗議行動が「歴史的」といわれるのは何故か
パレスチナは今や反戦運動の重要課題
by ブライアン・ベカー


ANSWERのHPより)

 4月20日のワシントンD.C.での大動員は、アメリカ合衆国の反戦反帝運動の歴史にどのように記憶されるであろうか。ブッシュ政権の対外的対内的政治プログラムに反対して設定された最大の抗議行動に、10万人以上を引きつけたこの大動員から学ぶべき、最も重要な教訓は何であろうか。

 長年にわたって、進歩的諸組織や反動的諸組織によって多くのワシントン行動がおこなわれてきたので、ある特定のデモが恒久的な地位または歴史的に特筆に価する地位を達成したということを提起するには、何か特別なものが必要である。歴史過程で決定的重要性をおびる大衆行動というのは、革命と反革命を除けば、ごくわずかである。しかし、ある大衆行動は、それが社会における何か新しい発展・展開を意味するならば、あるいは少なくとも大衆運動の鋭い転換点または飛躍的発展であるならば、特別な「歴史的」重要性をおびる。

 その定義からすれば、4月20日の大動員は歴史的瞬間として記憶されるであろう。

 その歴史的価値は、パレスチナ人民の抵抗闘争に連帯したアメリカの歴史上最大のデモンストレーションであったという、並みはずれて重要な事実だけにあるのではない。それはまた、アメリカの反戦運動に飛躍的発展をもたらした。パレスチナ人民の公正な大義を無視してきた恥ずべき後ろ向きの政治的遺産を拒否したのであった。

 このデモンストレーションが全く新しいものを代表したという事実は、ワシントンの支配的な大企業メディアの報道でも消し去られなかった。「デモ参加者、パレスチナの大義に結集する」というのが、ワシントン・ポスト紙の第1面の大見出しで、大群衆の3段抜きのカラー写真付きであった。その記事は、ホワイトハウスでのANSWER連合の大衆集会の主催者が次のように主張したのを引用した。このイベントはアメリカの歴史上最大のパレスチナ連帯行動である、と。

 ワシントン・ポストの記事は、あちこちに集まったデモ全体で 75,000人という警察の見積りもまた引用した。警察の見積りになじんでいる者は皆、警察は進歩的活動には周知のように低く見積るということを知っている。

4月20日のイベントには、たくさんの焦眉の課題が持ち出されたが、アメリカが支えるイスラエルによる占領への、パレスチナ人民の抵抗闘争が中心課題であることは、参加者すべてにとって明白であった。アメリカにおいては、パレスチナ人民の闘争に対する支持・支援は、いわば、同性愛者であることを公表するのに近いものがある。

 パレスチナ人民の闘争の歴史的正当性が−−それを伝統的な平和運動の重要なセクターは何十年ものあいだ否定してきたのだが−−、アメリカ合衆国で沸き起こってきた新たな反戦運動によって大胆に肯定されたのである。この、パレスチナ人民連帯の成長しつつある勢いは、すべての進歩的運動全体に必ず鳴り響くにちがいない。


人種主義の熱狂に勇敢に抵抗して

 4月20日の大衆動員は、もうひとつ別の方面で広範な影響力をもつ諸結果をもたらした。つまり、2001年9月11日の後のアメリカで、アラブ系アメリカ人社会、南アジア人社会、イスラム教徒社会による、大衆的公的政治的活動の勇気ある再主張を表していたのである。これら社会からの数万人の人々がホワイトハウスに結集したということは、9.11以降の人種主義的狂信からすれば、注目に価することであった。

 これらの社会は、「テロリスト」として悪魔のように描かれてきた。数千人が不法に拘束された。数万人がFBIの「訪問」を受けた。

 「聖地基金(Holy Land Foundation)」のような主流の組織や慈善団体まで、パレスチナの大義を支持する政治的声明を出したために、「テロリストを援助している」として事務所や資産を差し押さえられた。


二つの連合:二つの政治的方向性

 4月20日の大動員は、もとは二つの異なる反戦連合の活動であった。すなわちANSWER連合(Act Now to Stop War & End Racism)と UWM連合(the United We March Coalition)である。この二つの連合の政治的プログラムと戦略的方向性には、多くの違いがあった。最も顕著な違いは、パレスチナ人民の闘争に関するものであった。

 当初から両連合は、ブッシュ政権のいわゆる「テロとの戦争」に関わる多くの課題を掲げていた。しかしANSWERは、パレスチナ人民の大義とイスラエルの占領に対するパレスチナ人民の反植民地的抵抗闘争を具体的にとり上げ掲げていた。UWM連合は、連合内で意見の一致に達することができなかったと声明を出した。それで長い間、UWM連合は、この紛争に関する公式の立場表明をしていなかった。


なぜANSWERはパレスチナに焦点を当てることができたか

 アリエル・シャロンが3月29日に西岸の残虐な再占領を推し進めた後には、ANSWER連合は、依然として多様な課題を包含するデモではあるがパレスチナの闘争を中心的焦点として掲げると発表した。

 ANSWERが新たな政治的軍事的展開にすばやく対応することができたのは、その全国運営委員会が、3月29日の侵攻以前に、いかにしてアメリカにおいてパレスチナ人民の闘いに対する政治的支持を高めるかということについての議論に、数か月を費やしてきたからであった。全国委員会は、2月23日にはニューヨークで、その1週間後にはサンフランシスコとロサンゼルスで、パレスチナ人民の闘争についての認識を高める目的で、パレスチナに関する大衆的屋内イベントを組織してきた。

 4月20日、ホワイトハウスでのANSWERのデモのメインスローガンは、「パレスチナに自由を。イラクへの新たな戦争、ノー。」であった。ホワイトハウスでの大衆集会は非常に多くの人々を引きつけた。CNNは、インターネットのサイトでの報道で 60,000人と報じた。主催者はそれより多い数の人々が参加したと見積もっている。

 UWMの集会の主催者は、ワシントン記念館での大衆集会に 20,000人から 25,000人が参加したと見積もっている。UWMの集会参加者の大部分はパレスチナ人民の苦しみに同情的で、多くのスピーカーが西岸とガザでの最近のイスラエルの残虐行為を糾弾したのだが、UWM連合は、パレスチナ人民を支持するのに、具体的要求を含む6項目の要求を修正することよりも、一般的な平和反戦メッセージを出す方を選んだ。


統一戦線の焦眉の課題

 パレスチナ問題に突出した潜在的重要性があるのかないのかという点は、4月20日の統一戦線を形成するかどうかに関して交渉したときに、2つの連合の間で何度も議論された焦点のひとつであった。7週間にわたる交渉の後に、2つの連合は、国会議事堂付近で共催による最終集約集会を行うことについに合意した。話し合いの中で最も争いのあった問題は、パレスチナ問題と、集約集会へのパレスチナからの参加に関するものであった。

 UWM連合内の勢力の中には、ANSWERが提案した統一戦線行動を熱心に支持するところもあった。特に「ニューヨーク市労働反戦連合」は、他のいくつものグループと同様に熱心だった。しかしUWM連合のメンバーの中には、特に「全国青年学生平和連合」というグループの代表がそうだったのだが、ANSWERの統一戦線提案に政治的反対を唱えるものもあった。

 例えば、「今まさに民主主義!」で有名な放送ジャーナリストであるアミー・グッドマンが集約集会の司会をするということに、双方が同意していた。ANSWERは、共同司会をおくことを−−つまりパレスチナ人学生で活動家のリーダーであるランダ・ジャマルを−−提案した。ANSWERの提案は、次のことに動機づけられていた。パレスチナ人の共同司会をおくということが、現時点では、パレスチナ人民の闘争が中心であると表明することになるということである。全国青年学生平和連合の代表は、パレスチナ人の共同司会をおくという考えを直ちに拒絶した。青年学生連合は「その考えをけっして通さないだろう」というのは、パレスチナ問題は単に「ひとつの課題」にすぎないのだから、と青年学生連合の代表は強硬に主張した。

 UWM連合は、結局、集約集会にパレスチナ人の共同司会をおくことを認めることによって、ANSWERの統一戦線提案に正式に同意した。

 両連合は、4月20日の1週間前に、統一合意を最終的に作りあげた。この合意は、両連合がそれぞれのオープニング集会の後に街頭行進で合流することを明記した。


パレスチナに関する逆行は何故あったのか

 「パレスチナ」という言葉と厳しいイスラエル批判が、1967年以降のアメリカでの主流の平和運動で、ほとんどタブーであったのは何故であろうか。

 この同じ運動が、南アフリカのアパルトヘイトに反対する闘争を支持し、ベトナム戦争に反対したのである。だが、イスラエルがアラブ諸国に対する1967年戦争を開始し、西岸、ガザ、ゴラン高原、シナイ半島を占領したとき、ベトナム反戦運動の中に、世界中の反植民地運動の不可分の一部としてパレスチナとアラブの大義を包含すべきだと要求したのは、アメリカの運動の中の最もラディカルな声だけであった。大部分の平和運動は、よそよそしい態度をとった。

 そして、1982年に歴史は繰り返した。その時、この自己規制的タブーのために、穏健的な平和諸組織と平和運動のかなりな部分は、前週に始まったイスラエルのレバノン侵攻に焦点を当てることを拒絶し、ましてや厳しく非難することなど思いもよらず、平和のための、核兵器反対の行進−−1982年6月12日の、ニューヨークに100万人以上を引きつけた行動−−を、ほとんど的はずれなものにしてしまった。結局レバノン人とパレスチナ人2万人がその侵攻の間に殺された。そのとき、国防相アリエル・シャロンに率いられたイスラエル国防軍がヤセル・アラファトとパレスチナ解放機構(PLO)をベイルートから追い出したのである。

 パレスチナの大義に対するこの歴史的な政治的逆行の理由は、しばしば、誤解され誤って解釈されている。つまり、他の反戦闘争で活動的であるユダヤ人が政治的にはイスラエルと結びついていて、パレスチナの公正な大義を支持することができず、イスラエルを支持している、ということの結果だと。もっとも、これは決定的ではない一つの要因ではあるかもしれないが。


決定的要因は何か?

 問題は、時々「広範な諸勢力」の連合などと呼ばれている左翼・中道連合を作り出そうとしている、進歩的運動の中のかなりの部分の戦略的方向性にある。その目標は、民主党を改革すること、その全国指導部のいわゆるリベラルな翼を再建することである。

 この方向性は、次のような着想からくる。すなわち、進歩的運動の主たる目標は、資本主義的政治的支配階級の中の極右翼の勝利を妨げること、そして、より「リベラルな政策」を促進することによって極右的対外政策・国内政策を無効にすることである、という着想。資本家の支配層のリベラルな部分の支持を確保するために、また、少なくともその主導的な指導者とブロックを組むために、まさにこのアプローチに従って、進歩的運動は、資本家の支配層のリベラルな翼に受け入れられるか、または脅威を与えないような形で、自らの政治的プログラムを制限しなければならない。

 アメリカの政治的支配層は、ベトナム戦争への継続的関与をめぐって、また後にはアパルトヘイト体制の南アフリカへのアメリカの支持支援について、深く分裂した。その結果として、反戦運動や反アパルトヘイト運動への重要な支持の表明が、政治家からもあったし、また大企業メディアにおいてさえもあった。

 中東問題では、この左翼・中道連合タイプの方向性は、パレスチナ人民との連帯表明を控えるように運動に要求した。というのは、アメリカの資本家階級の中に、イスラエル支持をめぐっての分裂は事実上全くなかったからである。アメリカ帝国主義がイスラエルを支持しているのは、世界の3分の2の石油がある地域で、イスラエルが比較的安定した重武装の属国として役立っているからである。支配階級のリベラルな部分からの実質的な支持を勝ち取ろうとして、自らの政治的プログラムを制限しようとするグループは、かくしてパレスチナ人民への支持を無視するよう求められてきたのである。

 ANSWER連合は、反戦、反人種主義、反抑圧のあらゆる可能な諸勢力と統一行動を行うという戦術的目的を分かち合う。しかしそれを、その原則的な、戦略的に死活的な重要性を持つ反帝の政治的方向性を清算することによって行うことはない。

 4月20日の大動員が歴史的なものであったのは、それが、パレスチナ問題についての不活発の遺産を突き破ったからであり、パレスチナ人民連帯という課題を焦眉のものにしたからである。

(筆者は、インターナショナル・アクション・センターの共同ディレクターであり、またANSWER連合(Act Now to Stop War and End Racism)の運営委員会のメンバーである。)