「靖国合祀イヤです訴訟」の現展開とその意義
靖国神社に近親者が合祀されている遺族による「靖国合祀イヤです訴訟」がはじまって約1年になります。この間の裁判を傍聴してきた支援者として、裁判の経過を紹介し、この国の軍国主義と復古主義と闘うにあたって靖国神社のもつ意味を考えていきたいと思います。
遺族らの意思――「人間の尊厳」――を踏みにじる靖国神社
2006年8月11日、靖国神社と国とを相手取ったこの訴訟は、戦没者の遺族9名を原告として、大阪地裁に提訴されました。それはちょうど小泉元首相の、首相としての最後の靖国参拝の直前のことでした。
これまでの靖国神社を巡る訴訟がもっぱら国に対して政教分離違反を問うものであったのに対して、この「靖国合祀イヤです訴訟」は、遺族が明白に拒否しているにもかかわらず合祀を取りやめないのは人権侵害であるという訴えを靖国神社に提起しています。この訴えは、靖国神社のシステムを明白にあぶり出すものとなっています。
そのシステムとは、遺族の意志とはまったく関わりなく、戦没者を、天皇のために役に立ったかどうかという基準で選別し、その基準に合致した戦死者を「英霊」として祀ることで、見習うべき模範とし、後に続かせるということにあります。
同時に、国に対しても、戦後も密接に継続していた靖国神社との関わりは、政教分離違反になるという訴えを提起しています。最近明らかにされた新資料は、靖国神社の合祀が国・地方自治体の積極的な関与なしにはありえなかったことを具体的に裏付けています。
第1〜3回の口頭弁論では、主として原告側の訴えが陳述されました。被告国と靖国神社側は、「陳述します」の一言だけですますか、もしくは、却下を求める趣旨をごく手短に口にするだけでした。
原告側からは、訴えの趣旨が、弁護士および原告自身によって語られていきましたが、この時、国側の弁護士が、書面の説明なら訴訟代理人(弁護士のこと)が行なえばいいのであって、原告本人が登場するのは手続き的な適正さを欠いており、必要もないと言ってきました。私はこれを聞いてあきれました。いったん訴訟を起こせば、法廷では弁護士に何から何までおまかせというのは、はたして裁判のやり方としてそれが適正なのでしょうか。「必要もない」という言葉には特に腹が立ちました。結局、裁判長は原告本人が語ることを認め、被告の訴えは退けられました。単なる難癖でしかなかったようです。
原告らは、それぞれの立場・体験・信条から、靖国神社に近親者が祀られることが、自分たちの尊厳を侵すことであるという思いを綴り、法廷で訴えました。(これまでの訴状・準備書面の全文は「靖国合祀イヤです訴訟」のHPhttp://www.geocities.jp/yasukuni_no/でご覧ください。)ここではその中の一人、小泉靖国違憲訴訟の原告でもあった菅原龍憲さんについて紹介しましょう。
菅原さんのお父さんの菅原龍音さんは、浄土真宗の住職でした。浄土真宗では「仏に帰依する者は神を拝まない」と教えられているにもかかわらず、死後、靖国神社の祭神として祀られているというのは、真宗僧侶としての存立の根幹に関わる問題です。菅原さんは何度も合祀の取り消しを訴えに靖国神社に足を運びましたが、その申し出はことごとく拒絶され、あろうことか「お父さんは喜んでおられるかもしれませんよ」という対応までされてしまったのです。この時菅原さんは激しい怒りと衝撃を感じました。戦場において人間が人間でなくされ、飢餓と恐怖とをもって死に至らしめられた戦没者の悲惨を「英霊」という虚像に仕立て上げることに対する苦痛と屈辱は今も菅原さんの思いの中に絶えることがありません。
遺族の意思にかかわりなく、勝手に祭神として合祀し、遺族が何度も要請しているにもかかわらずその取り消しを一切認めようとしない、これが強制でなくてなんなのでしょうか。この問題の中核を貫くものが人間の「尊厳」である以上、幾度繰り返しても過ぎることはないと菅原さんは訴え続けています。
地道な聞き取りから生まれた新しい論理展開――「敬愛追慕の情」
今回の裁判は、法律構成の面においても新しく、画期的なものとなっています。
ひとつは、靖国神社の「合祀」が、他者の権利を侵害する民法上の不法行為にあたるとしたことです。これまでは、「合祀」が宗教行為である以上、「合祀の取り消し」もまた宗教行為にあたるのではないかという考えがこれまでの法律の世界の常識でした。つまり、裁判所という国家機関が、靖国神社という一宗教法人に、特定の宗教行為をするよう命ずることは、それ自体が政教分離原則に抵触してしまうということなのです。誰よりも政教分離原則を重んじる人々がその原則を自ら破るようなことはできません。
しかし、原告らは現に「合祀」によって苦痛を受け、人間としての尊厳を踏みにじられてきました。こうした思いをいかなる“法律の言葉”で表現すればいいのでしょうか。これまでの裁判では、原告らの思いを「宗教的人格権」という言葉で表現してきました。しかし、靖国神社にも祀る自由があるという理屈を突き破って裁判官の心に届くものとなるには、今ひとつ決め手を欠いていました。
そこで、今回の準備書面では、原告らが侵害されたのは、「敬愛追慕の情」であるという論理を展開しています。
これまでの人権に関わる裁判の判例では、「人格権」が、第三者によって侵害されてはならない権利として認められてきています。この書面では、その人格権の構成要素として、遺族の死者に対する敬愛追慕の情があるのだという位置づけを行っています。
人は社会生活の中で自らの生存の意義を見出し、自身に対する何らかの意味づけを行います。そうして見いだした自己イメージと異なる評価・意味づけが他者からなされ、流布された場合は、個人の人格的生存を侵害するものになります。つまり、自分自身に対して、自分の意に反する意味づけをされないという権利は人格的生存に不可欠のものとして保護されています。(人格権への不当な侵害に対しては損害賠償を請求することができます。)
それと同じように、家族的人格的な結びつきの中で、自分自身と人格的一体性を感じるような人(例えば近親者)に対する意味づけもまた人格的存在に不可欠なものとして、不当な侵害から守られなければなりません。
死者と一定の関係を有する者に、死者が本来有する決定権や法益を帰属させるという法理は、現行法制度に置いても取り入れられています。(死者の氏名、プライバシーに関する情報などは、遺族が排他的に管理することが法律で認められています。)
また、敬愛追慕の情に関しては、「緊密な生活を共に過ごした人への敬慕の念から、その人の意思を尊重したり、その人の霊をどのように祀るかについて各人の抱く感情などは法的に保護されるべき利益となり得るべきものであると考える」と、法的な権利性があることが、2006年6月23日小泉靖国違憲訴訟の最高裁判決における滝井補足意見において示唆されています。
さて、靖国神社が、その戦没した近親者を「大東亜戦争の英霊」として意味づけし、「天皇の赤子として死んで御國に奉仕した」ものとして誉め称え、公に流布していることは、明らかな事実です。この靖国神社の行為は、原告らの近親者に対する意味づけとまったく相容れないものです。遺族の明確な拒絶、合祀の取りやめの要請にも関わらず、合祀を続け、それを自らの教義の宣伝に利用し続けるということは、靖国神社には、原告らの権利侵害について「害意(積極的加害意志)」があり、不法行為に値することは明らかです。
以上のような論理展開は、弁護士らの頭の中から出てきたものではありません。原告の一人一人の思いを最大限引き出すために、詳しい聞き取りを重ねる中から出てきたものでした。原告の方が自分の思いを、家族という「サークル(円)」を破壊されたような気がするという言葉として表現した時、近親者に対する意味づけが自己に対する意味づけと不可分一体のものであるという考えが明確なものとなったということです。
これを裁判官らがどれだけの聞く耳をもって聞いたのかはわかりません。しかし、私は、新しい画期的な意味づけであると同時に、あくまでこれまでの判例・通説に沿った中からの必然的な帰結として出てきたものとして、そしてまた文学の言葉ででもなければ表現しづらい人間の情というものを見事に法律の言葉で展開したものとして、とても感銘を受けました。
ところで、第三回口頭弁論の開廷直前に、裁判所の入り口で、「靖國応援団弁護士」という肩書きの個人名(小泉靖国違憲訴訟で、靖国神社側の弁護士をつとめた人ですが、今回の訴訟の弁護団に加わっているかどうかは知りません)で、この訴訟の原告の一人である菅原龍憲さんのことを中傷するビラが配られていました。
そのビラは、浄土真宗の「悪人正気説」(?)の本質は仏教の神道化であり(そもそも親鸞が述べたのは「悪人正機説」なのですが…)、戦時中に浄土真宗の僧侶が戦死を礼賛し、靖国神社の英霊となることを肯定したことが浄土真宗の正しいあり方であるという珍説を展開し、そして「いまの真宗の反靖國の姿勢は、信仰・教義とは無縁の戦後の処世に基づく政治上のものにすぎません。真宗僧侶として散られたであろう菅原氏の父君は、英霊祭祀を冒涜する菅原氏の言動を苦々しく思っておられるに違いありません」と勝手に決めつけています。
これは、近親者について自分が抱いている意味づけとは全く相容れない意味づけを第三者が流布するという、まさに展開した不法行為についての見事な実例です。このビラを配った人物は、自ら墓穴を掘ったと言わざるを得ません。
「信教の自由」一般に問題をすりかえる靖国神社の主張
2007年6月5日に行われた「靖国イヤです訴訟」の第四回目の口頭弁論は、ある意味非常に面白いものでした。というのは、珍しく靖国神社が準備書面を口頭で陳述したのです。国は、いつもの通り、書面を提出して最小限度の事務的な言葉を交わしただけだったのですが。
靖国神社の主張は、要するに、靖国神社にも信教の自由があり、原告の訴えは靖国神社の信教の自由を侵害している、そして、靖国神社の立場の正しさは山口県自衛官合祀事件の最高裁判決ですでに認められている、ということでした。
しかし、原告が問題にしているのは、信教の自由の有無一般ではなく、信教の自由が他人の権利を侵害する場合にも無条件に認められるのか、なのです。靖国神社はその二つの問題を完全に混同しています。
さて、実際に法廷の場で靖国神社側が陳述したことを具体的に見て行きましょう。
まず、靖国神社の信教の自由に関する原告の基本的態度には矛盾があるということが述べられました。原告は第8準備書面で「被告靖国神社は、合祀を拒否する原告らにとっては被告国と同視できる、あるいはこれに準じる巨大な権力的存在である。したがって、被告靖国神社が、戦没者遺族個々人に対し、信教の自由を主張することは認められない」などと述べている。その一方で、訴状において原告は、合祀の取り消しもまた「合祀そのものと同様ひとつの宗教行為であろうから、裁判所が宗教法人である同被告に、判決によってこれを命じることは適当ではない」から、「合祀の取り消し」という宗教行為の請求ではなく「単なる書類に過ぎない霊璽簿、祭神簿、祭神名票」からの氏名の削除を請求している。これは靖国神社にも信教の自由があることを前提とした立場である。この二つはまったく矛盾した立場だというのが靖国神社の見解です。
さらに、原告が求めている霊爾簿等からの氏名の抹消は、単なる書類上の事務的な手続きではなく、靖国神社にとっては合祀と一体となって宗教行為の一部をなすものであって、靖国神社の信教の自由を侵すものであり、また、原告が本当に単なる書類としか考えていないのだとすれば、そこから名前が削除されることで原告らの苦痛は本当に癒されるのかということが述べられました。
最後に、原告らの主張する「敬愛追慕の情を機軸とした人格権」は、「宗教的人格権」を言い換えたものにすぎず、それはすでに、山口県自衛官合祀事件の最高裁判決で法によって保護されるべき権利ではないという判断が出ている解決済みの問題であることが述べられました。この最高裁判決および長島裁判官補足意見を、靖国神社はこの裁判にも同じように適用されるべきだと何度も繰り返していました。
原告の立場は、本当に靖国神社が主張するように矛盾に満ちたいいかげんなもので、結局は靖国神社の教義を他の宗教者が攻撃するという宗教上の争いにすぎないものなのでしょうか。また、自衛官合祀事件の最高裁判決は、本当に今回の事件にも同じように適用されるべきなのでしょうか。また、その判決そのものに問題はないのでしょうか。
先に述べたように、靖国神社は、信教の自由一般の問題と、その信教の自由が他人の権利を侵した場合であっても無制限に認められるのかという具体的な問題を完全に混同しています。
靖国神社に、信教の自由、祀る自由一般があることを原告が否定したことはありません。原告が問題にしているのは、自分たち遺族が明確に拒否しているにもかかわらず、その親族である戦没者を勝手に「祭神」とすることは許されるのかどうかということです。
この問題についての靖国神社の態度ははっきりとしています。靖国神社の教義というのは、そもそも遺族の意向とは無関係に、天皇のために死んだのかどうかを基準として戦没者を合祀するというものなのです。今回の彼らの準備書面においても「被告靖国神社は、設立以来、遺族の意向とは別に、合祀基準に該当する戦没者を合祀してきたのであって、それが設立の趣旨であり、かつ、宗教上の教義としても確立しているのである。」と書かれています。つまり、合祀を遺族が拒否しようが、それによって苦痛を感じようが、そんなことは知ったことではないという教義なのです。
しかもそれは、靖国神社が設立以来、すなわち、国家神道として、国家の一機関として特権的な位置にあった時からずっと今に至るまで同じ趣旨だというのです。これでは、靖国神社の方にこそ、戦後の新憲法のもとで成立した、他の宗教法人と同等の権利を持つ一宗教法人として信教の自由を主張しているのか、それとも、敗戦によって解体されることになっていたにもかかわらず密かに延命するための方便として「信教の自由」を掲げているのかを問いたいものです。
「信教の自由」とは、歴史的にもまた理論的にも、国家権力からの自由として確立してきた権利です。国家権力が特定の宗教を押しつける自由ではありません。明治天皇の命令に基づいて合祀を行っているのだと主張する靖国神社は、親族の合祀をはっきりと拒否している原告らにとって「国と同視できる、あるいはこれに準じる巨大な権力的存在」であることを自ら物語っています。
ついでに述べておくと、原告らが霊爾簿等に宗教的な意味を認めていなければそこから名前が削除されても苦痛は慰められないのでは、という靖国神社の言い分は笑止としか言いようがありません。たとえば、丑の刻参りに呪いの効果があると考えていない人でも、家族の名前が書かれたわら人形に五寸釘が打たれているのを見たら、それをそのまま放置するわけにはいかないと思うでしょう。原状回復の一手段として名簿からの名前の削除を求めるのは当然のことです。
他者の人権を侵害する「信教の自由」までもが保障されるのか?
次に、靖国神社が“錦の御旗”としている自衛官合祀事件の最高裁判決とは、どのようなものであったのかを見ていきましょう。
これは、職務中の交通事故で亡くなった自衛官中谷(なかや)孝文さんがその妻康子さんの明確な拒絶にもかかわらず護国神社に合祀されてしまったという事件で、1988年の最高裁判決では、一審、二審の判断を覆して、中谷さんと護国神社、そして自衛隊のOB組織である隊友会を、みな同等の私人と見なし、中谷さんに対して、護国神社が夫を祀る信教の自由を認める「寛容」を要請するという判決が出されました。
特に長島裁判官の補足意見はこの判決の趣旨をより明確に説明しているとして、靖国神社は、この意見を多々引用しています。
そこでは、憲法は、どのような宗教に対しても平等に信教の自由を保障しているのであって、いわゆる宗教的少数者を特別に保護しようとはしていないので、宗教的少数者に対してもひとしく「寛容」が求められているとあります。
宗教的少数者にもひとしく「寛容」を求めるということは、どういうことなのでしょうか。多数者にとっては、少数者の「寛容」などなくとも、自分の信仰を脅かされることはありません。「寛容」は、少数者のためにこそ必要とされるのです。
しかも、この事件は、単なる多数者と少数者の対立ではありません。護国神社というかつて国家権力と一体であった宗教団体が、自衛隊という現在の国家権力の機関と緊密に結びついて、夫を偲ぶ一個人の意志に反した宗教行為をなした事件なのです。護国神社への合祀を要請したのは、自衛隊そのものではなく、そのOB組織「隊友会」によるものであるから、民間人どうしの争いであると判断したのは、まったくの欺瞞であるとしか言いようがありません。
長島補足意見は、さらに、死去した自己の配偶者を自己の信仰する宗教以外の宗教で慰霊する者がある場合、「たとえその宗教上の行為に不快感を抱いても、これを受忍すべき寛容さが求められている」と述べています。しかし、これはあまりにも無茶苦茶な見解です。たとえば霊能者とやらに、私の両親や祖父母が子孫に災いをなす悪霊となっているからお祓いをしてあげるなどと言われればたいへん不快ですが、それでも「受忍すべき」なのでしょうか?
さらには、信仰の対象が「故人であっても、生存者であっても」「人間以外の生物や無生物、天然事象」と同じように自由が保障されているとあります。これは一層とんでもない話です。人間は鰯の頭ではありません。自分の価値観と全く相反する見地をもった人々に崇められることは、呪いや侮辱に匹敵する苦痛を感じるものではないでしょうか。
現行憲法ではもちろん「信教の自由」が保障されていますが、それは他人の人権を侵すことまでも保障されているわけではありません。他の基本的人権と同様、「公共の福祉に反しない限り」、つまり、他者の人権と衝突しない限りにおいて最大限尊重されるのです。
病人を医者に診せずに祈祷を行った末、その病人を死なせてしまった祈祷師が傷害致死罪に問われた事件があります。祈祷師が祈祷をするのは信教の自由だといっても、それが他人の人権を侵害した場合は処罰されるのです。
「遺族の意向とは別に」合祀をするという行いが、実際に遺族によって拒絶されている場合でも「信教の自由」として通用するというのは、憲法の理解においても、法の理解においても間違っています。
「国家無答責」――“君主のなすことはすべて正しい”――を力説する時代錯誤な国側の主張
さて、国の主張の多くは靖国神社の主張と重なりますが、独自に次のようなことを主張しています。
国は、靖国神社に戦没者の氏名等を知らせるのは、靖国神社の照会に応じた「行政サービス」だというものです。多くの国家公務員を長年にわたって動員し、国費を用いて膨大な数にのぼる「氏名等」の私的個人情報を、一宗教法人にすぎない靖国神社に対して提供することがどうして「行政の当然のサービス」なのでしょうか。
このようなことが許されるなら、国立病院で死亡した患者の氏名、本籍、住所、遺族、死亡原因、死亡年月日等を逐一、葬儀業者に知らせることも許されるでしょう。これほど常識はずれの主張はありません。
また、国は、明治憲法下では「国家無答責」という理念があったので、その当時行われた統治行為に関しては一切の賠償をする責任はないのだということを非常に熱心に主張しています。
「国家無答責」とは、国の統治行為について国民に対して賠償をする責任はないという考え方です。現在の憲法では、国家賠償の規定がありますが、明治憲法ではそんな規定はありません。しかし、それは単なる法の不備ではなく、まったく正当な理由に基づくものであったことを、国は縷々解説しています。
「国家無答責」の根拠はどこにあるのかといえば、伊藤博文の編纂した「行政裁判所設置ノ問題」という資料に、「君主ハ不善ヲ為スコト能ハズ」と書いてあるからだというのです。「君主は善でないことはすることができない」から、公権力の行使によって生じた損害を、個人は行政裁判所に対して損害賠償の訴えを提起できないというのです。
私は、これを見て開いた口がふさがりませんでした。君主は悪いことができない??? いや、この言葉が意味するのは「君主のなす事はすべて正しい」ということ、つまり、何が善で何が悪かは君主が決めるのだということなのです。
さらに、この「国家無答責」という立場はその当時決して時代遅れのものではなく、英米のような先進国でも、「王は悪をなさず」という理念に基づき、日本と同じように「国家無答責」の法理を採用していたことが説明されています。
しかしながら、「王は悪をなさず」という命題は、イギリスの二つの革命――清教徒革命と名誉革命――とアメリカの独立戦争によって、「悪をなす者は王ではない」という意味を内包するようになりました。英米の統治者はその地位そのものを失うことによって公権力行使の責任を取ることになっていたのです。人間に対して責任をとることのない“現人神”を頂点に抱く無責任体制と同じではありません。
ところで、国がこの時代遅れの「国家無答責」をわざわざ主張するのは、原告の中には戦中に合祀された近親者を持つ方がいるからです。戦中においては靖国神社の合祀は完全に合法的でした。それを後からできた憲法や法律の見地から処断することはできないというのが、国が展開しようとしている理屈です。
もちろん、法律に遡及効はないというのは大原則です。しかし、原告らが請求しているのは、「合祀の取り消し」ではなく、「氏名の削除」です。原告の親族らの氏名は現に今、靖国神社の名簿上に存在しているのです。請求の対象とされているのは過去の行為ではなく、現在も継続している状態です。したがって、国が過去を正当化しようとする主張は、全く的はずれであり、そのアナクロニズムを露呈させるだけの行いでしかありません。
靖国神社の「合祀」システムの維持は、将来の戦争に備えたもの
この裁判を通じて、靖国神社の教義はそれを拒絶する人々に対してまでも「祀る権利」を主張する異様なまでに傲慢な教義であること、靖国神社が国家機関の一部、軍の一機関であった時の特権的な地位を現行憲法のもとでも維持しようとしていること、現に維持されてきていること、そのために国が積極的に関わり続けてきたこと、国も靖国神社も過去の過ちに無反省であるばかりかそれを積極的に正当化しようとしているなどが明らかにされてきました。
安部首相が「新憲法」(“改憲”というなまやさしいものではありません)を制定しようとする原動力の一つは、戦前のように靖国神社を国家機関として位置づけようとする復古主義的な人々を支持層としているからです。
「自衛隊」が「自衛軍」となり、「戦争のできる国」になれば、戦死者がでるのは必須です。その時、戦死者とその遺族をどう慰撫するか、どのように称揚して名誉なことだと思わせるのでしょうか。ここで、靖国神社が大きな役割を果たすことは明らかです。靖国神社の「合祀」システムは単なる過去の問題ではありません。現在も続く人権侵害であると同時に、将来の戦争に備えた“戦争神社”の復活が企てられているのです。
この訴訟の行方に注目し、反動勢力に対抗する力を拡大していきましょう。そのためにも、今後の公判の傍聴に積極的に参加していきましょう。
(2007年7月28日 大阪Na)
次回の公判は、8月28日午前11時開廷です。(傍聴券の抽選のためには、午前10時までに大阪地裁正面玄関前にお集まりください。)
■「靖国合祀イヤです訴訟」のこれまでの経緯■
2006年
8月11日 提訴
10月24日 第一回口頭弁論
2007年
2月13日 第二回口頭弁論
4月10日 第三回口頭弁論
6月 5日 第四回口頭弁論
■今後の公判の予定■
2007年
8月28日 第五回口頭弁論
10月16日 第六回口頭弁論
12月18日 第七回口頭弁論
(「靖国合祀イヤです訴訟」のHP http://www.geocities.jp/yasukuni_no/でご確認ください。)
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『還我祖霊(かんがそれい)――台湾原住民族と靖国神社』
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