日本ビジュアル・ジャーナリスト協会声明文 「ジェニンで虐殺はあった」 |
■以下に紹介するのは、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会が日本の報道関係に宛てて2002年8月10日付で発表した声明文「ジェニンで虐殺はあった」です。ジェニンの虐殺に関する日本の報道のあり方について真正面から批判した非常に重要な指摘です。
私たちもジェニンの虐殺を初め、日本のTV・新聞・雑誌報道が事実上イスラエルとアメリカを免罪している、と兼ねてから批判してきました。まるでイスラエルとアメリカ批判はタブーであるかのような現状に、ささやかながら何とかして風穴をあけたいと思ってきました。イスラエルの侵攻や虐殺とパレスチナ住民の抵抗、民族解放闘争とを同列視するような、否、自爆テロを一方的に非難するばかりにパレスチナ人民の方が悪いかのような、根本的に間違った報道が闊歩する現状に一矢を報いたいと考えてきました。全ての根源がイスラエルによる「占領」支配にあることはほとんど触れられないままなのです。
この声明文で明らかにされた情報は、同協会の広河氏を初め、フォト・ジャーナリストの方々が、現地で収集した、どれも生の真実です。改めて広河氏らの心意気と批判精神に頭が下がる思いです。
■私たちは先に、7月29日に開かれた「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)設立記念報告会―― 5人のジャーナリストの見たパレスチナ ――」に参加して、という記事をHPに掲載しました。東京のピース・ニュースの方からの報告です。
もう皆さんもご存じのように、同協会の世話人代表はパレスチナやチェルノブィリの仕事で有名な広河隆一氏です。その「設立趣意書」には日本のフォト・ジャーナリストのあり方、もっと言えば報道とジャーナリストそのもののあり方、社会的責任を厳しく問うものでした。そしてその趣意に基づく初仕事が、今回の「声明文」です。
■私たちは、自分たちの反戦平和運動を進める中で、写真展やパネル展など、一人一人の市民に対して視覚に訴えることの重要さと力を初めて体験しました。広河氏やJVJAなどの真剣な、批判精神を持ったフォト・ジャーナリストの方々の仕事なしには、これからも反戦平和の取り組みは広範な人々を捉えることにはならないでしょう。今後もJVJAの仕事を応援していきたいと思います。
2002年8月20日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会」については、次の広河隆一氏のHPを参照してください:
広河隆一通信 HIROPRESS.net
同、JVJAページ
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会声明文
報道関係各位殿
「ジェニンで虐殺はあった」
私たちは先月末に誕生した日本ビジュアル・ジャーナリスト協会です。
私たちはジェニンに関する最近の一連の報道について、深い危惧を覚えています。
なぜなら私たちのメンバーの5人がジェニン難民キャンプの事件を取材しており、そこで報告してきたことと、この間のメディアの報道は、著しく異なるからです。
このまま私たちが反論しなければ、私たちは偽りを報道していたことになるでしょう。
ここで実際にジェニンで何が起こったかをお伝えする前に、日本語の問題をご指摘したいと思います。
1 メディアの間違いは、日本語の使用のあいまいさから来ている?
まずメディアによる報道と、私たちの取材内容の食違いについて最大の理由を挙げるとすれば、それは日本語の間違った使用と英文和訳の間違いがあると思います。
4月のジェニン難民キャンプにおける虐殺疑惑についての人権団体の発表を報道する各紙のタイトルはおしなべて「ジェニンの虐殺はなかった?」というようなものでした。
典型的な記事は次のようになっています。
<タイトル> ジェニン「虐殺」なかった?(5月2日付読売新聞)
<リード文>
ヨルダン側西岸ジェニン難民キャンプでの虐殺疑惑について、欧米の人権団体が「大
量虐殺」に否定的な調査を相次いでまとめ、組織的な大量虐殺の事実はなかったとの観
測が現地では強まりつつある。少なくとも犠牲者の数に関しては、『死者は戦闘員を中
心とする50人程度』としていたイスラエル側の主張が裏付けられつつある形だ。
小見出し「殺害『数百人』に疑問符」
「『人権のための医師団』は……『虐殺の証拠は見当らなかった』ことを明らかにした。」
「アムネスティ・インターナショナルも『現在の状況で"虐殺"という用語を使うのは
有益でない』と発表した」
この記事を注意深く読むと、記事内容はまず「大量虐殺」の事実は無かったという書き方をしていて、途中から「虐殺」の証拠は無かったという表現に変わり、そしてタイトルもジェニン「虐殺」なかった?となっています。
この「大量虐殺」と「虐殺」はもちろん日本語として同じではありません。しかし「大量虐殺」の事実を否定することが、不思議にも「虐殺」の事実をも否定する書き方になっているのです。そしてこの書き方は各紙に共通しているのです。
8月2日付けの各紙の見出しは次のようになっています。
朝日「ジェニン虐殺疑惑『証拠見つからず』国連が報告書発表」
読売「ジェニン虐殺 証拠なかった 国連報告書」
共同「国連ジェニン報告書を発表 難民虐殺は断定できず」
毎日「国連報告書:ジェニン事件 イスラエルの『虐殺、証明できず』(インターネット
版)
ご存知のようにジェニン難民キャンプで問題になっているのは、大量虐殺が起こったかどうか、英語で言うとmassacre が起こったかどうかということです。これらの記事の論拠となっている人権団体が問題としている言葉もmassacreです。 massacre を証明する証拠はなかった、と言っていたのです。
massacre を 辞書で引くと、どの辞書も「大量虐殺」「大虐殺」と書いています。
リーダーズ英和辞典 研究社
massacre:大虐殺(する)、皆殺し(する)
ジーニアス英和辞典 大修館書店
massacre : (無防備な人・動物の)大(量)虐殺
EXCEED英和辞典 三省堂
mas・sa・cre n。 大虐殺; 壊滅; [[話]] 完敗。
プログレッシブ英和 小学館
mas・sa・cre [msk] 大虐殺
英英辞典でもはっきりと、この言葉が大量の人々を殺すことを示すと述べています。
英英辞典 コリンズ [massacre]A massacre is the killing of many people in a violent and cruel way
ところが各紙の記事を見るとこのmassacre を「虐殺」と訳していることになるのです。
「大虐殺」あるいはmassacreと日本語の「虐殺」は同じなのでしょうか。
「虐殺」を辞書で引くと次のようになります。
広辞苑 岩波 「むごたらしい手段で殺すこと」
講談社国語辞典 「むごたらしく殺すこと」
現代国語例解辞典 第2版 小学館 「虐殺:残虐な手段で殺すこと」
漢語林 大修館書店 改訂版 「虐殺:むごたらしい方法で殺すこと」
現代国語例解辞典 第2版 小学館 「虐殺:残虐な手段で殺すこと」
おわかりのように、たった1人でもむごたらしい方法で殺されることがあったら、それを「虐殺」と呼ぶのです。
さすがに英字紙はこのような曖昧な表現をするわけにはいきません。
8月2日付のThe Japan Times は次のようなタイトルになっています。
U.N.report on Jenin attack ducks massacre issue。
Massacre つまり「大量虐殺」を用いているのです。
人権団体はmassacre の証拠がなかったと報じたのに、それを「大量虐殺や大虐殺の証拠がなかった」とは訳さないで、単に「虐殺の証拠がなかった」と訳したのです。(国連は人権団体の調査報告を参考にしたと述べています)。
つまり「大量虐殺はない」と発表されたものが、日本の記事では「むごたらしく殺された者はいない」と報道したことになるのです。つまりたった1人もむごたらしく殺された人はいないということになってしまったのです。これでは難民キャンプでの被害にてついて、意図的に情報の操作が行なわれたとみなされても、仕方が無いのではないでしょうか。
しかも国連報告そのものにはmassacreの単語が全く使用されていません。それなのに日本のメディアは「国連は虐殺がなかったと報じた」かのような記事を作りました。それは報道姿勢として果たして正しいことなのでしょうか。
2 それでは国連の報告は何を告げているか
国連の報告は、その前文から問題をはらんでいます。現地調査をしなかったのに、調査報告を発表しているからです。そのことは国連も認めています。
国連報告書が問題をはらんでいることはともかく、その内容を吟味しないで、「虐殺は無かった?」と報じるマスメディアは大きな問題をはらんでいます。
国連が大量殺戮に言及するのはたった1ヶ所で、次のようなものです。
2002年5月までにジェニンの病院でパレスチナ人52人の死者が確認された。イスラ
エル軍もまた死者の数はおよそ52人としている。パレスチナ自治政府のある高官は4月
中旬に約500人が殺害されたと主張したが、その数はこれまで出てきた証拠に照らし
合わせても実証できなかった。(56)
この文章を取り上げて、日本のマスメディアは、「虐殺はなかった?」と報じたのです。
まずこの52人というパレスチナ側死者の数字が発表された時から2週間後、当協会のメンバーである広河隆一が発表元の人権団体を訪れた時、死者の数字が全く変わっていなかったので驚いたことがあります。その前日も新たな死体が何体も瓦礫の中から掘り起こされているのにもかかわらずです。この時点で確認された死者は62人を超えていたはずです。人権団体も国連も、いったん52人という数字を公表したら、新たな死者が発見されても、その数を計算に入れることはしないのだと理解しました。しかもまだ遺体が瓦礫の中から発見されていないことが分かっているケースもあるのにです。
この数字がそれから3ヶ月経った後も修正しないで用いられているのです。依然として行方不明の人は多くいるといいます。
ところで52人の死者という数字が発表された時も、人権団体はそのうち22人が民間人だと報告しました。たしかに500人の死者は確認されていないかもしれないとしても、22人の死者も大変な数字です。それを「虐殺は無かった?」とくくっていいものでしょうか。
3 事実は本当にそうなのか、
事実、国連報告書には「むごたらしく殺された」人々の例がいくつも報告されているのです。
目撃者の証言や人権団体の調査は、破壊は無差別に行なわれ、なかには住民が避難す
る前にブルドーザーの攻撃にさらされた家もあると断言している。
ジェニン難民キャンプの包囲攻撃を4月3日に開始し、13日間続けた。その間イスラ
エルの戦車約200両が重爆撃をしながら難民キャンプを攻撃した。アパッチ・ヘリコプ
ターとF16戦闘機も参加した。占領軍は包囲攻撃を続ける間、キャンプの水道も電気の
供給も切断し、救急車や緊急援助車両や医療チームがキャンプに入るのを阻止した。
(ヨルダン大使からのアナン国連事務総長への)報告書には、虐殺を生き延びた目撃
者で負傷者の証言と、殉教者の親戚や友人たち、難民キャンプの住人たち、救援に駆け
つけたボランティア、ジャーナリストの証言が含まれている。
あるグループの死(見出し)
難民キャンプ出身者はいまでも7人の若者がある家の部屋に隠れていた話をしている。
恐怖と不安の空気が漂う中、一人の男性が外に出て様子を見てから部屋に戻った。しか
し、キャンプ上空を飛ぶアパッチ・ヘリコプターがその場所を見つけだし、ミサイルを
一発発射した。その部屋は吹き飛び、7人全員が殺害された。家はキャンプの中心部に
あったので、その後5日間誰も近寄ることなく、遺体はそのままだった。人々がその家
に近づくことができたときには、恐ろしい光景があった。遺体はバラバラで焼けこげ、
肉片からは腐る臭いが漂っていた。
殉教者ジャマル(見出し)
ジャマルは40歳くらいの若者で太り気味だった。イスラエル軍の命令で家を出た時、
ジャマルは薬の入った袋を持っていた。ズボンを脱ぎ始めたとき、チャックが途中で引
っかかり、それを兵士たちは攻撃のジェスチャーを思い、ジャマルに発砲した。彼は殺
され、隣りにいた5歳の少年に血が吹き飛んだ。
殉教者アブ・シバとムハマッド・ムヒド(見出し)
イスラエル軍のブルドーザーと切削機がハワシン地区の破壊を開始したとき、兵士た
ちは彼(アブ・シバ80歳)の家を破壊し、子どもたちを逮捕した。アブ・シバが家にい
ることは無視して、イスラエル軍は家の破壊を進め、アブ・シバは家の下敷きになって
死んだ。
ムハマッド・ムヒドは知的障害で、汚れた身なりと身体のぎこちない動きからも明ら
かだった。彼はいつも通りをさまよい歩き、通りすがりの人から物乞いをする習慣だっ
た。イスラエル軍は何の脅威にもならない彼を撃ち殺した。
目撃者の証言(見出し)
多くの新聞がイスラエル軍の包囲攻撃が終了してから、キャンプの住民のインタビュ
ーを掲載した。生存者による包囲攻撃、砲撃と殺害の詳細を聞き、キャンプに入った報
道陣はショックを受けた。
キャンプの住民たちは細かに説明した。イスラエル軍が逮捕した者をどのような扱い
で尊厳を奪い、何日も手錠をかけ下着姿で土の上で眠らせた。水とパンが一日一回だけ
配給された。鉄のポットに尿をするときでさえ、懇願することを強要された。兵士たち
とシャバック(秘密警察)の捜査員たち、イスラエル総合安全保障サービスは非人間的な扱
いをした。疑いの晴れたものは最終的には解放され、大半の者が釈放された。
殉教者ナセール・アブ・ハタブの妻の証言(見出し)
イスラエル軍が家のドアをノックしたので、夫は開けようと急ぎました。とんでもな
いことがその瞬間に起きました。兵士たちは夫の首をつかんで、すぐに彼を撃ち始めた
のです。夫は兵士を待たせることもしなかったし、あらがうこともなく兵士の命令に従
っただけでした。
夫は床に崩れ落ち、血で覆われた。私は恐ろしくなって泣き叫びました。兵士たちは
銃口を私に向け、「黙れ、黙れ」と叫びました。それから私と子どもたちを一つの部屋に
閉じこめました。私は病院と赤三日月社に電話し、夫の命を救ってくれるように頼みまし
た。しかし、イスラエル軍は救急部隊が私の家に来る許可を出しませんでした。
軍は私と子どもたちを夫の遺体のある部屋に閉じこめ、小さな庭に埋めることさえ禁
止したのです。殺戮行為を目の当たりにし、父親を助けることもできず、埋葬もできな
かった子どもたちにとって、これから一体どのような人生と未来があるというのでしょ
うか。遺体は一週間埋葬できませんでした。
ハインド・アウェイス婦人の家に侵入した部隊は、全員に家を出るように命令した。
外では戦闘が続き、彼女は子どもたちにはどこにも行くところがないと拒否した。部隊
は上の二つの階を占領し、翌日、一階も明け渡すように迫った。アウェイス婦人はリポ
ーターたちにこう話した。「兵士のひとりが1歳半の甥のラテブを捕まえ、腕ではさみ、
銃口を額に向け、もし出ていかないならこの子を撃つ、とアラビア語で脅迫した。それ
で私たちは家を出るしかなかった。
このほか、国連報告書はジャーナリストや外国人ボランティアの証言を掲載しています。
これまでに引用したのは国連報告書の一部です。報告書にはイスラエル側の言い分も引用しています。それでもこの報告書を見て「むごたらしく殺された人はいない」のかどうか、「虐殺はなかった」と言えるのかどうか判断をお願いします。
4 私たちの証言
ここに私たちの取材の結果を報告します。ここにあげた被害者はすべて民間人です。
広河隆一取材の証言
アハメド・モハメド・ハリル・アブファラジ(70歳)。
妹のユスラは私たちと一緒に避難することを拒んだ。私は、彼女は年をとっているし、ぼけているから危害を加えられる心配はないと考えた。ところが、占領から5日後、イ
スラエル兵が来て、家に死体がある、と言った。そこで私は姉の死体を見つけた。ヘリコプターからのミサイルで撃ち殺された彼女の遺体は、5日間放置されていたのだった。
近所の住人の話によれば、姉の家の近くでは戦闘はなかったという。これは、イスラエル軍の無差別攻撃によるものだと思う。
ハラ・モハンメド・アル=ロマラト(32歳)。
息子のハニは、占領の最初の日に殺されました。祖母の家からの帰り道だったのですが、イスラエル兵が難民キャンプに侵入しようとしている事を伝えようとしていたんです。
息子が家に戻って5分後、近所の女性が助けを求めて叫びました。誰かがヘリコプターのロケット弾で、負傷したのです。それで息子が手助けしようとドアを開けて、一歩足を踏み出した瞬間でした。息子は撃たれました。イスラエル兵がモスクから狙っていたのです。息子は即死でした。15分後、救急車が来て病院に連れて行きました。
2日後の金曜日、イスラエル兵は、私たちの家をロケットで攻撃してきました。私たちがいた寝室の隣りが攻撃されたので、より安全な台所へ逃げました。そうしたら今度は私たちの家と隣りの家の間で爆弾が炸裂したので、私たちはまた寝室に舞い戻りました。
そして、何時間か後に静寂が訪れました。夫は「まだ不発弾があるかもしれない。安全かどうか確認してくる」と言って、居間に行こうとしました。危険を感じたので、私は彼を止めようとしました。しかし、彼は少しためらった後、居間に向かいました。3分後、私を呼ぶ彼の声が聞こえました。行ってみると、そこにはひどく怪我をした彼の姿がありました。
私は「何が起こったの?」と聞きましたが、彼自身何が起こったのか分からない様子でした。彼は私を見つめました。その目はまるで「死んでしまう、何とかして助けてくれ」と訴えかけているようでした。私はどうしたら良いのかわかりませんでした。そして数分後に彼は息を引き取ったのです。
私たちは彼の遺体と7日間過ごしました。その間、救急車は来てくれなかったのです。病院に何度も頼みましたが、答はきまって「イスラエル兵がキャンプを封鎖して、誰も入れさせてくれない」でした。結局、救急車が来たのは7日後でした。
ルファイデ・ファトヒ・アブドラ・ジャマル(35歳)。
私の妹ファドワは看護婦をしていましたが、イスラエル軍が再占領しはじめたと聞いて、ジェニン難民キャンプの私の家に助けに来ていたのです。
占領が始まって数日後、大勢の人が「医者を呼べ!」と叫んでいるのが聞こえました。民間人男性が負傷したのです。
妹は助けに行こうとしました。私の夫は、それを許しませんでしたが、妹はどうしても行くと言いはりました。彼女は看護服に着替え、お祈りを済ませました。私は妹と一緒に行く決意をし、二人で出かけました。
家を離れ、少し行ったところで、負傷者はどこにいるか尋ねました。その時、私は脚を撃たれました。イスラエル兵がモスクの上から狙っていたのです。ファドワが私のところに駆け寄った瞬間、彼女も撃たれました。同じ場所からの発砲でした。彼らは私たちに向かって発砲を続けました。私はもう一発銃弾を受け、ファドワは撃ち殺されてしまいました。
周りの民間人は私たちを助け出そうとしましたが、私は近づかないよう叫びました。彼らが次の標的になる事は分かっていましたから。私は救急車を呼ぶように頼みました。
そしてそこにいては危険だったので、家に向かって這っていきました。何とか家のドアまでたどり着いた時、夫は私を中へ引っ張ってくれました。その数秒後、イスラエルのヘリコプターが来て、ロケットで、家の入り口を攻撃しました。私は運良く死を免れたのです。20分後に救急車が来て、妹と私は病院へ運ばれました。彼女はすでに手遅れでした。ファドワは仕事中にイスラエル兵によって殺された最初の看護婦になりました。
ラジャ・ムスタファ・アブ・エイタフ(72歳)
イスラエル軍がキャンプを占領したとき、私は、27人の家族と家にいました。占領後、数時間してアハメドという老人が隣りの家のドアを強く叩いているのが聞こえました。彼は、その家の親戚のものでした。しかし、その家のものが出払っている事を伝えると、彼は泣き叫びました。イスラエル軍が、彼の家を破壊したのです。私たちは彼を家に招き入れ、落ちつかせようとしました。
その後、ロケット弾が家の3階に命中しました。私の家族は、キャンプの中は危険なので、外に出ることにしました。しかし、私はアハメドと共にこの家に残る事にしました。
彼は90才を過ぎていました。彼は家を破壊されて怒り悲しんでいました。5時半にお祈りをすると、家の中で爆発音がしました。中に入るとアハメドが流れ弾で足を怪我していました。そして、イスラエル兵が侵入してきて、アハメドは何度も頭を撃ちぬかれてしまいました。彼らは次に私に向かって爆裂弾を投げつけ、私の耳はしばらく聞こえなくなり、強く、赤いせん光が走りました。
その後私は捕虜となり、彼らが家々を捜索する際の「人間の盾」として使われました。捜索は何日も続けられ、彼らが家々を捜索中、私は椅子に縛られました。そして、その間、水も食料も一切口にする事はできませんでした。
彼らは、私の家を捜索中も私を椅子に縛り、アハメドの遺体も椅子に縛り付けて、私の目の前に置いたのです。私はその光景を決して忘れません。
私の命は、彼らがそう望めば、いつでも終わりを迎えるところでした。背中には、マシンガンの銃口が向けられていました。
想像してみてください。私がどんな心境だったかを。私は決して忘れません。長年働き詰めで、やっと手に入れた家が壊された瞬間を。破壊の瞬間と通りに散らばる多くの死体を。私は奇跡によって私の命を救った神に感謝しました。
数日後、私の疲労は極限に達し、歩く事もできなくなっていたので、もう捕虜として続けられない事を伝えますと、イスラエル兵は私を家に戻しました。その後、もう一人の男が、私の家に連れてこられ、合計3人の老人が私の家にいる事となりました。二人は生きたまま、一人は死体として。
見張りが時々私たちのもとを離れるのを知り、私たちはその場から脱出する事にしました。そしてもう一人の老人と共に、注意深く、友人の家に向かって脱出したのです。そして友人のもとで少し休んだ後に、家族の様子を知ろうとして赤三日月社に問い合わせをしました。そして数日後、私の家族は無事に過ごしていると、伝え聞きました。
救急車がアハメドの死体を取りに来たのは、死後5日してからでした。
マハムード・アリ・ハサン・ダスーキ(52歳)
イスラエル軍がキャンプを占領しようとしていると聞いたとき、私は2人の妹、弟、母を呼び「みんなで家でじっとしていよう。そうした方が安全だ」と言いました。
4月5日金曜日の3時半、イスラエル兵が家のドアを強く叩きだし、姉のアファフはドアを開けようと近づきました。その瞬間、イスラエル兵はドアを爆破したのです。彼女は即死しました。しかしイスラエル兵はそれだけでは不十分だとばかり、横たわった彼女の体を銃撃し始めました。彼女の死を完全なものにするかのように。
イスラエル兵が去った後、私たちは入り口に走っていきました。そこには、銃弾でズタズタになったアファフの姿がありました。私は「救急車を呼べ!」と叫びましたが、誰も答えてくれません。私は彼女の遺体と一週間を過ごし、イスラエル兵が、買い物のための外出を許した時に、密かに遺体を病院へ運んだのです。
土井敏邦取材の証言
(医療妨害)
サラハ・アムマール(38)
「パレスチナ人の武装青年たちとイスラエル軍との激しい戦闘のさなか、17歳くらいの青年がアパッチ(武装ヘリコプター)に撃たれました。青年は病院へ連れていくために私たちのところへ運ばれてきました。私たちは父の家から通りに出て、狙撃兵が待機している場所まできました。狙撃兵は叫びはじめ、私たちを追い返そうとして足を狙って撃ってきました。私たちのところから25−35メートルくらい離れた病院にどうにかして連れていくために、私たちは負傷したその青年を連れて帰り、別の道を通りました。青年が危険な状態だったからです。しかしそこには戦車が配置されていたために、私たちはまた引き返さざるをえませんでした。また引き返したのですが、治療を受けられなかったために5時間後にその青年は亡くなりました」(5月16日証言)
イマード・カーセム(30)
「もし負傷者が病院にいけたら、または救急車がくれば、だれも行きたくないとは言いません。治療を拒否するなどありえないことです。救急車はキャンプに入ることはできませんでした。イスラエル兵が許さなかったからです。救急車が銃撃の標的にされたのです。救急車の乗務員も標的にされました。
キャンプはたくさんの戦車であらゆる方向から封鎖されてしまいました。戦車はキャンプの入り口にいて、車が中に入れないようにしました。キャンプ全体に外出禁止令が出されました。住民すべてが銃撃の標的にされました。救急車の乗務員さえ標的にされたのです。赤三日月社のマネージャーであるハリール・スレーマン医師も殺されました。救急車の乗務員が主に標的にされました。イスラエル軍は彼らが動き、負傷者を運びだすことを嫌ったからです。救急車の乗務員はとても苦労をしました。とりわけ負傷者を運び出したり治療のためにキャンプに入るときにです。彼らが車や歩いて立ち入り禁止地区の指定を破ってキャンプに入ろうとするとき、逮捕される危険もありました。ときどき救急隊員が制服を着てキャンプに入ろうとして、兵士に逮捕され、サーレム強制収容所に連行されました」(5月19日証言)
(虐殺)
マフムード・ファイード(70)
「アブナーシェ家へ着くと、私は妻に息子はどうしたのかと訊いた。妻が、息子は死んだと答えました。ブルドーザーが家を破壊し、瓦礫の下敷きになったと言うのです。妻たちは兵士たちに『身障者の息子がいる』と訴え、『息子を家の外に出すから』と言いました。すると兵士が『男はここで待て。女性4人は(連れに)行ってもいい』と答えました。それで女性たちが家に行きました。私たちの隣人の娘も行きました。女性たちは息子の近くまで行ったのです。崩れた屋根が隙間をつくり、息子は石と砂をかぶっていただけでした。
女性によれば、息子は口をきいたと言うのです。息子はしゃべらないのです。息子は2言、3言しゃべったというのです。『ヤッラー(神様)、ヤッラー』と。そう息子と話した少女が私にそう言いました。そのあと、ブルドーザーの運転手が瓦礫を動かしはじめ、息子のいる場所に置こうとしました。それで女性たちは他の家に逃げ込みました。ブルドーザーが息子のいる部屋を壊し始めました。
その後、私たちは息子を探し回った。しかし、見つかりませんでした。瓦礫にずたずたに切れ裂かれ、肉片になってしまったからです。遺体はみつからなかったのです。近所の人たちが私に息子は死んだと言いました」(5月19日証言)
イマード・カーセム(30)
「兵士が住民にスピーカーで『裸で外に出て降伏しろ』と叫びました。そのとき隣人のアル・サッバーブが出ていきました。すると兵士が道で彼を殺しました。彼は裸でした。彼の名前はカマール・アル・サッバーブです。その後、戦車がその遺体をひき潰し、道のようにしました。住民がその遺体を回収しようとやってきたとき、遺体のあったところには残っていたのは小さな肉片だけでした。遺体は粉々になり、もし人々が殺されるところを見ていなかったら、それが誰の遺体がわからなかったでしょう」(5月19日証言)
フェダ・ホサリ(28)
「あそこで12人が射殺されました。青年たちの家がミサイルで攻撃され、生きたまま
瓦礫の下敷きになってしまいました。生き残った者は裸にされ、射殺されました。武装青
年は捕まってすぐ殺されました。降伏し武器を持たない若者も射殺されました。彼らはテ
ロリストで武器を持っていたといいますが、その青年たちは武器などまったく持ってはい
なかったのです。射殺した後、イスラエル軍はその遺体を瓦礫の下に埋めました。その犯
罪の跡を誰にも見せないためです」(4月22日証言)
古居みずえ取材の証言
アブドゥルカリム・サーディ(28歳)とワダ・シャラビィ(37歳)とワダの父親3人は4月6日、イスラエル軍兵士に呼び出され、家の壁のそばで立たされた。このとき1人だけ生き残ったワダの父親は
「彼らは私たちにシャツをたくしあげるように命令した。アブドゥルカリムは日頃から背骨の痛みがあり、医療コルセットを巻いていた。イスラエル兵士たちは爆弾を巻いたベルトと思い込み、銃弾を何発も撃ちこんだ。3人とも倒れ込み、私は飛び散った血で血まみれだった。兵士たちは私が死んだものと思い立ち去った」
アブドゥルカリムの妻は妊娠4ヶ月で、ワダは6人の子どもの父親だった。
亀山亮取材の証言(4月25日)
アッルー(73歳)、キャンプの病院にて。
彼は2人の嫁を持ち12人家族で1つの家に住んでいた。彼らが寝ていた12時ごろイスラエル軍が、学校に集まれと言ってきた。彼は安全を確認するために家族を残し、一人で学校に行き、住民が集まっているのを確認すると、家に戻り家族を呼ぼうとした。
しかし家に戻ろうとした時、イスラエル軍のスナイパーに右手を撃たれた。そしてイスラエル兵は、立ち上がらないと殺すぞと脅した。そしてすぐに、右足をまた撃たれた。彼は、起き上がろうとしたが起き上がれず、這いながら道を、進んでいった。その間に7人のイスラエル兵にすれ違った。彼らは司令部に行き、上官の命令に従えと彼に命令し、彼は這いながらイスラエル軍の戦車の前にたどり着いた。そこで長い時間、置き去りにされ。
最後に、兵隊が、彼に病院に行けといった。
そして彼は病院まで這っていった。
彼は4月25日現在、家族が生きているのか、死んでいるのかもわからず。入院している。
ここにあげたのは私たちの会員であるジャーナリストが取材したもののごく一部です。ジェニン難民キャンプは、恐ろしい世界でした。しかし私たちジャーナリストがいないキャンプで、住民たちはどれほどの恐怖にさいなまれていたか、想像も出来ません。私たちは自爆テロに恐怖するイスラエルの市民の気持ちをないがしろにするわけではありません。しかしジェニン難民キャンプで行なわれたことについて、ジャーナリストとして、見て見ぬふりをするわけにはいきません。私たちは私たちの仕事に誇りを持っています。そして犠牲者について、あたかも無かったことにするのではなく、正当に報告することを私たちの使命だと思っています。
国連の報告も非常に不完全なものでしたが、それを報道する日本のメディアも、こうした人々に対する配慮があまりにも欠如していたのではないでしょうか。
さらに国連報告は、この一連のイスラエル側の軍事行動について、ジェニン難民キャンプに関わらず、全体的な被害や人権侵害について多くの報告を行なっています。特に「2000年9月以来暴力行為が増し、2002年5月7日までに441人のイスラエル人、1539人のパレスチナ人が亡くなった」という報告は、ジェニンだけでなく、状況の深刻な実態を伝えています。
しかし私たち日本ビジュアル・ジャーナリスト協会は、当会員の多数がジェニン難民キャンプを取材したこともあり、今回のジェニンの「虐殺疑惑」についてのマスメディアの報道姿勢、記事の扱い、言葉使い、見だしなどについて、大きな疑問と懸念を感じたものです。そのためこの問題に特定した声明文をお送りすることになりました。
ご考慮いただければ幸いです。
2002年8月10日
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会 世話人代表 広河隆一
090−6101−6113