「日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)設立記念報告会 ―― 5人のジャーナリストの見たパレスチナ ――」 に参加して |
7月29日夜、東京ウィメンズプラザホールにて、タイトルに記した名称の報告会があり、友人から紹介を受けて参加しました。私は、このフォト・ジャーナリスト、ビデオ・ジャーナリストの世界は全くの素人で、報告会の様子をうまくレポートできる自信はありませんが、大変感動的なものであったので寄稿することにしました。
舞台中央には大きなスクリーンが用意され、5人のジャーナリストがそれぞれパレスチナの地で撮影してきたフォトやビデオを映し、それを説明しながらビジュアル・ジャーナリストとしての自らの考えを語るという形で会は進められました。
メイン・プログラムに入る前に、広河隆一さんからこの会の趣旨説明がありました。キャパの「倒れゆく兵士」の写真を映しながら、広河さんは、この人為的に造られた写真が当時のファシズム対自由主義の戦い(スペイン戦線)において大きな衝撃を与えたこと、そこからわれわれは何を学ぶべきかと問いかけ、いまフォト・ジャーナリストが要求される写真だけをとるようになり、さらには自ら自主規制するというような事態になっていることに強い危機感を表明されました。そして、自分たちが、自立したジャーナリストとして、人々の知る権利、生きる権利、幸福を求める権利にしっかり根ざし、なかでも「知る権利」を代行していくのだという自覚こそが必要だと話されました。
5人のジャーナリストの最初は、古居みずえさんで、これまでイスラエル占領下に生きるパレスチナの人々、特に女性たちの生きざま、イスラム社会に生きる女性たちの生活を取り続けてこられましたが、そのなかで、親姉妹の強い反対を押しきってこれまでの古い結婚式の因習をすてて生きていくパレスチナ難民の女性をテーマにしたものなどビデオ2本が紹介されました。そして「何度も何度もやられてもやられても立ち上がるパレスチナの人々」に魅せられると話しておられました。
続いて、亀山亮さんはパレスチナを撮りはじめてからまだ日が浅いということですが、イスラエル兵のゴム弾で片目を失明したということでした。ジェニン・キャンプなどの惨状の印象深いモノクロ写真を、写真には説明は余計だと言いながらトツトツと紹介されました。
また、村田信一さんは、パレスチナの人々の沢山のカラー写真をつぎつぎ映しながら、パレスチナの人々の戦いを話され、「私の知る限りでは、よく言う過激派などは存在しない、---------パレスチナの人々は大なり小なり彼らを支持しているし、誇りに思っている」「自爆テロについて多くの非難がある、しかし嫌がらせをされ、職を奪われ、住むところを奪われ、何もかも奪われ、自爆テロ以外に何ができるのでしょうか、自分もそこにいればやるだろう」と話されていました。
土井敏邦さんは、ジェニンの虐殺があった1週間後に現地に入られ、目の当たり見た光景をビデオに撮られ紹介されました。そして話の中で、かつてを振りかえり、悲惨な光景をみたとき「これをなんとしても伝えなくちゃ!」と取り組んできたが、その後要領が良くなってくると適当にうまくやっていくことが知らず知らずのうちに身についてしまう、そんなあるとき土居さんと話して横っ面を殴られた思いがした、お金など何とか生活がしていければいい、お金などなくても高い志が大切だということを学んだ、ということも紹介されました。
最後に、広河さんは、パレスチナの人々が平和に住んでいた村がイスラエル人によって消され、難民キャンプに追い出されて行ったことについて、「消えた村」とその「家族」の現在を、モノクロ写真で追っていたものが紹介されました。10月に刊行予定である、パレスチナ取材の集大成とも言える写真集「パレスチナ消えた村と家族」の一部であろうと思われます。そして、続けて広河さんから、冒頭での本日の報告会趣旨の説明に追加する形で、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)設立趣意について話がありました(添付文書)。また今後の予定として、JVJA開設記念展「私の心の写真」を9月27日から開催するそうです。
その後15分ほど質疑応答があり、そのなかでは、「暴力の応酬と伝えられているが、これは本質を伝えていない。なぜそこまで追いこまれているのかまで伝えなければならない。同時に、イスラエル人の恐怖感もまた伝えなければならないと思う」「自分たちの身の危険について話すのは気恥ずかしい。なぜなら私たちはそこに入っていっているもの。撮ろうとしているパレスチナの人々こそ危険にさらされている。------そのパレスチナの人たちと後ろの伝えようとしている人たちがつながっているという信頼感なしには怖くてできない」「日本のジャーナリズムの限界を打ち破っていきたい」等などの話がありました。
250名の座席が満杯になるほどの盛況で、5人のジャーナリストの勇気と信念ある取材活動への惜しみない拍手と、これからのJVJAの成功・活躍への期待に満ち溢れて、報告会は終了しました。
2002年7月30日
ピースニュース(東京)
『設立趣意書』
エルサレムで何人かのフォト・ジャーナリストとビデオ・ジャーナリストが、ジャーナリズムのおかれている状況について話し合う機会があった。
最近のパレスチナの取材は、ジャーナリストと軍の間で、新たな緊張を生みだした。ジェニン難民キャンプの取材で、ロイターのフォト・ジャーナリストは、軍に逮捕され、目隠しされ、手錠をはめられ、22時間後に釈放されるまで、水一滴も与えられなかった。AFPのジャーナリストもへブロンで逮捕され、目隠しされ、連れ去られた。
2月から4月までの戦争で、イタリア人ジャーナリストが射殺され、フランス人ジャーナリストが首を撃ち抜かれている。プレスカードを取られたものは多い。パスポートを破られた者、強制退去させられた者もいる。
もちろんパレスチナだけでなく、あらゆる戦争の現場では、真実を報道しようとするジャーナリストと、それを隠そうとする軍や政府の間で緊張関係が生じる。
しかしベトナム戦争以降の湾岸戦争、アフガン戦争などでも、諸国家によるジャーナリストへの締め付けが、従来にも増して大きくなり、取材と報道の権利と義務を守るのが大変になっている。特にフリーランスは取材を続けることが困難だし、拘束されても保護されることが少ない。
こうしたときに微力でもジャーナリストとしての仕事を守るための横のつながりが欲しいと思ったことが、今回の協会設立の第一の理由になっている。
しかし現在、単に国家や軍だけでなく、ジャーナリスト側の姿勢にも反省すべき点が多い。
とにかく前に出て撮影することだけを目的として、現地の情勢の理解にはほとんど興味を示さないフォト・ジャーナリスト、ビデオ・ジャーナリストが非常に多い。
かつてマグナムが設立された時、中心となったフォト・ジャーナリストたちは、写真のことなどまったく話をせず、世界の状況について論議を続けたという。
問題をはらんだ場所に行くからには、その取材と報告において、問題への真摯な理解が要求され、ジャーナリストとしての資質や責任が問われるのは当然だ。
ところが、活字による報道分野では多くの団体があり、ジャーナリストの責任や義務を問う団体も多いのに比べて、写真やビデオ分野のジャーナリストには、そうした団体は非常に少ない。企業内では、写真と記事は分業にされ、様々な配慮は記者、編集者、ディレクターの責任になり、カメラマンは言われるとおりに撮影すればよいという場合が多い。
こうした事情で、世界中でカメラマンの地位が低いということになる。
エルサレムで話し合った人間の間で、何のためのジャーナリストか何のために取材し、報告するのか、何を守るのか、というような点で基本的な考えが共通しているグループの設立を目ざしたいという声があがった。
時代ははるかに複雑で危険になっている。そこで状況がはらむ問題に対して深い理解と謙虚さをもち、その問題に押しつぶされる人権を守ろうとする姿勢をもち、それを伝えることを義務と考えるフォト・ジャーナリストとビデオ・ジャーナリストが、お互いの仕事を報告し合い、批判し合い、鍛え合うグループがほしいと話されたのである。
フォト・ジャーナリストにしろビデオ・ジャーナリストにしろ、ジャーナリストの仕事は、人々の知る権利に根ざすという認識が必要である。それは人々の、生命と健康と幸福とを守る権利に根ざす。
こうしてすべての問題の背景にある、歴史と、社会的責任をまっすぐに見つめていこうとする姿勢、差別に対する毅然とした姿勢が必要になる。
報道によって、守らなければならないものを守ることは、ジャーナリストの責任になり、それを守ることと、権力に対して表現の自由を守ることは同じになる。
こうしたことを目指すフォト・ジャーナリストと、ビデオ・ジャーナリストの集まりをもちたいと願っている。
実績のあるフォト・ジャーナリストとビデオ・ジャーナリストで、上に書いた趣旨に共感する人に、仲間としての参加を呼びかけたい。
ただし誤解のないように言いたいが、これは現場で写真を撮ることに目的を置く人々の、情報交換の団体ではない。エージェントでもない。ジャーナリストとしての志を大切に守っていきたいと考える人で、意見交換が必要と考える人々の集まりにしたい。
共同の報告会をしたり、会員が拘束された場合など、すみやかに抗議の手紙を出せるような、フットワークの軽さを維持していきたいと思う。そして今、日本で進行している、表現の自由に対する、かつてない締めつけに対しても、きちんと対処できるような集まりになればいいと思っている。
2002年6月6日
設立世話人
広河隆一(代表)
古居みずえ
土井敏邦