シリーズ<安倍の教基法改悪と反動的「教育改革」>その5
デマゴギーと詭弁による子どもたちの洗脳
−−NHK番組が明らかにした「愛国心」授業の危険−−


[1]はじめに−−極右石原都政の下で進む教基法改悪先取り=愛国心教育

(1)石原都知事、いじめ自殺に苦しむ子どもたちに暴言−−「やるならさっさとやれっていうの」
 11月14日、NHK「クローズアップ現代」は『愛国心って何ですか〜揺れる学校現場』と題し、子どもたちの素直な声を封じ込めひたすら「日本はすばらしい」と愛国心を教える道徳授業の様子などを取材した番組を放送した。また、22日には、『地域の学校が消えていく?〜学校選択制の波紋〜』として、学校選択制が導入さたことによって入学者数がゼロとなる学校が出るなど矛盾が噴出している東京都の小・中学校をとりあげている。2つの番組が対象としたのは、「愛国心教育」と「格差教育」という教基法改悪の狙いの根幹とも言うべきものである。そしてそれは、極右石原都政の東京都で、教基法改悪をいわば先取りする形で進められている教育現場の恐るべき実状なのである。
 石原都知事は、11月半ば、いじめ自殺予告の手紙が送られるなど事態がますます深刻化する中で、「一生どこへ行ってもいじめられる」「予告して自殺するバカはいない、やるならさっさとやれっていうの」などと信じがたい暴言を吐いた。東京都でいったいどこまで「いじめ問題」が深刻化しているか、その実態はどうなのか。彼に、解決に向けた真剣な姿勢は全くない。それどころか、いじめを隠蔽し放置するだけでは事足りず、今まさに苦しんでいる子どもたちに罵声を浴びせかけたのだ。子どもたちを破局に追いつめるこの暴言と「愛国心教育」「格差・切り捨て教育」は、子どもたちの豊かな成長を圧殺し、弱者を切り捨てていくという深い点で同根のものである。
※自殺予告:大人によるいたずらの可能性?石原知事が見解(毎日新聞)
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061111k0000m040066000c.html

(2)NHKの番組が示した愛国心教育の2つの実践例−−「露骨な押しつけ愛国心教育」か「マイルドで自然な愛国心教育」か
 私たちは以下で、上記の2つの番組のうち『愛国心って何ですか・・・』で明らかにされた「愛国心」授業の危険性を取り上げたい。この番組冒頭で紹介されるのは、三重県伊勢市の私立A中学校である。この学校では、授業の中で、異様な光景が日常的に展開されている。週初めの朝礼では、伊勢神宮に向かって生徒全員が「神宮遙拝」を行う。授業では「教育勅語」の書写が行われ、生徒は「朕惟フニ・・・」と暗誦してみせる。校長は、「愛国心」が教育基本法に盛り込まれることを歓迎している。もちろんこうした例は、今のところ、一部の極右的な私立校に限られている。番組ではもうひとつの私立校B学院を映し出す。この学校では日本国憲法と教育基本法を重視した授業を行い、教員は教基法改悪によって国の介入が強化されることに強い危機感を表明する。校長は「真の愛国心とは他国の福祉と平和に配慮すること。愛国心愛国心といいながら、自分のことしか考えず、他の国を見下すことがあってはならない」と政府の愛国心を批判する。

 そして番組は最大の見所に移る。東京の公立小学校での「愛国心教育」の模範授業である。番組では、2つの愛国心授業が紹介される。一つ目は、女性教諭が「日本には四季があるから美しい」と教え込み、最後にはほとんどの子どもたちが「日本はすばらしい」「日本に生まれて良かった」などと感想を書くまでに感性や意識を変えさせられていく。以下では、このケースを中心に批判する。
 もう一つの授業は、愛国心教育がもっと巧妙な形で浸透する危険を映し出している。男性教諭が、日本の伝統として「箸」の使い方を通じて先人の心や考えを知るという授業実践である。この教諭は、愛国心の「押しつけ」には「反対」である。従って、「先生は箸の伝統を教えるだけであって、それを大切にするかしないかは君たちの自由だ」と、授業の最後に語る。しかし、それは結局のところ「愛国心は押しつけではなく、自然に生まれてくるもの」という政府答弁を代弁しているにすぎない。「国を愛する心」が自然に生み出されるような、真綿で首を絞めるような愛国心授業こそが必要だと言うのである。
 この2つの授業は、現在の東京都の教育実践の実例である。しかし、教基法改悪が通ってしまえば、全国各地の教員は文部科学省−教育委員会−校長という上意下達の教育行政の命令系統を通じて、愛国心授業をやるよう強制される。それに抵抗すれば、東京都のように「不適格教師」「指導力不足教師」として、あるいは教員評価=賃下げを恫喝の材料にして、徹底的に締め上げられる。教員は、以下に紹介するようなデマゴギーや詭弁を平気で駆使するような、科学的知識も知性もない、ただ文部科学省が奨励する「模範例」におもねる国家(自民党や右翼勢力)の下僕と化していく。一方、子どもたちや保護者の方も、内申書や評価という“武器”を持つ下僕化した教員によって高圧的に愛国心を持つよう強制される。
 「露骨な押しつけ愛国心教育」か「マイルドで自然な愛国心教育」か−−番組は、教基法改悪後の学校現場の恐ろしい姿を映し出している。


(3)マス・メディアによる教育基本法の本質論、教基法反対運動の完全な無視、教基法通過に向けた世論誘導
 このNHKの番組がどのような経緯で、衆議院特別委員会で教基法改悪法案が強行採決された11月14日に放送されたのか、私たちは知ることはできない。ただ言えることは、最初は賛否両論を併記する形をとりながら、愛国心教育への反対を国谷キャスターは「アレルギー」と歪曲し、愛国心教育の2つの事例を紹介した後、担当記者が政府公報のような発言を行い、最終的には改悪法案の成立を前提とした上で「教育現場での混乱を避けるためにきちんとした具体的指針を示し対処すべき」という終わり方となる。改悪案の本質的な内容への批判的な観点が番組からは欠落していた。
 NHKに限らない。メディア全体における教基法改悪法案に関する報道は極めて小さく、また大きくゆがめられている。全てのマスコミで、教基法の衆院強行採決は完全に無視された。反対運動の紹介もほとんどない。11月12日の8000人の全国集会や連日の国会前座り込み、そして16日衆院本会議強行採決当日の5000人を越えるヒューマンチェーンなど大規模な反対行動は黙殺された。まさに教基法改悪が今国会最大の政治的焦点になっており、政府と反対運動との激しいせめぎ合いの中にあることを国民が知らされないようにし向けられているのだ。挙げ句の果ては、反対しても無駄と言わんばかりに、「教基法衆院通過へ」「教基法参院通過へ」と垂れ流し続けている。
 その一方で、「タウンミーティング」のやらせ問題の追及はないに等しい。いじめ自殺や高校の未履修問題の最大の責任が文部科学省にあるにもかかわらず、伊吹文部大臣のまるで他人事のような発言を何度もTV・新聞に登場させ、政府の責任は一切不問に付されている。その一方、「教育再生会議」が打ち出す学校・教員・子どもたちの競争と評価の必要性、教職員不祥事などは連日のように垂れ流されている。明らかな世論誘導である。
8000人を結集させた全国の運動の力で、強行採決阻止から廃案へ!(署名事務局)
教育基本法改悪反対 国会前集会 /日比谷野音では米軍再編反対集会(署名事務局)
 国会前集会など、闘いは今もねばり強く続けられている。

 しかし、番組が取り上げた事実そのものが見る者に語りかける。この番組で明らかにされた事実は、教基法が改悪され、愛国心教育が学校現場に持ち込まれたらどんな恐ろしいことが起こるかを明らかにしている。私たちは、愛国心教育は、ウソと詭弁によって植え込まれるものであること、子どもたちの豊かな感性を封じ込めることを条件としていること、他民族への蔑視や排外主義と一体のものであること等々、様々な危険性があることを確信した。愛国心教育は、一言で言えばデマゴギーと詭弁を使った国家権力による子どもたちの洗脳である。私たちはこの番組に現れた現に行われている愛国心授業の危険を一人でも多くの人に知らせ、教育基本法改悪反対の声を強めていくよう呼びかけたい。

2006年12月5日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局




[2]「愛国心認識の低い児童」を「愛国心認識の高い児童」へ−−子どもたちの「感性」や「認識」のねじ曲げと改造を推進

(1)「国を愛する心」を教える道徳の研修授業
 番組は、東京・C小学校で道徳の時間に「国を愛する心」を教える授業風景を映し出す。D教諭は、「あきらの自由研究」という教材を示し、常夏の国からやって来たスージーに「日本は四季があって美しい」と言われたあきら君の気持ちを、子どもたちに考えさせる。子どもたちは、「今まで考えたことなかったけど、日本は美しいんだとわかった」、「日本に生まれてよかった」となどと答える。しかしある女の子は、四季のない「スージーの国の自然も美しいのに、なぜ日本の自然だけ美しいというの?」と素朴な疑問を投げかける。それに対して、教諭は、一瞬困惑した表情を浮かべながらも、富士山の四季の写真を示す。教諭の「一年中同じ花ばっかり」という常夏の国を見下すような発言も聞こえる。そしてD教諭は「あきら君はスージーに、四季があっていいなあって言われちゃったのよ。そういわれたあきら君はどうかな」と女の子に問いかける。女の子は、「そういわれたら、四季がないのは驚きで・・・」と答える。女の子は、自分の疑問には一切答えてもらえず、あきら君の気持ちを言うように指導されてしまうのである。授業の後では、ほとんどの子どもが「四季がある日本は美しい」「日本の四季や文化を大切にしていきたいと思います」などと感想を書くようになる。
 この授業は、研修授業として他校の教員や教育委員会が大勢視察していた。授業後の研修会では、参加した教員の間から、「日本がすばらしい」という最初から結論ありきというのはいかがなものか、教諭の考えに子どもたちを誘導しているなどという異論が出される。もちろん、そのような異論も、愛国心をどう子どもたちに自然に教えるかという問題設定の枠内であることは言うまでもない。


(2)番組が報じたのは、周到に作られた愛国心教育プランのごく一部
 番組で報道されるのはここまでである。しかし、NHKは決定的に重要な事実を伝えていない。それはこの授業が、東京都において「学校教育のリーダー」を養成するための教員研究生による「カリキュラム開発・研究」の一環であり、道徳教育の研究授業であるという点である。この研究授業は、「国を愛する心を育てる道徳の時間の指導の工夫〜児童の国に関する認識をてがかりとして〜」というレポートになり、東京都教職員研修センターで堂々と愛国心教育の模範的な授業例として発表されている。
※東京都教職員研修センター 研修部 経営研修課 http://www.kyoiku-kensyu.metro.tokyo.jp/

 D教諭のプランは以下のように組み立てられている。番組が紹介したのは、Bの一部にすぎない。
@まず、国を愛する心の位置付けや関連する内容項目を明らかにする。(基礎研究)
A次に、都内5区市、小学校5校の5・6年生646人を対象に児童の国に関する認識を調査分析する。(調査研究)
B「あきらの自由研究〜日本のよさ調べ」を作成する。(資料作成)
C5・6年生70名に4回の研修授業を実施する。(授業研究)[第一回「あきらの自由研究」、第二回「世界の文化遺産」をそれぞれ5・6年生に行う。]
D授業を実施したことによるこどもの変化、変容を分析し、研究の有効性を検証する。さらに各教科等との関連を明らかにする。(まとめ)


 つまり、あらかじめ国に対する「認識」=愛国心の程度を600人以上もの児童を対象にアンケート形式で調査し、赴任校で研修授業を行い、授業の前と後での「認識」の変化を調べ、道徳の授業だけでなく、他の教科とも関連づけて強化していくというのである。これが5段階にわたる周到な計画の下に遂行されている。


(3)「心の操作」によって、子どもたちの「認識」「感性」を変えていく
 ここで言う「認識」とは、通常の学習にとって重要な知識・理解の側面だけでなく、「国に関してどのようにとらえ感じているか」という感性的な側面を重視した感性的概念である。また、知識・理解についても、「人・文化・自然とのかかわり」という視点を強調し、現実社会とはできるだけ切り離した教材を押しつける。しかし、これらを通じて狙うのは、「お国を守る」という刷り込みである。
 彼女のレポートには、「日本に対する認識が低かった児童」について、最初は「日本は平和ではない」と考えていた児童が、第一回の授業のあとで「四季を楽しめたり、伝統の技があるが、日本人は自分のことしか考えないから、本当によい国とはいえない」という感想を述べ、第二回目の授業のあとでは「日本の伝統文化は全部の人の大切な宝だから、壊さないように大事にしたい」と徐々に変わった事例が報告されている。
 しかも教諭は、子どもたちの認識を転換させ、教諭の思う方向へ誘導していくために、「要するに〜ということかな」「さっきの発言とちょった変わったみたいだけど、どうかな」など、『教育相談の心理ハンドブック』をもとに、「教育相談的手法」をとりいれていることを明らかにしている。このことだけでも、愛国心教育が、子どもの「心の操作」を目的としており、通常の授業とは全く異なっていることを示している。
※「国を愛する心を育てる道徳の時間の指導の工夫〜児童の国に関する認識をてがかりとして〜」
http://www.kyoiku-kensyu.metro.tokyo.jp/information/kenkyuhoukoku_kiyou/pdf/ka16/d-watanabe.pdf


(4)東京都の翼賛的教育行政のもとで進む子どもたちの“思想改造計画”
 授業の前提に行われたこのような大規模なアンケート調査が可能なのは、東京都教職員研修センターの全面的なバックアップがあってのことである。しかも番組では学校も教師も実名で登場する。レポートは、「平成16年東京都教育ビジョン」に示された「国際社会に生きる日本人としてのアイデンティティをはぐくむ教育」に基づき、「日本を愛する心」を育てる道徳教育の工夫を進めていくことを明言している。
 恐ろしいのは、大勢の子どもたちが、知らない内に愛国心教育の実験台に勝手にされてしまっていることである。また、「認識の低い児童」が、本人の同意もなく「追跡調査」のターゲットにされている。まるで新薬か何かの被験者の「使用前」「使用後」のように、“愛国心サンプル”に仕立て上げられているのである。こんなことは明らかに子どもに対する人権侵害ではないのか。

 番組が取り上げたのは、この全体の構想の中の「あきらの自由研究」の一コマにすぎない。NHKはこの計画の全体を正確に報道すべきだっただろう。とはいえ、その一コマからでも教師が執拗に子どもたちの意見、感性、認識を強圧的な形で修正を求める様子は伝わってくる。
 「日本は平和ではない」「本当によい国とはいえない」と児童が考えているのであれば、なぜそう思うのか、どこが日本の問題なのか、意見をよく聞き、クラスみんなで議論すべきであろう。ところがそのような意見を封殺し、一方的に「日本の良さ」を刷り込んでいるのである。
 これでは、都教委が主導し、数校にまたがる子どもたちを勝手に巻き込み、大勢の教員を動員した、子どもたちへの壮大な思想改造計画ではないか。



[3]子どもたちの素朴な疑問や異論を圧殺し、デマゴギーと詭弁で洗脳を図る

(1)「四季のある日本はすばらしい」−−詭弁によるお粗末な模範教材
 しかし、上で明らかにしたような「愛国心教育」の周到なプランと、「四季のある日本はすばらしい」という現実に行われた授業のお粗末な中身との間には大きなギャップがある。「日本には四季がある」→「四季の富士山は美しい」→「だから日本はすばらしい」というデマゴギー的な三段論法と黒板に張られた数枚の富士山の写真。これが、堂々と愛国心教育の実践例として取り上げられているのである。この授業では、それ以外のことは全く何も語られていない。・・・だから日本に生まれてよかった。こんな漫画のようなロジックがひたすら繰り返されているのである。
※確かにこれは、全体の計画の一部にすぎず、「自然」を対象とした「富士山」の段階から、「文化」や「伝統」を対象とした「高度な段階」があるのかもしれない。しかし、それも推して知るべしである。「日本の仏像は世界一美しい」「日本の古典芸能は、群を抜いている」と言うのであろう。これは、ウソとでっち上げで塗り固められた「つくる会」の教科書そっくりである。
 つくる会の歴史教科書には、「豊かな日本の自然」「弓状に連なる美しい緑の島々」という自然に関する記述に始まり、「日本文明」、「世界にも類を見ない」(法隆寺五重塔塑像の説明)、「日本人のおだやかな性格」、「江戸は・・・当時世界最大の都市」、「世界の歴史でもまれな奇跡・・・高度経済成長」等々、全く科学的根拠もないものも含め、他国に比べて日本がいかに優秀かを強調する記述があふれている。

 しかし、教諭が言う「日本には四季があるからすばらしい」という命題そのものが間違いである。−−まず、四季は日本だけのものではない。四季がはっきりと区別できる国・地域は、中緯度(30°- 50°)にあって気団の移り変わりが大きい地域である。少なくともD教諭は、これらの国々や地域全てを「美しい」「すばらしい」と教えなければならない。
−−また、四季がなかったら美しくないのか。ダメなのか。四季のない国は日本よりも劣るのか。常夏の国の珊瑚礁やエメラルドグリーンの海は、富士山よりも劣るのか。
−−D教諭が「四季がない」ときめつける常夏の低緯度の国々でも、気温が1年の周期で上下したり、雨季、乾季の違いがあることがある。季節があるのだ。D教諭は本当に一年中同じ花が咲いていることを確認したのか。高緯度の国々にある白夜は美しくないとでも言うのか。

 まるで戦前・戦中の皇国史観の時代のような、イデオローギッシュで科学的知識も知性もない、ちょっと考えるだけで破綻するようなお粗末な教材である。これが東京都の「模範授業」なのだ。情けない、いや恐ろしいの一語である。あらかじめ自分の言いたい結論を定め、多様な側面からなる事柄の中で自分に都合のいい一側面だけを全てであるかのように主張する。これは、詭弁家の典型的な手法である。
 今日では、日本だけではなく、世界中の国々や地域の自然環境や生態系の驚嘆すべき美しさや多様性をともに学び、地球そのものの脆弱性を学び、地球環境問題の大切さを学ぶことが決定的に重要である。地球温暖化で地球環境が今世紀中に破滅的な結末を迎えかねない、このような切迫した状況の中で、次世代を担う子どもたちに学んでもらいたいのは何か。まさしく「美しい日本」ではなく、「美しい地球」ではないのか。


(2)子どもの豊かな感性、素朴な疑問、素直な成長を封じ込める愛国心授業
 このような詭弁の押しつけは、子どもたちから豊かな感性を奪い、関心を切り縮め、人格形成に破壊的な悪影響を及ぼす。人の関心事は「美しいもの」だけではない。肯定的な概念に限っても「崇高なもの」「壮大なもの」「勇敢なもの」「清いもの」「偉大なもの」等々がある。そしてそれに劣らず重要な概念として「醜いもの」「卑屈なもの」「汚れたもの」「ちっぽけなもの」等々がある。さらには、「不思議なもの」や「あいまいなもの」もある。
 現実の生活や対人関係、学校教育、歴史の記述、さらには文学や芸術などを通じて子どもたちはそれらを学び取り、自分なりの善悪の基準や価値判断を身につけていく。そして社会や国に対する批判的な目を養い、独立した人格を形成していくのである。人々の生活や国、社会が美しいものだけで形成されることはあり得ない。複雑で矛盾に満ちたものである。今ある現実から目をそらし、「美しい国」であるかのように描くのは間違いである。さまざまな人間の関心事、興味ある事柄から「美しいもの」だけを切り離し、それを無理矢理「日本はすばらしい」に結びつけ、答えを強要するのは全く許し難いことである。
 とりわけ青少年期には、時には親や教師に時として反発し、家を疎ましく思い、古い価値観や世の中のあり方に対して批判的な態度をもつのは当たり前のことである。国や社会に対してはなおさらである。それはまた固定されているものではなく、複雑なものである。にもかかわらず、このような詭弁教育を押しつけることは、青少年の心身の豊かな成長を封じ込めるものである。子どもたちの心を支配するための副読本『心のノート』の具体化であり、教科化であり、全教科への拡大である。


(3)教師の特権を利用した子どもの疑問を封じ込める威圧的で重苦しい授業
 しかも、D教諭の授業は発言しにくい威圧的な雰囲気に包まれている。これが研修授業であり、テレビカメラが入っていることを割り引いても息の詰まりそうな異常に重苦しい雰囲気である。「先生、四季のある国は他にもいっぱいあるよ」「富士山はいつでも美しいよ」「アルプスやエベレストはもっときれい」「いややっぱり富士山がいいな」「おれは、冬が嫌いだから夏の方がいい」「私は年中春がいい」「東京はあまり雪が降らないから、雪国の方がいい」「でも雪かきが大変だよ」−−仮に百歩ゆずって「四季のある日本は美しい」という日本の気候的特色を勉強するにしても、このような自由な発言を許す雰囲気が全くない。四季の富士山の写真をみせて「どうだ美しいでしょう」「なぜ美しいと言えないの」という強圧的な雰囲気である。「スージーの国の自然も美しいのに、なぜ日本の自然だけ美しいというの?」という女の子の疑問に対する圧殺はその最たるものである。子どもたちにもそれが伝わるのであろう。
 「日本をすばらしいと思うかどうか」−−それが評価され、通知票に直結する事になればなおさら危険である。教師は内申書と評価の特権を持つからだ。


(4)国や自然を破壊している張本人が、「美しい国を愛せ」と言う欺瞞
 人間にとって自然は美しいだけでなく、豊かであり、また時として恐ろしく、残酷である。自然を一面的に捉えることはできない。
 日本列島は、環太平洋造山帯の一部を構成し、インドネシアやフィリピン、アリューシャン列島、さらにはアンデス山脈、ロッキー山脈などと連なっている。富士山は、太平洋の周囲を取り巻く火山列島や火山群の一つとして存在し、いつ噴火するかわからない活火山である。その様な地理的な条件から、日本列島には地震が多く、従って地震被害も多い。
 また、日本はユーラシア大陸の東の端に位置し、太平洋に面した島国であることから、温暖なモンスーン気候にある。はっきりとした四季があるが、南北に弓状に長くのびた地形をしているため、北と南での気候は大きく異なる。大雪に見舞われる東北や北陸地方がある一方、沖縄や九州の一部は亜熱帯に属する。そして台風などの被害も時として甚大である。そして、各地の習慣や動植物も多様である。日本の四季の特徴も、地域に即して具体的に問題にされなければならない。
 要するに、「四季のある日本」を教えることは、自然の多様性、つまり美しさと同時に恐ろしさを教えることであり、生態系の多様性、日本の地理的特徴などを教えることである。そして、世界中各地にある同じような地震地帯との差異と共通性を教えることであり、気候的な差異と共通性を教えることである。さらに、こうした美しくて恐ろしい日本の自然環境や生態系を人工的に破壊し押し潰そうとする者への批判と怒りを教えることである。

 だから、私たちが強く主張しなければならないのは、美しい日本を愛せと言っている者が、美しい自然を破壊し、国を破壊している張本人たちであるということである。沖縄の基地建設によるジュゴン生息地の破壊と珊瑚礁の破壊の危険、青森県六ヶ所村での再処理工場アクティブ試験による放射能の垂れ流し、諫早湾干拓事業による環境破壊と漁業破壊、くれてやりのための赤字高速道路の建設や整備新幹線の開発による自然破壊等々。これらは氷山の一角である。日本においても、地球温暖化の影響によって四季はますます感じられなくなっている。別の意味では、5年に及ぶ小泉構造改革によって、地方はますます切り捨ての対象となっている。グローバル資本の国際展開とともに地域産業は衰退、失業率は上昇し、生活は破壊され、同時に「財政再建」の名の下に医療・年金・福祉・介護など社会保障制度はことごとく改悪されている。
 このような徹底した破壊と攻撃の下で、国を愛せ、郷土を愛せとは何事か。これは、日本政府の進める反人民的な諸政策から目をそらし、愚かな大衆は「美しいもの」だけをみていればいいと言うことではないか。盗人猛々しいとはこのことである。



[4]民族排外主義・他民族蔑視を植え付け、心と態度を評価

(1)醸成される他民族蔑視と民族排外主義
 「四季がある日本は常夏の国より美しい」、つまり「常夏の国は日本に比べれば醜い」−−わざわざ日本を他国と比較させ、優位性を強調する。これで、一体何を教えようというのか。「日本に生まれて良かった」ということか。これは裏を返せば、「他の国の人はかわいそう」ということに他ならない。他国や他民族を見下し、蔑視する意識が植え付けられるのである。
 このような考え方は侵略戦争や植民地主義を正当化する思想につながる。「八紘一宇」と「大東亜共栄圏」は、虐げられたアジア民衆を皇軍と誇り高き日本民族が解放するという思想であった。過去の侵略戦争だけではない。イラク戦争は石油のための戦争であったが、大量破壊兵器の捕捉と廃棄を大義とし、フセイン独裁政権下にあるイラク民衆の解放と民主化が宣伝された。今では大量破壊兵器はでっち上げであったことがブッシュ政権自身の口から明らかにされ、またイラクは、民主化どころか内戦の瀬戸際にある。侵略戦争を開始するには心地よいフレーズに乗ったプロパガンダが不可欠なのである。

 政府は、「愛する対象となるのは、国家体制や統治機構ではなく郷土であり、そういう愛国心は軍国主義にはつながらない」と弁明する。しかし、戦前の愛国心も、決して国家を愛せといったわけではない。「万世一系の国体」、「比類無き伝統に貫かれた日本という祖国」、つまり日本の伝統と文化を愛せと言ったのである。
 また政府は、「愛国心というのは自然に日常生活の中で育まれるもの」と述べている。しかし自然に育まれるなら、なぜわざわざ教え込む必要があるのだろう?それは、教え込もうとしている愛国心は、「自然に育まれる」ような性質とは違う、国が決めた愛国心だからである。どのような態度を取れば愛国心があるということになるのか、これを決めるのは国である。「教育の内容を国が決める」というのが、教基法改悪の核心の一つなのだ。


(2)子どもの内心を通知票で評価 疑問を持つ子は孤立 
 愛国心の評価について、政府は、国会答弁などで「子どもの内心を調べて国を愛する心情を持っているかどうかを評価するのではなく、我が国の歴史と政治及び国際社会における我が国の役割に関心を持って、それを意欲的に調べるといった学習内容に対する関心、意欲、態度を総合的に評価する」としている。つまり、内心を評価するのではないといっているのである。では、「進んで調べ」た結果、日本が嫌いになった場合、その子はどうすればいいのか。
 上のような授業が行われると、「日本はよくない」と言ったり、「他の国にもいいところがある」と言うと、先生から怒られたり、悪い成績をつけられるのが分かるので、子どもたちは、自分の考えを抑えて、先生の気に入る答えを言うようになるだろう。「日本はすばらしい」と思っていなくても、そう思っているような「態度」を示すことになる。徐々にそうしていることが自然になってきて、何が本当の気持ちかわからなくなり、先生の言う通りしていることが当たり前になってくる。そんな中で、疑問を持つ子やあくまでも「四季のない国も美しい」と言い続ける子は孤立し、「変なヤツ」と奇異の目で見られるようになりかねない。

 また、「内心を評価することはない」という限定自身、「日の丸」・「君が代」を強制するものではないとされていた「国旗・国歌法」の成立後、実際には強制が著しく強まったことを考えると、とうてい信じられるものではない。「日の丸」を仰がなかったり、「君が代」を歌わなかったりした子は、叱責されたり、先生が処分されるという脅迫を受けている。態度の評価を内心の評価から切り離すことなどできない。さらに、現在でも、数百の学校で通知票に「愛国心」を評価する項目を持っていることが明らかになっている。内心を評価することは、すでに広がっているのである。


(3)子どもを取り巻く環境が悪化に目をつむり 「日本はすばらしい」を洗脳
 さらに別の重大な問題がある。私たちが、本シリーズ3『急速に進行する教育格差と底辺層の切り捨て』で明らかにしたように、子どもたちや学校教育をとりまく環境は悪化している。「日本はすばらしい」と思うかどうかは、子どもたちの考え方の問題だけでなく、生活実態の問題と深く関わる。生活保護を受ける要保護世帯や就学援助を受ける「準要保護世帯」が急増し、「子どものいる世帯」での貧困層の困窮度も増大している。学力は、「できる子」と「できない子」に二極分化し、富裕層による高等教育の独占と、低所得者層の教育からの排除がますます進行している。一人親の家庭、母子家庭の子、家庭に様々な事情を抱える子どもが増加している。多大な資産とエネルギーを子弟の教育につぎ込む富裕層がある一方で、日常的な学用品や給食、遠足、修学旅行などの費用の捻出も困難な低所得者層、貧困層が増大している。さらに子どもたちの進路についても、派遣、請負、パート、フリーターなどの非正規労働が就業形態の主要なものの一つとなり、一握りの大企業エリート正社員との格差はますます拡大している。
 要するに、子どもたちの未来が明るく開けているわけでも、従って日本が美しい訳でもない。目の前には厳しい現実がある。このような中で、特に切り捨てられ、追い込まれている立場にある子どもたちに、「日本は美しい」「すばらしい」と教えられることはどのような意味を持つか。矛盾や怒り、反発をより外へ、「劣った民族」と向ける、典型的な民族排外主義のパターンだ。
 それは教職員にしても同様である。日々様々な問題を抱える子どもたちと真剣に向き合い格闘している教職員に対して、子どもたちに日本はすばらしい、国を愛せと教えるよう強制する。このようなD教諭のプランは犯罪的でさえある。
シリーズ<安倍の教基法改悪と反動的「教育改革」>その3 急速に進行する教育格差と底辺層の切り捨て (署名事務局)




[4]「国を愛する」は「国に命を捧げる」に直結。軍隊と戦争翼賛につながる危険

(1)「美しくない」侵略戦争や植民地支配の犠牲や被害、社会的諸矛盾は教えてはならない。「美しくない」極めつけは、現行の日本国憲法!
 「日本は美しい」「日本はすばらしい」と教えるということは、「美しくないもの」は教えない、教えてはいけないと言うことである。
−−当然、侵略戦争の歴史は教えない。南京大虐殺も教えない。日本軍「慰安婦」も教えない。沖縄戦も教えない。ヒロシマ、ナガサキも教えない。植民地支配も教えない。イラク戦争への加担がどれだけ犯罪的であるかも教えない。
−−いや、それどころか、逆に、「つくる会」教科書や日本会議や右翼勢力が「美しい」と考えるものは、教えることを強制されるだろう。天照大神を皇祖神として、万世一系の天皇が統治するこのすばらしい日本を愛するよう強制されるだろう。「大東亜戦争」や「八紘一宇」、「大東亜共栄圏」、すなわち侵略戦争や植民地支配は「美しいもの」とされるだろう。「人道的戦争」「対テロ戦争」「国際貢献戦争」は礼賛の対象とされるだろう。
 要するに、教育の現場や教科書から、日本の過去の侵略戦争や植民地支配という恥部を抹殺し、いわゆる彼らの言う「自虐史観」を一掃しようとしているのである。

 それだけではない。自民党や公明党が推し進める政府与党の反人民的な政策は「美しいもの」であり、それを批判することは「美しくないもの」となるだろう。水俣も教えない。沖縄の基地被害も教えない。ハンセン病患者への誤った政策も教えない。ヒルズ族やバブルや「ニュー・リッチ」は「美しいもの」だが、「美しくない」社会的格差、地方の衰退と空洞化、生活保護の切り捨て、年金や医療や教育など社会保障の切り捨ては教えてはならない。等々。何の矛盾も反省も総括もないバラ色の日本史と現代社会である。
 極めつけは、彼らにとって「すばらしくない」現行日本国憲法、その平和主義、国民主権、基本的人権は教えてはならないということだ。まるで「つくる会」教科書、安倍首相の「美しい国」そっくりそのままである。


(2)「美しい国」の刷り込みは、「美しい国を守る」「自公政権のために命を捧げる」に直結
 行き着く先は、「美しい国」を守るため、戦争のために命を投げ出すことをいとわない若者や、国策のためには自らの犠牲も甘受する国民づくりである。自民党は新憲法草案で、9条をはじめとして現行憲法の性格そのものを変質させようとしている。新憲法案前文には「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概を持って自ら支える責務を共有し」という文言が入っている。ここでは、「国を愛する心」とそれを「支え守る責務」が一つのものとして提起されている。「日本は美しい」「美しいものは守らなければならない」「守るためには軍隊を持たなければならない」。教基法改悪も同様である。「我が国を愛するとともに」と「国際社会の平和と発展に寄与する」が同じ文脈でかかれている。偏狭な愛国心に陥ることを防ぐ規定ではない。その逆である。言われているのは戦争放棄の平和ではなく、「国際社会の平和と安全」を確保する侵略軍の活動による寄与である。国を愛するというのは、そのために自己を犠牲にするということと不可分なのである。
※教育基本法「改正」案の第二条に新設された「教育の目的」では、国民が持つべき徳目が5項目にわたって列挙され、教育の目的が現行教育基本法の「人格の完成」ではなく、子どもたちに国家に必要な徳目を与えることに変えられている。そのうちの一つが、「国を愛する態度」すなわち、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」である。
※自民党の新憲法草案 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/jiminkaikenann.htm

 「国を愛するにふさわしい態度」「国際社会の平和と発展に寄与する態度」は、「富士山は美しい」同様、極めて具体的に問題にされるだろう。抽象的な形ではなく、具体的な形で、一つ一つ踏み絵のように迫ってくるだろう。
−−イラク戦争を支持し自衛隊の派兵に賛成することは、国際社会の平和と発展に寄与する態度なのか。
−−沖縄の基地移設を受け入れることが、国を愛する態度としてふさわしいか。
−−靖国神社に参拝することが、国を愛する態度としてふさわしいか。
−−日の丸・君が代で起立、斉唱しないことは、国を愛する態度としてふさわしくないか。等々。
 日本政府によって、侵略戦争への加担が「国際貢献」とすり替えられて宣伝されている状況の下で、「国際社会の平和と発展に寄与する態度」が、学校現場でどのように解釈されて評価されていくのか、これは極めて現実的な危険である。

 「ものごとを複雑なものから簡潔なものにすること。これが宣伝のコツである。簡潔であり、単純であればあるほど効果は上がる。我々の宣伝や啓蒙は大衆の最期の一人までもとらえるのである」−−これは、ナチスドイツの広報宣伝担当としてファシズムを煽動し、600万人ものユダヤ人を虐殺したゲッペルスの言葉である。その簡潔なスローガンの一つが「アーリア人は世界一優秀な人種である」だった。
 ドイツのナチズムを持ち出すまでもない。日本においても、同じフレーズが毎日毎日「少国民」に刷り込まれたかつての苦い経験がある。私たちは、二度と同じ事を繰り返してはならない。

  “ニホン ヨイクニ、キヨイクニ、
  セカイニヒトツノ カミノクニ 
  ニホン ヨイクニ、キヨイクニ、
  セカイニカガヤク エライクニ”