79歳のその死まで反核平和運動を貫いた闘士
故フィリップ・ベリガン氏追悼
生涯の最後は劣化ウラン反対闘争に捧げる


■昨年12月6日、1960年代から反戦・反核運動の闘士として闘い続けてきたフィリップ・ベリガン氏が、癌で亡くなりました。79歳でした。
 約40年にわたる反戦・反核活動の中で、100回以上逮捕され、のべ11年を刑務所で過ごしたといいます。最近も、1999年のコソボ空爆、特にその劣化ウラン弾に抗議して、劣化ウラン弾搭載機 A-10を格納している空軍基地に侵入して逮捕され、懲役30か月の判決を受けて2001年12月まで収監されていました。

 私たちはこの老闘士について、死の床につきながらも最後まで闘い抜いたがために感銘を受けただけではありません。生涯を核兵器廃絶のために闘い、最近は「新しい形の核戦争」とでも言うべき劣化ウラン戦争にその矛先を集中したがために更に感銘を受けたのです。

■ANSWER連合は、今年1月18日の対イラク戦争反対行動に際して、直前の呼びかけで、次のように述べました。
 「ANSWER連合は、軍国主義と戦争に対する勇気ある反対に生涯を捧げたフィリップ・ベリガンを失ったことを、全世界の人々とともに追悼する。フィル・ベリガンは、米国軍産複合体によってつくられ、またそれの利益のためにつくられた大量破壊兵器の本来的に邪悪な本質に注意を喚起するために、闘争の最前線に身を置いた。我々は、1月18日の行進を、キング牧師の栄誉をたたえることに加えて、フィル・ベリガンの生涯と遺産に対する限りない賛辞としたい。」と。

■ANSWER連合は、故ベリガン氏の闘いの生涯をたたえ、そのウェブサイトに「フィリップ・ベリガンの生涯に対する限りない賛辞(a living tribute to Philip Berrigan's life)」というページを作りました。
http://www.internationalanswer.org/berrigan/index.html

 そこに収録されているものの中から、妻エリザベス・マカリスターさんが口述筆記した『死を前にしたフィル・ベリガンの声明』を翻訳紹介します。口述筆記を始めてすぐに、もはや続けられなくなってそれっきりになったことを、エリザベスさんは克明に記しています。読んでいて胸が締めつけられる思いがしますが、そこにおいてベリガン氏は、最新のアフガニスタンでの核兵器(劣化ウラン兵器)使用をも糾弾しようとしています。
 「...核兵器は、この世の、天罰を受くべき災厄であり、それを地中から掘り出し、製造し、配備し、使用することは、神と人類家族と地球それ自身とに対する、のろわれた災いである...。我々は、既に、そのような兵器を1945年に日本で爆発させ、それと同等のものを1991年にイラクで、1999年にユーゴスラヴィアで、そして、2001年にアフガニスタンで使用した。」と。

■私たちは、昨年11月に『ブッシュ政権と軍産複合体』のパンフを出版しました。そのメインは、「世界政策研究所・武器取引情報センター(WPI/ATRC)」のウィリアム・D・ハートゥング氏らによる論文の翻訳でした。翻訳出版に際して、許諾を得るメールを取り交わして以降、ATRCから最新情報を逐次配信してもらっています。ATRCの有力メンバーの一人で、その配信を担当されているのがフリーダ・ベリガンさんですが、故フィリップ・ベリガン氏の娘さんです。
 そのような縁と、今回私たちがアフガニスタンでのウラニウム爆弾使用疑惑を追及しようとしていることとに触発されて、私たちは、故ベリガン氏のことをさらに知ろうとしました。その中で、2年前の2001年初めにヨーロッパで劣化ウラン弾によるNATO兵士の被曝が大問題になったときに、ベリガンさんたちの活動拠点であるバルチモアの新聞「バルチモア・サン」に掲載され「コモンドリームズ・ニュースセンター」が転載した論説を見つけました。『フィリップ・ベリガンによって提起された放射線砲弾に関する懸念はヨーロッパで反響を巻き起こしつつある』というものです。
 1999年当時76歳で、コソボ空爆に抗議し、それも劣化ウラン弾に焦点を当てた抗議行動を体を張って行なっていたことに、驚きと敬意を抱かずにはいられません。この論説も合わせて翻訳しました。

■故フィリップ・ベリガン氏は、1923年10月5日ミネソタ州生まれ。1943〜45年には、第2次世界大戦に従軍。1960年代の早い時期から反戦・反差別の運動を開始。1966年から、ミネソタ州バルチモアの聖ペテロ・クレーバー教会に聖職者として仕える。
 ベトナム反戦運動の中から、非暴力の新しい社会をつくろうと、仲間たちとともにバルチモアに「ジョナー・ハウス(Jonah House)」を設立し、「プラウシェアーズ運動(Plowshares actions)」を立ちあげる。これは、武器のない世界についての「旧約聖書・イ ザヤ書」の預言を法制化しようという運動である。
(「イザヤ書」2の4には次のようにある。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」)
 1970年、活動の仲間であるエリザベス・マカリスターさんと結婚。3人の娘、フリーダさん、ジェリーさん、ケイトさん。
 1975年にベトナム戦争が終結して後、米国の大量破壊兵器に焦点を当てはじめる。
徴兵ファイルに血をかけたり、ホワイトハウスやペンタゴンで墓穴を掘る抗議行動などで、逮捕され投獄される。1980〜1999年の20年間に5回以上の抗議行動で、のべ7年の懲役。1999年にはコソボ空爆と劣化ウラン砲弾に抗議して空軍基地に入り、懲役30か月の判決を受け収監され、2001年12月に釈放される。
 2002年12月6日、家族と闘いの仲間たちに見守られながら死去。

 反戦・反核の闘士にして反劣化ウランの闘士、クリスチャンにして偉大な人間であった故フィリップ・ベリガン氏に、あらためて敬意と哀悼の意を捧げます。

2003年2月24日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局

*このページの写真は、最後のCNN.comからのものを除きすべて、ANSWER連合のウェブサイトからのものです。


死を前にしたフィル・ベリガンの声明 
2002.12.5(リズ・マカリスターによる)


 フィリップは、感謝祭を前にした週に、この声明を口述筆記しはじめました。彼の頭の中にはそれが書かれていたということは、全く明らかでした。一語一語、私は書き取りました...。

癌で、死の床に横たわって、私は...

 「私の家族、私の愛する妻エリザベス、3人のすばらしいドミニカの仲間−−西コロラドに囚われている(名誉退職した)アーデス・プラット、キャロル・ギルバート、ジャッキー・ハドソン−−、スーザン・クレイン、当地の、全国の、そして全世界の友人たち、私はこの人々の共同体の中で死んでいく。これらの人々は、いつも私の生命線であり続けた。私は、1968年以来、カトンズヴィル以来、抱き続けてきた確信をもって死んでいく。すなわち、核兵器は、この世の、天罰を受くべき災厄であり、それを地中から掘り出し、製造し、配備し、使用することは、神と人類家族と地球それ自身とに対する、のろわれた災い(curse)である、ということ。我々は、既に、そのような兵器を1945年に 日本で爆発させ、それと同等のものを1991年にイラクで、1999年にユーゴスラヴィアで、そして、2001年にアフガニスタンで使用した。我々は、他国の人々に命にかかわる放射性同位体の遺物を−−対ゲリラ戦の主要な手段として−−残した。たとえば、イラク、ユーゴスラビア、アフガニスタン、パキスタンの人々は、大部分は劣化ウランに起因する癌と何十年も闘い続けることになるだろう。さらに、我々の57年以上にわたる核の冒険主義は、この地球を核のゴミであふれさせてきた。実験からの、高高度での爆発からの(これまでに4回)、103ある原子力発電所からの、核兵器工場からの、等々。それらは、きれいにすることが不可能である。近視眼的指導部のために、所有の貪欲さのために、大衆は巨大メディアに縛られているために、事実上これらの現実に対してこれまで何の反応もない...」

 口述筆記のこの時点で、フィルの肺が詰まりました。彼は、コントロールできないほどの咳をしはじめました。彼は疲れていました。私たちは休止しなければなりませんでした−−後で最後までやる約束をして。しかし、その「後で」はついにやってきませんでした...−−フィルをこれほど急速に衰弱させた病の次々に起こる事態に、私たちはついていくのが精一杯でした。それから、彼は、全く話すことができなくなりました。そして、ついに、−−徐々に徐々に−−彼は私たちを残して逝ってしまいました。

 フィルは何を言おうとしたのでしょうか? 彼の生涯のメッセージは何なのでしょうか? どんなメッセージを、彼は死の床で私たちに残そうとしたのでしょうか? 今や私たちは彼を失い、彼が言い表そうとしたことは想像するしかないのですから、それは、私たちそれぞれにとって異なるものなのでしょうか?
 フィルの部屋で私たちが祈りをしていたとき、ブレンダン・ウォルシュが旗のことを思い出しました。フィルが、聖ペテロ・クレーバー教会のために数年前ウィラ・ビッカムにつくるように頼んだ旗です。それには、こう書いてあります。「死の痛みは我々の周りのいたるところにある。おぉ、主よ、あなたの勝利はどこに?(The sting of death is all around us. O Christ, where is your victory?)」

 死の痛みは我々の周りのいたるところにある。フィルが私たちに傾聴するように求めた死は、彼の死ではありません(もっとも死の痛みは私たちの上にふりかかり、それは否定しようのないものですが)。フィルが私たちに知ってもらおうとした痛みは、制度化された死と殺戮です。彼は、それを、決して倦むことなくはっきり述べ続けました。彼は、決してやむことなく、その広さ大きさ深さに驚き続けました。そして彼は、決してそれを受け入れ認めることはありませんでした。

 おぉ、主よ、あなたの勝利はどこに? フィルがこの疑問を神とその子キリストに問いかけるようになったのは、1960年代の中ごろにさかのぼります。彼は、この問いかけをし続けました。そして、長年かけて、彼は次のことを学びとりました。
・神に問いかけ、この地球に住むすべての人の正義を懇願することは、正しいこと良いことだということ。
・一人に対してなされる不正義は皆に対する不正義である、このように感じることは、緊急に必要なことだということ。
・我々は、決して倦むことなく、そのような不正義を暴露し続け、それに抵抗し続けなければならないということ。
・我々の目撃する勝利がイエスの称揚したカラシの種よりも小さくとも、大切に育てる必要があるということ(訳注:聖書に次のような一節がある。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」)。
・一つ一つの勝利−−特に、愛の非暴力の社会を体現した兄弟姉妹愛の勝利−−を祝うことが重要であるということ。

 フィルの病の数か月の間に、私たちは、人間的なものに反する文化、生命に反する文化、愛に反する文化に対する、小さな勝利や大きな勝利によって、また幾多の友情−−刑務所内外の−−によって、そしてフィルの生涯全体を貫いてきた愛によって、百倍も祝福されてきました。これらの年月をフィルといっしょに過ごしたことは、私たちを、もとの礼拝の問いにたち返らせてくれます。「おぉ、死よ、あなたの痛みは今どこに?」



「コモンドリームズ・ニュースセンター」より
「バルチモア・サン」(2001.1.14)からの転載
(訳注:2年前の2001年初めにヨーロッパで劣化ウランが大問題になったときの「バルチモア・サン」の論説を「コモンドリームズ・ニュースセンター」が転載したものである。バルチモアを拠点とする当時76歳であった故フィリップ・ベリガン氏は、アメリカにおいていち早く劣化ウラン反対の活動を開始したが、アメリカ本国ではなかなか理解が得られず受け入れられなかった。ベリガン氏は、1999年コソボ空爆での劣化ウラン砲弾に抗議して、3人の仲間と劣化ウラン搭載機A−10を格納しているエセックスの空軍基地に侵入して逮捕され、30か月の懲役を言い渡されて当時服役中であった。)


フィリップ・ベリガンによって提起された放射線砲弾に関する懸念はヨーロッパで反響を巻き起こしつつある

by カール・ショートラー

 自分の国で名誉を与えられない預言者に関する聖書の考察が、悲しくも皮肉なことに、バルチモアの変わることのない平和運動活動家フィリップ・ベリガンにめぐってきた。

(訳注:3つの福音書(マタイ13章53−58・マルコ6章1−6、・ルカ4章16−30)にイエスが、故郷では受け入れられなかった話が載っている。イエスは、各地で説教をした後、故郷ナザレに帰って説教をする。しかし、人々が、大工の息子のくせにと、イエスの言うことを信じようとしなかったため、イエスは、預言者は故郷では尊敬されないと悲しむ。)


これは彼が1993年8月6日にペンタゴンで抗議行動をし逮捕されたときのもの(CNN.com より)
 ベリガンは、コソボ戦争でのアメリカ軍とNATO軍による劣化ウラン砲弾の使用に抗議したために、メリーランドの刑務所に囚われている。

 しかし、先週、コソボで平和維持軍として従軍した兵士たちの間で、劣化ウランが原因と思われる癌についての健康上の恐れがヨーロッパ中を席巻した。

 ヨーロッパの6か国の首脳が、放射性劣化ウラン対戦車砲弾からの粉塵や破片にさらされた兵士たちの間での、癌の可能性についての詳しい調査を要求した。

 15か国のメンバー諸国を抱えるEUは、バルカン平和維持軍兵士の間での未解明の疾病と死についての、独自の科学者による調査を命ずることで応えた。

 NATOメンバーのドイツとイタリアは、この兵器の発癌性についてちゃんと研究されるまでの間、劣化ウラン砲弾の使用についてのモラトリアムを促した。

 フランスの報道機関が報じたところによれば、イタリアでは、コソボからの帰還兵の中に「バルカン症候群」の癌と疑われるケースが18件あり、そのうち8人が死亡した。ポルトガルの報道機関によれば、バルカン従軍退役兵が癌にかかったケースが5件あって、うち2人が死亡。

 「アジェンス・フランス・プレス」によれば、5人のベルギー兵士、2人のオランダ兵士、2人のスペイン兵士、1人のチェコ兵士が、バルカン従軍後に死亡した。4人のフランス兵士と4人のベルギー兵士が白血病で苦悩し続けている。

 ポーランドとウクライナは 1,700人の連合大隊に参加したのだが、両国の大統領は、この火曜日にコソボへ向かった。

 76歳のベリガンと3人の「プラウシェアーズ運動」の仲間たちは、劣化ウラン兵器に抗議する中で、エセックスのエア・ナショナル・ガード空軍基地に侵入し、A−10ウォートホグ爆撃機に損傷を与えたとして告発された後、昨年(2000年)3月に刑務所へ送られたのである。

 A−10タンクキラーは、コソボでの約100回の出撃で、約31,000発−−10.5トン−−の劣化ウラン砲弾を発射した。湾岸戦争では、A−10は 940,000発にものぼる劣化ウラン砲弾を発射した。それは、米軍によって発射された対戦車砲弾に広く使用されていたのである。劣化ウランからの低レベル放射線は、「湾岸戦争症候群」として確認されてきた。

 劣化ウランは、ウラニウムが核兵器や原子力発電のために濃縮されるときに、あとに残る重金属である。その密度の高さによって、劣化ウランは装甲を貫通し、また非常に効果的な装甲皮膜になる。

 「プラウシェアーズ」の活動家たちは、劣化ウランが健康と環境への脅威であると確信している。彼らによれば、劣化ウランは、戦場の粉塵や瓦礫で被曝した人に癌を引き起こし、子どもの先天的奇形や将来の世代の遺伝的ダメージの原因となる。劣化ウランが毒性をもつ放射性物質であることを否定する者は誰もいない。論争は、いかなる毒性か、いかなる放射性かをめぐっておこなわれている。

 NATOの当局者は、劣化ウランの危険性を「事実上」ゼロだとして退けている。

 しかし、フランスの報道機関によれば、「危険性の認識(hazard awareness)」という文書が1999年1月に米国統合参謀本部によってNATO同盟諸国に回覧されたという。その警告には、使用された砲弾または汚染された物質は、防護マスクや遮蔽するものなしで取り扱ってはならないと述べられていた。

 ベリガンと「プラウシェアーズ」の仲間たち−−敬愛なるスティーブン・ケリー50歳、スーザン・クレイン56歳、スーザン・ウォルツ33歳−−は、バルチモア地方裁判所判事ジェームズ・T・スミスの前で、劣化ウランについての供述を行なうことを許されなかった。

 被告たちは、それで裁判に出廷することを拒否した。「私たちは、劣化ウランの危険性および国際法の下での私たちの権利と義務を弁明することができない。」と、バルチモアのジョナー・ハウス・コミュニティーのメンバーであるスーザン・クレインは述べた。

 「私たちは、これらの問題について証言する権利を否定された。私たちの専門家の証人喚問も拒否された。したがって私たちは出廷するわけにはいかない。」と彼女は述べた。

 その翌日、判事は、ベリガンに30か月、他の2人に27か月、他の1人に18か月の懲役を言い渡した。

 「もし私たちが従順にふるまって首を垂れていたら、判決はずっと違ったものになっていただろう。」とベリガンは述べた。

 「判事は、自分が何をやっているのかということを理解しなかった。彼は、人々に棍棒を用いれば従わせることができると考えている。恐れをなして服従するものもいるだろうが、ノー!と言う者もいるのだ。」

 ベリガンは、ノーと言った。彼は今、刑務所にいる。彼と彼の仲間たちが提起した問題は、この間ヨーロッパで、ますます大きな声となってこだましている。預言者は名誉のないままではないのである。