[翻訳紹介]ラテンアメリカ4カ国で行われた選挙結果について
米国の「裏庭」で抵抗する歴史的な人民大衆のうねり
−−ネオリベラリズム反対、米の軍事覇権反対の潮流が一層拡大するラテンアメリカ−− |
「これはラテンアメリカの歴史的瞬間だ。人民の時代だ。」
(ウルグアイの音楽家、ダニエル・ビグリエッティ)
はじめに−−ブッシュ再選の米国の「裏庭」でそれに抵抗する潮流が前進
2004年10月31日(日)にラテンアメリカの4カ国で重要な選挙が行われた。ウルグアイの大統領選、ベネズエラ、チリ、ブラジルの地方選である。これらの選挙結果は、その二日後に行われた米国大統領選挙と明白な対比をなすものとなった。米国ではブッシュが再選されたが、その「裏庭」のラテンアメリカでは、このブッシュと米国の経済・外交政策、軍事覇権とネオリベラリズムに異を唱える勢力が躍進し、いっそうの前進を遂げたのである。
以下は、一連のラテンアメリカの選挙に関する報道を幾つか邦訳紹介する。
■ウルグアイ:大統領選で左翼連合が史上初の勝利
まず注目すべきは、ウルグアイである。ここでは、建国以来はじめて、左翼陣営、「拡大戦線」の候補者、バスケスが大統領に選ばれた。ウルグアイは、アルゼンチンのような農業国であったが、それが90年代の新自由主義経済政策が引き起こした経済破綻によって、多くの人々が食糧難にあえぐようになった。社会保障の削減、公的部門の民営化、外国資本への依存度の高まり、こうした自由競争を激化させ貧富の差を拡大させる政策に、ウルグアイの人々の不満は高まり続けていた。実は、5年前の大統領選挙でも、バスケスは、4人の候補者の中で1位の得票数を獲得していた。しかしながら、過半数には至らず、決選投票で2位と3位の候補者の連合に敗北したのであった。だが、今回の選挙では、バスケスは決選投票をまつまでもなく最初の投票で過半数を獲得した。
ウルグアイは、南米の小国ではあるが、米国の忠実な同盟国であった。そのウルグアイで、米国の新自由主義的経済統合に反対する左翼政権が登場したことで、米国の「裏庭」での新自由主義に反対する大きな潮流が、いっそう強固なものとなった。
■ベネズエラ:地方選でチャベス派大躍進
米国の政策に対する最も先鋭な抵抗者の一人であるチャベス大統領が率いるベネズエラでは、全国で地方自治体の選挙が行われ、州知事においても、市長においてもチャベス派が大躍進を遂げた。これまで、地方自治体の長は、全体の三分の一しか掌握していなかったが、今回の選挙で一気に倍以上に増加し、80パーセントを占めるに至った。州知事では、22州のうちの20州でチャベス派が勝利した。反対派は重要な拠点、牙城を次々と失ったのである。この結果をうけて、クーデター未遂や罷免投票などでチャベスの失脚を狙ってきた指導者たちの中から、次々と事実上の敗北宣言を出す者も現れ、反対派はいっそう分裂し弱体化している。
これまで、反対派の地方自治体首長によって、ボリーバル革命が妨害されサボタージュされてきたが、今後土地改革を含めてボリーバル革命過程が加速するに違いない。
■チリ:地方選で中道左派現政権が右派野党を抑えて勝利
チリでは、ピノチェット軍事政権の終焉のあと政権の座に着いた中道左派連合が地方選挙で勢力を拡大した。事前の予想では、右派の野党とほぼ互角の戦いになると見られていたが、結果としては、与党が48パーセント、野党が38パーセントであった。その他の小さな諸党の中では、共産主義者と人道主義者の連合体「フントス・ポデーモス」が急速に勢力を伸ばし、次の大統領選挙のキャスティングボードを握る存在となっている。
■ブラジル:地方選で与党労働党が重要都市を失うが全体としては健闘
しかし、ブラジルでは、2年前に政権を握ったルラ大統領の労働党が、サン・パウロやポルト・アレグレなど重要な都市の市長選で敗北した。全体としては、健闘したと言える結果ではあるが。
これらの政府が、今後すべて順調に進むかどうかは定かではない。ブラジルのように一定の後退を強いられる場合も出てくるであろうし、ウルグアイにしても、米国にあたりのいい人物を経済大臣に選ぶなど、これまでの経済政策に対する譲歩的な面が見られる。最も地歩を固めてきているチャベス政権のベネズエラにおいては、選挙結果に不満を持つ敗北した前知事が支持者に暴力的抵抗を訴えるなど、危険な兆候が見られる。
しかしながら、今回の選挙結果は、全体としては、米国がこれまで自国の「裏庭」として好き勝手に経済・外交政策を押し付けてきたことへの抵抗が、もはや後戻りできないほど強まっていることを示している。米国内でこそ、ブッシュが再選され、「対テロ」の名のもとの戦争政策や、貧富の拡大を招く新自由主義的経済政策が支持されたかのように見えるが、ラテンアメリカの人々のより多くが、それを拒否する道へと踏み出しているのである。
2004年11月15日
アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局
南アメリカの人民は、多国籍資本と帝国主義が課した新自由主義的民営化プロセスと「開放市場」を代表する国々のくびきから、自分たちの国を脱出させようと格闘している。この闘争は、嫌になるほど語られた米国大統領選のちょうど2日前の10月31日に、この大陸の南のウルグアイと北のベネズエラの選挙に反映された。
ウルグアイでは、左翼から中道左派の政党、グループ、諸個人の連合が、大きな差をつけて大統領選に勝利した。1970年代に抑圧的な軍事独裁が支配したとき、多くのウルグアイ人が国外追放された。推定50万人の国外在住者のうち、約4万人が選挙前に選挙に参加するために故国に戻った。彼らは、ヨーロッパからも、また近隣のアルゼンチン、ブラジル、パラグアイからも戻ってきたが、いずれも選挙に参加し、この歴史的瞬間に参加するためであった。空港や港湾やバス・ターミナルは、親戚や友人が親愛なる人々を歓迎してお祭り気分であった。その帰国した大部分は、政治的理由で追放されたり、経済的理由で国外に出たりした若者たちであった。
「フレンテ・アンプリオ(拡大戦線)」の候補者タバレ・バスケス医師は、初回投票で大差で勝利した。これはウルグアイの170年の歴史で左翼が政府の最高ポストを獲得した最初である。社会主義者であり癌患者を治療する腫瘍学者であるバスケス医師は、1990年から1995年まで、この国の首都で国の半分の人口が居住するモンテ・ビデオの市長であった。
約50万人が、10月27日のFA(「拡大戦線」)の選挙キャンペーン閉会集会に参集した。選挙終了後、最初の結果が知れわたるやいなや、貧困地区の人々がFAの本部があるモンテ・ビデオの中心部にあふれるほど集まった。「ウルグアイ、ウルグアイ、ウルグアイ」の叫びが革命的な歌やスローガンと交じり合った。
大統領選挙のほかにも、人々は、水資源の民営化を行おうとする憲法修正提案に反対することを決定した。これは、この地域一帯で水資源の略奪をハゲワシ的に追及している多国籍企業に対する重大な反撃であった。
たった340万人のこの国は、かつてはラテンアメリカのスイスと呼ばれた。教育と社会福祉が保障されていた。それは大部分は肉類と羊毛の輸出による収入からまかなわれていた。2つの資本主義的中道主義政党、コロラド党(赤)とブランコス党(白)は、1800年代の中ごろ以来ずっと権力をたらい回ししてきた。軍事独裁が1973年から1985年までこの国を支配した。
近隣諸国よりも民主的な、繁栄した平等主義的な国という外見は、1960年代の、都市ゲリラ運動――国民解放運動(トゥパマロス)――の勃興によって穴だらけにされた。この運動は貧者に食べ物を配給した。
1971年に、FA(拡大戦線)が形成された。以前のゲリラのメンバーは、今ではFAメンバーの最大部分を構成している。
このラテンアメリカの「スイス」でさえ、新自由主義の処方箋は、世界銀行と国際通貨基金への債務漬けへと導いた。国営事業と国有資源の民営化、および社会的プログラムの縮小が現実のものとなった。アルゼンチンをズタズタにした恐ろしい金融崩壊とブラジルの通貨レアルの急激な下落は、ウルグアイの経済への深刻な打撃となった。これら2つの国は、ウルグアイの輸出と観光を通じた収入の基礎であった。
経済は2001年に縮小し始め、いくつもの銀行が閉鎖され、外国通貨による銀行預金は凍結され、失業率は19.8パーセントにのぼった。現大統領ホルヘ・バトリェと米国の親密な同盟者は、経済を立て直すための財政政策を発動した。経済は2003年ごろには、ゆるやかな上昇を示し、それが2004年のはじめの2〜3カ月まで続いた。しかしながら、これは大多数の人々の生活には何ら改善をもたらさなかった。
貧困が増大した。そして今では、人口の32パーセントが貧困ライン以下で暮らし、そのもとにウルグアイの6歳以下の子どもたちの56パーセントが暮らしている。対外債務は現在130億ドルである。
この状況は、不平等と不満を増大させた。そのために、FA(拡大戦線)は何年にもわたって数と力を着実に増大させてきたのである。共産主義者、社会主義者、労働者、元ゲリラが団結した。社会キリスト教民主主義者や民族主義者の中からも、自党を離脱してFAに加わるものが現れた。FAは居住地域を基礎とした委員会を通じて、そういう人々を組織した。よく知られたウルグアイ人の作家エドゥアルド・ガレアーノはこう述べている。この政治勢力は「日に日に、家から家へと、音もなく、黙々と、誇示することもなく成長した。…そして、最も重要なことは、それが最底辺から成長したということである。」と。
メンバーは、月々会費を支払い、彼らの代表者を選ぶ。全国大会と政治局が恒久的な指導機関である。名前は「エンクエンテロ・プログレシスタ‐フレンテ・アンプリオ‐ヌエバ・マヨリタ(英訳はProgressive
Encounter Broad Front New Majority)」へと進化した。それはこの連合の性格と様々な政治勢力の参加とを反映している。
タバレ・バスケスは、社会的緊急事態に対処して、最下層への1億ドルの緊急支援計画を開始すること、国富のより公正な分配のために活動することを約束した。
ラテンアメリカの人民はこの事態を祝っているが、ワシントンはそうではない。「フィラデルフィア・インクワイアラー」の外国調査員ケビン・ホールは11月1日にこう書いた。「社会主義者タバレ・バスケスは、昨日ウルグアイの大統領選で過半数を獲得し、南アメリカの政治的左傾化の列に彼の国を付け加えた。そして米国をこの地域の重要な同盟者とはみなさない潜在的可能性を持っている。」と。ニューヨーク・タイムズ紙は、FAを「見苦しい獣」として描いている。
米国支配階級は、まちがいなくこの選挙結果にあわてふためいている。というのは、犯罪的な新自由主義的方策を採用するだけはなく、南北アメリカ全体に対する米国の「自由市場」協定を支持し、キューバを孤立させる企てに参加する忠実な同盟国を失うからである。2003年と2004年に、ウルグアイは、人権抑圧でキューバを非難する国連決議案を示した。今、タバレ・バスケスは、「大国の覇権の下での政治的・軍事的同盟からの独立」を求めて、キューバとの関係を回復することを約束している。
ウルグアイの作曲家・音楽家、ダニエル・ビグリエティは述べている。「これはラテンアメリカの歴史的瞬間である。それは人民の時代である。」と。
ボリーバル主義者たちはベネズエラを前進させる
北のベネズエラでは、10月31日午前3時に、起きて投票の準備をする時間を告げる起床ラッパが鳴り響いた。8月15日の大統領の罷免国民投票ほどには国際的に広く報じられていないが、これらの地方および地域の選挙は、ベネズエラ人が「ボリーバル革命」と呼ぶものの前進にとって重要なステップであった。反対派の支配が、多くの州知事と市長のオフィスで打ち破られた。
革命の敵が事態を混乱させる脅しをかけてきたので、選挙のスムーズな進行を確保するために、12万人以上の軍部隊と警察が、全国いたる所に配置された。
ウーゴ・チャベス大統領に支持された候補が、22の知事の職のうち19を獲得した。(訳注:まだ最終結果が発表される前の情報だと思われる。)油田の豊富なスリア州とヌエバ・エスパルタ州でだけ、反チャベス派候補が勝った。この2州はボリーバル革命に強く敵対している州である。反対派の別な拠点カラボボ州では、選挙の2日後の時点で、多くの手書きの投票がまだ数えられている最中であったので、結果はまだ定まっていなかった。反対派の暴力的な対応の後、カラカスで全国選挙管理委員会によって手書き投票を数える作業続行の決定が下されたのである。手書きの投票用紙は、たいてい最も貧しい市民からのものであり、彼らは革命に圧倒的に賛成している。
重大な影響を持つ勝利は、大カラカス市(Metropolitan
Caracas)の市長選でのフアン・バレットの勝利であった。彼は今や小カラカス市(the
Caracas Municipality)のはっきり物を言う革命派の市長フレディ・ベルナルに合流するであろう。大カラカス市の前市長アルフレッド・ペーニャは反対派に加わってきた人物で、大衆に対して、革命の過程を押しとどめるために、市警察を使用してきた。
大統領罷免に向けた8月の国民投票における敗北の後に、反対派はバラバラになり、闘いの隊列は乱れた。投票するか棄権するかについてのリーダーたちの曖昧なメッセージで混乱した反対派の多くは、何をしたらよいかわからなかった。ワシントンの支援なしには、反対派は争う勢力として存在しえないだろう、とベネズエラ人は言う。しかし、米国のブルジョア的政治支配層――ジョージ
W. ブッシュとジョン・ケリーの両方を含んでいる――は、反対派を温存したいと願っている。
ベネズエラの国民投票の後のスピーチで、ケリーは、こう述べた。ブッシュ政権は「進歩のための真の力になるのに必要な信頼を失った。私が大統領になれば、相互の尊重と民主主義への支持に基づいて、真の南北アメリカ全域のコミュニティを作るつもりだ。そこでは、我々は共通の目的を実現するために働き、隣人が隣人の世話をするのである。」と。
米国の「民主主義への支持」とは、革命を暴力的に敗北させるために反対派の組織に資金を供給し続けることを意味してきた。――石油産業サボタージュや他の多くの行動を扇動し、大衆的に選出された大統領を強制的に追放しようとする彼らの試みで例証されるように。何百万ドルもの資金が、「民主主義のための米国全国基金」を通じて反対派に注がれてきた。
しかし、革命はますます強化されてきている。まもなく、この国の新しい進路を計画するために、すべての知事がカラカスに集められるであろう。その新計画には、人々によって投票で承認された人民的な新しいベネズエラ憲法における土地改革法を通じた土地の分配も含まれる。
先月、チャベス大統領は、3,000家族以上に土地名義を手渡す儀式のために、カラカスの最も貧しい地区の1つであるペタレを訪問した。このイベントで、彼はこう述べた。「我々は、人々を支配し貧困の中に投じようとした者たちによってここに持ち込まれた恐ろしい資本主義的システムを、我々の背後に置き去りにしていく必要がある。それを終わらせるために、私たちはここにいるのである。」と。
日曜日(10月31日)の地方選挙の最新の予想結果によれば、ベネズエラ大統領ウーゴ・チャベス派の市長候補者が、335の地方自治体のうち270で首位に立っている。これは、この国の都市と町の80パーセント以上であり、2000年の選挙でチャベス派が獲得した成果の倍以上である。その時の選挙では、チャベス派の候補者は、115のポストしか獲得できなかったのである。(図1・2参照)
図1 2000年地方選挙:先週の日曜まで、ベネズエラの反対派は地方自治体の市長のポストの過半数を握っていた。
図2 2004年地方選挙:チャベス大統領派の候補者がいまや地方自治体レベルでもこの国を支配している。
親チャベス派候補者の地方自治体での勝利は、州レベルでも同じように力強い成果を生んだことで賞賛を受けた。ベネズエラの全国選挙管理委員会(CNE)は、20州のうち18州でチャベス派の勝利が逆転できないものであると推定される予想結果を発表した。残り二つの州の結果予想も発表されたが、CNEは、判定するにはまだ勝負は接戦であることを繰り返し強調した。カラボボとヤラクイ(地図参照)では、親チャベス派の候補者は、ごくわずかなリードを維持しているが、担当職員が長引く関連作業を引き続き行っている。(図3)
図3 揺れ動く州:カラボボとヤラクイでは、チャベス派のリードは1、2パーセント
CNEから派遣された監視員たちは、直接自分自身でその集計を監視するために、現在、これらの争いのある州にいる。昨日、法務および内務大臣ヘセ・チャコンが発表したところによれば、国家警備隊の部隊が、選挙期間中、「共和国計画」として知られている平和維持の任務についており、カラボボ、ミランダ、ヤラクイ、アンソアテギでは、すべての投票が数え上げられるまで、その任務は引き続き維持される。これらの州では、反対派の抗議者が街頭デモをして、予想結果に対する彼らの不満を表明した。最終結果は金曜日に予定されている。
人口比で見たベネズエラ。ヤラクイとカラボボは現在非常に接戦で決定が下せない。
カラカス2004年11月5日――金曜日の午前12時40分に、全国選挙管理委員会(CNE)は、10月31日の日曜日に行われた地方選挙の最終的な結果を発表した。昨日の時点で、カラボボ、ミランダ、ヤラクイの各州は、候補者の得票数が僅差でしかなかったため、まだ争いの最中であった。
ベネズエラの選挙風景(Credit: Jonah Gindin) |
ベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスを支持する候補者は、(合計23のうちの)一般投票による22の知事選のうち20で勝利を収めた。ここには、以前、反対派に支配されていた6つの知事職が含まれている。ボリーバル運動のもっとも主要な勝利は、カラボボとミランダの州からもたらされた。それらの州の現職の知事たちは、反対派の重要なリーダーである。彼らは、僅差で敗北したことに異議を唱え続けている。
カラボボでは、全国選挙管理委員会(CNE)の理事会のメンバー、ホルヘ・ロドリゲスおよび全国選挙会議(JNE)の代表が、現職の反対派リーダー、エンリケ・サラス・フェオに対する、チャベス派の退役将軍ルイス・フェリペ・アコスタ・カルレスの勝利を公式発表した。
先週の日曜日に投票所が閉じられた直後、サラス・フェオは、自分が「勝った」と先制的に宣言した。これは、CNE役員、オスカー・バタグリニによって違法であると即刻非難され、その後、手動及び自動化集計された票が数えられた後、フェオの誤りが立証された。ボリーバル主義者の候補、ルイス・アコスタ・カルレスは、31万1189の票(51.25%)を獲得した。これに対して現職の反対派リーダーエンリケ・サラス・フェオによって獲得されたのは29万1519票(48.01%)であった。
サラス・フェオがバレンシア北部の彼の家から発した声明では、彼はCNEが手動集計票の60%と自動化集計票の40%で適正手続きに違反したということを自明の前提としていた。「私はこの勝利を認めないが、カラカスの決定は受け入れる…。カラボボで起こったことはクーデターだとみなさんに言わなければならない。カラボボの人々は私に支持を与えたのだが、不幸にしてカラカスには、別のプランがあったのだ。」こうした当てこすりは、CNE代表フランシスコ・カラスケロによって激しく否定された。彼は、サラス・フェオがでまかせを言うばかりで、敗北を認めることができないのだと非難した。
15年前のカラボボの知事であり現職知事の父親、エンリケ・サラス・ローメルは、息子が13万票以上の差(61%)で勝利したと主張し、彼らの党、プロジェクト・ベネズエラ(PV)は戦うことなく知事の職を譲り渡しはしないと宣言している。
カラボボの新しい州知事、ルイス・フェリペ・アコスタ・カルレスは、全州会議において、バレンシアの人々は「私を知事にしました。彼らがまさにカラボボ州における社会的変化を求めているのです。」と答えた。そして、彼の政府を特徴づけるのは、社会的包摂と「人々の必要を満たすこと」を焦点にするということになるだろうと約束した。
ベネズエラの選挙風景(Credit:
David Hernandez) |
ヤラクイ州では、CNEの役員代理、ティビサイ・ルセナが公式発表し、反対派知事エドゥアルド・ラピが9万799票(47.62%)を得たのに対して、親チャベス派候補カルロス・ヒメネスは9万6212票(50.46%)を得たと発表した。ラピはその結果を確かめることを地方選挙会議(JER)に要求し、それが認められてルセナの監視のもとで確認されたが、彼女は後に、現職が結果を認知するのを拒否し続けており、そのため説明することもできないでいると論評した。
反対派は、知事舎が州の保安部隊によって襲われたと主張しているが、新しい親チャベス派知事は、そのことを否定し、それは嘘だと述べている。
ミランダでは、現職エンリケ・メンドサは、ディオスダード・カベッリョにおよそ2万票の差で敗北した。彼は、投票に関して声明を発表すると二度約束したが、今までのところ、できないでいる。
反対派の前知事らが敗北を受け入れるかどうかは、まだ明確ではない。今までのところ、メンドサとサラス・フェオの両方が、彼らの支援者に、選挙結果について抗議するよう呼びかけた。これは、バレンシアとヤラクイの両方で様々な暴力的エピソードをもたらした。チャベスによると、政府は、もし選挙の結果が認知されないなら、平和と法の支配を確保するために、国家警備隊を配備する予定である。
チャベス派は2つの州でのみ敗北した。ひとつはスリア州。そこでは、現職の反対派知事マヌエル・ロサレスが12%の格差を付けて勝利した。そしてヌエバ・エスパルタ州では、反対派の挑戦者モレル・ロドリゲスが8%のリードをもって知事の職に就いた。
地方選挙は反対派に厳しい打撃を与えた。反対派の個々のリーダーが、レファレンダムと地方選挙の双方の間、選挙の不正手段があったと責め立てているが、親チャベス派は、反対派の威信が衰え、その人気が欠けていくことこそが、彼らの敗北を説明していると主張する。
モンテビデオ、11月1日(IPS)――予期に反して、ブラジルでは、ルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ大統領の左傾的な労働者党は、重要な都市において、中道的なブラジル社会民主党(PSDB)に敗北した。もっとも、日曜日の地方議会選の第二ラウンドでは、小さな中道左派の諸党がかなり強化されたのではあるが。
[ウルグアイ]
ウルグアイの左翼「拡大戦線」連合の候補者、社会主義者のタバレ・バスケスは、少なくとも51パーセントの票を取ることで選挙に勝ち、その結果、11月の決選投票はなくなった。
バスケスは国の最初の左翼大統領になるであろう。そして、「拡大戦線」は、議会の両院で多数派を保持するであろう。
[ベネズエラ]
ベネズエラでは、左傾的なウーゴ・チャベス大統領が新しい勝利を記録した。月曜日に発表された暫定的な選挙結果によれば、彼を支持する諸党からの候補者が一般投票による22州(合計23)のうち20州を獲得したのである。
そして、333の市長選の結果はまだではあるが、反対派のリーダーたちは、大多数が「チャベス派」に行ったことを認めた。
今一度、ベネズエラの投票者は10人のうち6人がチャベスを支持することが明確になった。残りの4人はますます分裂してゆく反対同盟を支持しているのではあるが。
反対派の連合、民主調整委員会によって組織された8月15日の大統領リコール国民投票では、有権者の59パーセントはチャベスを支持して彼の任期を全うすることを求めた。それに対して、彼の辞任を求めたのは41パーセントであった。
チャベスは、1998年の大統領選で、56パーセントの票を獲得して勝利した。そして、2000年に、彼は新たに改定された憲法の下で行われた選挙において60パーセントの支持を得て再選された。
日曜日の地方選挙の暫定的な結果によると、チャベス派は投票総数の60パーセントを獲得した。
「1998年以来、ベネズエラでは、異なった問題で、実際のところ同じ選挙を繰り返している。」と、ベネズエラ中央大学の政治学教授、ヘルマン・カンポスは、IPS(INTER
PRESS SERVICE)に語った。どの回も「選挙に対する人々の反応は、常に同じであった」。
月曜日の政治的指導者たちの声明は、8月の国民投票と日曜日の地方選挙の結果によって、2007年1月のチャベスの任期が終わる前に権力の座から彼を追放するための反対派の数年の闘争が終わったことを示している。
2001年後半以来、伝統的な党、企業、労働組合、私的メディアからなる反対同盟は、何十もの大規模なデモ行進を組織し、2002年4月に2日間チャベスを追い出した短命なクーデターを組織し、2002年12月から2003年1月にかけての2カ月間に、100億ドルの損失を引き起こした企業閉鎖と石油産業の凍結を組織した。
月曜日に、チャベスは、彼のキャンペーンの中で、貧困者の利益のために「社会革命」を深化させると述べ、彼の手を反対派にも伸ばして、全ての新任の知事と市長とが共に貧困との闘いのために働くよう求めた。「革命はここに在り続け、ベネズエラは、絶えず変化しいく」のだから。
1945年から1993年の間に何度かベネズエラを治めてきた党である民主行動党(社会民主主義政党)の事務総長エンリ・ラモスは、我が党は、幻想を持たずに、選挙結果と我が国の新しい政治的現実を分析することになるだろう、と述べた。
民主行動党は、現在、チャベスの第五共和国運動に次いで、この国第二の勢力を持つ政党である。
ラモスは、彼の党が、これまで伝統的に支持を受けてきた「大衆地域」から距離を置いてしまったことを嘆いた。「チャベスを追放するための闘争における統一のために、我々自身の戦略を築き上げることなしに、我々は本質的には中産階級と上流階級のために“政治を行う”人々と共闘してしまった。そうして、大衆をチャベスに委ねてしまったのだ」。
新たな中道右翼の党、正義第一党のリーダー、フリオ・ボルヘスは、こう述べた。「伝統的な反対派政党とリーダーたちにとって、ステージは日曜日に閉じられた。今や、この国は、別なリーダーを探し求めて再出発しなければならないだろう」と。
[チリ]
はるか遠く南のチリでも、アウグスト・ピノチェト将軍の1973年から1990年までの独裁の終焉以降、政権を握っている中道左派連合が、地方選挙において勝利的前進をとげた。
それと同時に、議会に代表者を送れなかった小さな左翼政党が、市会議員選挙で9パーセント以上、市長選でおよそ6パーセントの票を獲得して、予想外の強さを示した。
これらの結果からすると、共産主義者と人道主義者の諸党によって、党として合法的には存在していないより小さな左翼勢力をも含めて形成された選挙同盟「フントス・ポデーモス(共に我らはなし得る)」は、2005年12月の大統領選の結果を決定する際に重要な役割を果たすべく発展している。
政府閣僚フランシスコ・ビダルは、与党「コンセルタシオン・ポル・ラ・デモクラシア(民主主義のための協議)」連合が199の市長職を勝ち取ったと月曜日に述べた。これは右翼同盟が手中にするであろう合計(98)の2倍である。一方、94パーセントの開票率に基づく暫定的な発表に従えば、「フントス・ポデーモス」は3つか4つの市を獲得した。
「キリスト教民主党」、「社会党」、「民主主義のために」、「急進社会民主党」の諸政党からなる「コンセルタシオン」は、市長選において45パーセント弱の票を、地方議会選で48パーセントの票を集めた。
一方、「独立民主連合」と「国民革命党」から成るチリの右翼同盟は、45〜47パーセントを獲得するという予想を遙かに下回り、市長選ではおよそ39パーセント、市会議員では38パーセントの票しか獲得できなかった。
「この勝利は「コンセルタシオン」出身の男女が2006年3月以降もまさしくここに存在することを保証している。」と、穏健社会主義者のリカルド・ラゴス大統領は、日曜日の夜、熱を込めて述べた。
ビダルは、「コンセルタシオン」への支持が政府の予想を超えたものであったことを認めた。
地方選挙の結果は、ラゴスの任期が2006年3月に終わった後にも与党同盟が政権にとどまっているであろうという明確な可能性への扉を開いた。
そして、小さい諸党派の同盟「フントス・ポデーモス」は、2000年1月の時のように、大統領選挙の決選投票の結果を決定する際に極めて重要な役割を再度演じそうである。2000年の時には、投票数において今よりも影響力が少なかったのではあるが、共産主義者とその同盟者は、選挙の第二ラウンドでラゴスを支持して、右翼の候補者ホアキン・ラビンとの均衡をラゴス有利の方へと覆したのである。
「コンセルタシオン」の大統領立候補者の主要な志望者のうち、二人が女性である。ひとりはキリスト教民主党の元外務大臣ソレダ・アルベア、もうひとりは元国防大臣で社会主義者のミシェル・バチェレがそうである。
「明らかなことだが、レサー・イーブル(よりましな者)を支持しなければならないというチリの左翼の“カルマ(宿命)”からすれば、我々にとっては、第二ラウンドで、ラビンに対抗してミシェル・バチェレに投票する方が、ソレダ・アルベアやその他の競争者に投票するよりも、つらさは少ないということになるだろう」と、共産党の長期にわたる支持者であるオルテンシア・ロペスは、月曜日にIPS(INTER
PRESS SERVICE)に語った。
[ブラジル]
しかし、ブラジルの与党、労働党(PT)は、数年にわたって徐々に中枢へ向かって接近していき、2003年1月に権力を掌握したのだが、ウルグアイの左翼「拡大戦線」、ベネズエラのチャベス派、およびチリでの与党連合が享受した成功を共有しなかった。
実際、労働党の党首ホセ・ヘノイノは、南部の都市サン・パウロ(ブラジル最大の都市)とポルト・アレグレを失ったことを「重大かつ重い敗北」として認めた。
労働党は10月3日に地方選挙の最初のラウンドにおいて最大多数を取ったのだが、決選投票が行われた44の大きな都市で、新たな敗北を被った。
PSDBに敗北したサンパウロ以外でも、労働党は2つの重要な州都、クイアバ、およびクリティバの市長職を同じ党の手にに手渡さなければならないだろう。
さらに付け加えると、労働党は、ブラジルの主要な港サントスおよびカンピナスの産業大学都市のようなサンパウロ州の豊かな人口の多い都市を治めることはもはやできなくなるだろう。
そして、労働党は、東北部のセアラ州の州都フォルタレサで予期しない勝利を獲得したが、それは意見を異にする候補者ルイシアンネ・リンスと共闘して、そういう結果を得たのである。投票の最初のラウンドでは、彼女は労働党執行部によって拒絶されていた。党執行部は、労働党を支持している共産党のイナシオ・アルーダを支持していたのである。
200万以上の人口がある都市でのリンスの勝利は、労働党の何人かの候補の敗北と同様、ルラ大統領によってとられている保守的な経済政策を批判する党内の流れを強めた。
ポルト・アレグレの労働党候補ラウル・ポントは、今この間の党の貧窮な実績の責任を、主に連邦政府によって実施された不人気な対策に負わせた。例えば、年金受給者に困難をもたらし、最低賃金のごくわずかな上昇しかもたらさない社会保障システムの改革のような方策である。
ポルト・アレグレは、労働党にとって特別な象徴的な価値を持っている。労働党は16年間この地を治めてきたのである。この都市は、参加型の予算案作成のような、多くの成功した経験を生み出した場所であった。この参加型予算案の作成によって、党は統治の経験を得、党が進歩的な意見を実行に移すことができることを示してきたのである。
しかし、ポルト・アレグレは小さな中道左派の諸政党の力の強まりが見られた都市の1つであった。人民社会党(元共産党)の候補者ホセ・フォガサは、そこで市長のポストを勝ち取った。また、この党は、北部のロライマ州の州都ボア・ビスタを手に入れ、他のいくつかの大きな都市も同様に手に入れた。
昨年ルラを見限った民主労働者党は、3つの州都を取った。ブラジル社会党も同様に3つを獲得した。社会党はまだ、労働党に主導された同盟の一部としてとどまっている。
* [ベネズエラからはウンベルト・マーケス、チリからはグスタボ・ゴンザレス、ブラジルからはマリオ・オサーバが報告する。]
モンテビデオ(ウルグアイ)――今週末の4つの選挙で、左翼はラテンアメリカの中に、より深く入り込んだ。それは、危機に疲れ果てた有権者が、何十年もの間の米国に支持された市場改革にうんざりし、より良い富の分配を伴った経済成長の実践的な綱領に好意を寄せたからである。
ブラジル、チリ、ベネズエラで、左翼が今後の大統領選の基本傾向を設定できるような地方選挙における勝利を刻んでいる間に、歴史的な勢力配置の変化の中で、小国のウルグアイが、左翼の元首を選出した最新の南米の国となった。
写真:2004年10月31日、「フレンテ・アンプリオ連合(「拡大戦線」)党」の大統領候補タバレ・バスケスが、モンテビデオの党本部のバルコニーから、支持者たちに挨拶をしているところ。
64才の医師バスケスは、最近の経済恐慌によって損なわれた国における社会変革と正義を求めるキャンペーンを行って、ウルグアイの最初の左翼の大統領となることになった。
(アンドレス・スタッフ/ロイター)
|
ウルグアイの最初の左翼の元首となるタバレ・バスケスは、初期の激烈な左翼的提案を弱め、ウォール街で高く評価されているダニロ・アストーリを経済大臣として選び、3度目の挑戦で大統領の職を勝ち取った。
ウルグアイは、米国の伝統的な「裏庭」において米国に貿易と外交で挑戦を行なっている左派または中道左派が治める南米の国々−−アルゼンチン、ブラジル、チリ、およびベネズエラ−−の有力なクラブの仲間入りをする。
最近の10年間、外国からの投資に国を開放する自由市場政策は、しばしば経済的な大惨事に終わった。特にアルゼンチンとウルグアイのような、かつての豊かな農業国で、現在は、数百万人が十分な食事を得ていないのである。
しかし、これらの国の多くでは、最近の健全な速度での経済発展にもかかわらず、緊縮財政から脱却することができず、投資家の信頼を失っている。これらの国の債務負担はあまりにも大きく、そして経済は外国からの投資に大きく依存しているのである。
バスケスは、ブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ大統領が、彼の主要なインスピレーションであると述べている。アナリストによれば、ルラの左翼的プラグマティズムは、緊縮財政政策と社会福祉を増進するための努力とを結合させているのだが、それがこの地域一帯でよく知られるようになってきている。
「南米の民主主義は成熟し、より類似してきている。」と、ブラジリア大学の政治アナリストのデヴィッド・フレイシェルは述べた。「そのことは、南米の人々が米国との貿易交渉のような領域で、より統一された立場をとるかもしれないということを意味する。」
ブラジルとチリは大統領選を展望
ルラが権力を獲得した2年後、彼の労働党は、日曜日の地方選挙で、金融と産業の中心サン・パウロを含む3つの大都市を失った。しかし、労働党の後退は、ルラよりもむしろその地方特有の問題であるとされた。
労働党の候補は、およそ5,600の地方自治体の選挙全体で見れば順調だった。労働党は、2006年の大統領選を2年後に控えて、伝統的な拠点を超えて、党の存在感を広げた。
チリもまた、日曜日の市長選は、2005年の大統領選挙戦のためのリトマス試験紙となった。
15年間チリを統治してきたリカルド・ラゴス大統領の中道・左派連合は45パーセントの得票を得、右翼反対派は39パーセントだった。
政治学者によれば、この勝利は、最近の3つの市長選挙よりも僅差ではあったが、与党連合にとって朗報であるということである。
「レイム・ダック(飛べないアヒル)になる寸前のようにみえた大統領は、高く、高く飛翔している。」と、ニューヨーク大学の政治学者パトリシオ・ナビアは言った。
ベネズエラでは、予想結果によれば左翼であるウーゴ・チャベス大統領に忠誠を誓う候補者が23のうち少なくとも18州の知事の職を勝ち取り、そして、影響力の大きいカラカス市長のポストを勝ち取ったことを示した。
1998年に初めて選出された火付け役の人民主義者チャベスは、彼に対する2002年の短いクーデターを支持したということで彼が非難していた反対派知事と市長を追い出した後、彼の社会改革を強化すると誓った。
それは、8月の国民投票における大統領の勝利によって意気消沈させられた反対派にとって、壊滅的な敗北であった。
「少なくとも次の2年間の現実は、チャベス大統領が、いっそう強固な政治権力を掌握しているというのが現実だ。」と、ニューヨークのベア・スターンズのアナリスト、ホセ・セリテリーは述べた。
チャベス自身の勝利とこの地域の他の左翼の勝利に勇気を得て、チャベスは月曜日に宣言した。「革命はまさにここにあり続ける。」そして「ラテンアメリカの偉大な人民が今まさに昇りつつあるのだ。」と、
(ブラジリアからはアンドリュー・ヘイ、サンティアゴからはフィオナ・オルティス、カラカスからはパスカル・フレッチェルが報告。)
モンテビデオ、10月30日(IPS)――最近の世論調査によれば、明日の日曜日の大統領選において、ウルグアイの「左翼拡大戦線連合」が、少なくとも50パーセントを獲得して初めて勝利する見込みである。
(訳注:この記事は投票日直前の土曜日に書かれたものである。)
そうなれば、左翼候補タバレ・バスケスは、最も接近した競争相手、中道主義の国民党のホルヘ・ララニャーガとの11月28日の決選投票を避けることができるであろう。
今週水曜日の首都での「エンクエンテロ・プログレシスタ‐フレンテ・アンプリオ‐ヌエバ・マヨリタ同盟(「拡大戦線」の現在の名称)」の選挙運動閉会集会は、およそ30万から50万人の参加者とみられ、ウルグアイの歴史の中で最も大きい政党集会であった。
木曜日に国の5つの世論調査会社によって公表された最新の調査によると、社会主義者のバスケスは日曜日に50〜56パーセントの票を得ると予測されている。一方、ララニャーガは27〜32パーセントとなっている。
もし、この推定が日曜日に実現すれば、左派の歴史的な勝利の衝撃は、この国の政治システムを深く再編することによって、制度的に組み込まれるであろう、とアナリストのヘラルド・カエターノ(公立共和国大学の政治学研究所所長)はIPSに語った。
彼の説明によれば、この場面におけるララニャーガの登場は、国民党が右寄りから中道へ変化していることを示している。国民党は、ルイス・アルベルト・ラカリェ元大統領(1990-1995)に率いられて、過去20年にわたって、新自由主義経済政策を信奉する中道右派の潮流に支配されてきた。
もうひとつの注目に値する現象は、与党コロラド党の人気のかつてない急落である。コロラド党の候補者ギリェルモ・スティルリングは、10パーセント以下の票しか取れないと予想されている。
コロラド党は、独立国としての174年間のほとんどの期間、ウルグアイを統治してきた。例外をなすのは、19世紀の内戦期と、ごくわずかな国民党政府の期間、および20世紀の2つの独裁の期間(1933-1934と1973-1985)である。
ウルグアイの340万人の人口のうちの240万人以上が日曜日に投票するであろう。(投票は義務である)。
新大統領の選出に加えて、下院の99の全議席および上院の30の議席が投票にかけられる。
(訳注:投票のためには事前に選挙人登録をしなければならないが、これは任意である。登録した人は義務的に投票しなければならない。)
完全な勝利を手にするためには、バスケスは、50パーセントプラス1票を取る必要がある。
議会選挙は特別に重要な意味を帯びた。というのも、左翼連合が、議会の両院で過半数を得ることになれば、ある特定の法を制定するのに必要な特別の多数を得るために、最も強硬な反対派を無視して、ララニャーガに率いられた議員たちの支持を話し合いによって取り付けること――それはまったく実行可能であるように見える――が可能になるからである。
1990年代に新自由主義を吹き鳴らす楽隊車の上で飛び跳ねていた二つの伝統的な党と左翼を分かつ亀裂は、現在のコロラド党ホルヘ・バトリェ大統領の政府によって、いっそう深められた。
古い政治家の一族出身であるこの老練な政治家は、彼の前任者、コロラド党の党首フリオ・マリア・サンギネッティ(1985-1990と1995-2000)、およびラカリェ(国民党1990-1995)の新自由主義政策をいっそう集中的に推し進めた。
しかしバトリェは、彼の任期の終わりに来て、彼自身の党の一部と国民党の信頼を失い見捨てられてしまった。彼の政権のほとんどの期間、それは水も漏らさぬ同盟だったのだが。
同様の政治的コストを、いまや、中道右派のサンギネッティとラカリェはともに支払わされている。彼らは、1985年の民主主義の回復以来、基本的に両者の連合政権で統治し、独裁の下で人道的犯罪を犯して有罪となった人々のために恩赦法案を作成した。独裁下のウルグアイでは、この地域一帯の中で人口に比例して最も数多くの政治犯と拷問による犠牲者が存在していた。そして今や、彼らは、バトリェ政府のもとで起こった2002年の社会経済的な崩壊についての責任を分有しているものと見られている。
2005年3月1日に、国の舵取りを日曜日の選挙の勝者に引き渡すことになるコロラド党政府は、マクロ経済の強固な実体を後に残していくであろう。それは、より高い国際商品価格と市場参入の拡大によって恩恵をこうむった農産物輸出部門の良好な経済活動状況によって、強化されている。(乳製品、革、肉、羊毛がウルグアイの主な輸出品である。)
しかしながら、これらの改善は、大部分の人々にとっては実感されていない。2002年経済恐慌以来、人口の31パーセントが貧困に陥っており、収入も就職率も回復していないのだから。
1998年に始まった景気後退は、2002年の経済崩壊の前触れであった。この2002年には、財政および通貨危機で、去年の6月までに公的債務が、およそ130億ドル――国民総生産(GDP)の105パーセント――にまで膨らんだ。
銀行の不正、破産した銀行、貯金を失った預金者、天井知らずの失業、減少する収入と労働条件の悪化、社会的に排斥された人々とスラム地域の増加、膨れ上がった貧困は、かつてラテンアメリカのスイスとして知られていたこの国を、ウルグアイ人にとってなじみのない光景に一変した。
生産は2000年から2002年の間に15パーセント以上急落し、ペソは2002年に1ドル15ペソから1ドル29ペソにまで下がり、失業率は20パーセントというこの国の新記録をつくり、そして、実質所得は25パーセント縮まり、貧困ライン以下の生活を送る人々の数は倍増し、ウルグアイ人の子供の54パーセントが今日貧困のうちに生活しているという点にまで達した。
しかし、2003年以来の堅実な経済成長は、バスケスとララニャーガのどちらもが約束した変革を実行するにあたって、新政府に一息つく余裕を与えるであろう。両者の約束した変革は同一の方向を指し示してはいるが、多数の相違点も抱えている。
1971年に創立された「拡大戦線」は、社会主義者、共産主義者、社会民主主義者、中道左派のキリスト教民主主義者、かつての都市ゲリラ、そして二つの伝統的な党を見捨てた政治家たちの、広範な混合体として成立した。
左翼同盟は、ウルグアイの生産機構を強化し、社会的な緊急事態に対処し、科学技術における創造性と研究開発を育成し、民主的な参加を深め、この国がこの地域一帯と完全に結びつくようにすると誓約した。
また、「拡大戦線」は、マクロ経済のバランスを維持し、富の再分配に強調点をおき、貧困と闘い、金融システムを制御する国家の役割を強化し、民間部門と協力して生産を刺激しながら、責任ある統制の取れた財政政策と公的債務政策をとることを約束している。
さらに加えて、バスケスは、20年間以上にわたって構築されてきた権力の腐敗とその仕組みに対して攻勢に出ること、軍から独裁的過去の残存物を一掃すること、1970年代にウルグアイとアルゼンチンで強制的失踪の犠牲者になったおよそ200人のウルグアイ人がどうなったかを調査するために、人権問題に前向きの姿勢を取ることについて語った。
ララニャーガもまた、国の生産を押し上げ、貧困と闘い、統一南部共同市場(メルコスール)貿易ブロックにいっそう大きな焦点を置くと述べた。その貿易ブロックは、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、およびパラグアイから成るものである。
バスケスとララニャーガの両方がともに取っているメルコスールへのアプローチは、左傾化したアルゼンチンのネストール・キルヒナー大統領とブラジルのルイス・イナシオ・ルラ・ダ・シルバ大統領によって共有されたポジションと軌を一にしている。
しかしそれは、南米のブロックより合衆国との結びつきに強い優先順位を置いたバトリェ政府の外交政策と鋭い対照をなしている、と国際関係の専門家のアルベルト・メトール・フェレは述べた。
アナリストのカエターノは、2人の最有力候補のいずれであっても、ワシントンの現在の世界観から遠く離れた統一メルコスールを支持する方向に転換するであろうということで意見が一致している。
しかし、バスケスは、2003年10月にアルゼンチンの首都でキルヒナーとルラが署名した「いわゆる“ブエノスアイレス共同声明”に、ララニャーガよりはずっと近いところに」いる、とこのアナリストは強調した。
上記の文書は、1990年代にラテンアメリカのほとんどの国によって採用された新自由主義的自由市場経済アプローチを拒絶し、社会的な平等と南米の利益擁護を伴った経済成長に焦点を当てる、代替的な共通の道筋について概説したものである。
日曜日にどの候補が勝つかにかかわらず、アナリストたちは、選挙によってこの国がポスト新自由主義時代の中に確実に位置することになるという点に関して、何ら疑問をもってはいない。
そして、バスケスの勝利という最も起こりそうなシナリオは、ベネズエラだけでなく、隣接しているブラジルとアルゼンチンでも既に見られたように、ウルグアイを、左方向にシフトさせ、これらの諸国と同じ方向に向けさせるであろう。
(以上)
|