子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA


S031023 学校災害 2008.3.9新規
2003/10/23 愛知県知多市の市立中学校ソフトテニス部の早朝練習で、竹内孝行くん(中2・13)が喘息(ぜんそく)の発作を起こし、保健室に行くが鍵が開いておらず、倒れているところを発見される。救急車で搬送されるが、多臓器不全、低酸素脳症、気管支喘息重積発作により死亡(10/29)。
経 緯
10/23 7:20頃 ソフトテニス部の朝練で徐々に部員が集まる。
7:30頃
  
 〜

7:50頃
朝練開始。
ランニングの途中(750メートルトラックの1周目)で竹内くんは腹痛を訴えるが、2周目の最後まで走りきった。ぜんそくの発作を起こしたと思われる。部長の許可を得て休憩する。
竹内くんは保健室に向かうが、早朝で鍵があいておらず、養護教員も不在。
様子を見にきた友人に、「先生を呼んできて」と頼む。友人は2階にある職員室に教師を呼びに行った。
保健室前の手洗い場のコンクリートの上に仰向けに倒れているところを他の部員に発見される。頭から血が出ていた。
7:50 救急車を要請。
7:53 救急車到着。救急車から病院に、「通学途中で倒れた」と第一報が入る。
竹内くんは意識がなく、頭から血が流れていた。
8:00頃 母親に学校から「竹内くんが倒れて意識がありません。救急車を呼んでいますので、お母さんも来てください」と連絡が入る。
8:09 処置をして出発まで16分かかる。母親と学年主任が救急車に乗り込む。
8:10 救急車から病院に、「朝練のランニングで気分が悪くなり、医務室に行ったが倒れた」と第二報が入る。
8:11 救急車内で、心肺停止状態。
8:22 市民病院に到着。
  重症のため大学病院に転院。
10/29   多臓器不全、低酸素脳症、気管支喘息重積発作により死亡。
担当医師の意見 2005/6/23 事情聴取。
竹内くんの場合は、保健室まで歩いているので、この時点では気管は狭くはなっているかもしれないが、痙攣(けいれん)を起こしていないし、詰まっていなかったはずである。発作(ほっさ)は小発作から大発作に移行するが、この時点では小発作の可能性がある。体内に酸素を取り込むことができた。
保健室でボンベを使っていれば、救命の可能性はあった。
ボンベを使えば呼吸が楽になり、精神的に、気分的に楽になった可能性がある。
たとえ救急車中で心肺停止になっても、低酸素脳症は軽くなっていた可能性がある。

2005/7/15 意見書
平成15年10月23日に竹内孝行さんが朝練をしていて、急に呼吸困難になって自力で保健室に行った時点では、生徒たちの手記から、中発作の状態であったと推測される。
この時点で酸素ボンベによる酸素吸引が速やかに行われるならば、救命の可能性があったと思われる。しかし、保健室は施錠されていた。これによる精神的なダメージは大きく、喘息発作悪化(中発作から大発作への移行)をきたした可能性も否定できない。

※保健室には酸素ボンベがあった。
救急隊員からの
事情聴取
通報内容は「運動中に気分が悪くなった」ということだけだった。多量ではないものの頭部から出血していた。
通報内容と違っていたため、状況を把握するのにとまどった。一般的な外傷の処置から行った。
処置の途中で、母親か、教師からかどちらかから、喘息の持病があることを伝えられて知った。
証言の不一致 ・竹内くんの姿勢について、生徒たちは「、保健室前の手洗い場に座っていたが、その後、仰向けになった」と話した。
救急隊員は、「座っている状態で、多量ではないが、頭から血が流れていた」と話した。
教師らは、「孝行くんは倒れていた」と話した。

・喘息の持病の説明について、救急隊員3名は到着時に状況や持病について説明を受けていないというが、教師は救急隊員に、最初にはっきりと喘息であること告げたという。
事故報告書 学校は数名の生徒からの聞き取りで報告書を作成。

・時計も持っていないため、正確な時間はわからず、また事故現場を誰も見ていなかったにもかかわらず、竹内くんの行動が分単位で記入されていた。
・報告書には、練習の指示をしたのは部長であるのに、教師が指示をしたと書いてあった。(報告書の間違いを学校側が認める)
保護者の対応 事故10日ほど前に、保護者は教師に「春や秋には特に喘息の発作がおきやすいので注意してほしい」「とくに走るときは無理をしないように気をつけてほしい」と頼んでいた。教師から「対応マニュアル」があり、教師全員が把握していると言われて安心していた。

事故後、両親が学校側に、どうしてこのような事故が起きたのか、どうして防げなかったのか、どうしたら防げたのか、何度も聞いたが、何の回答もなかった。

弁護士に事実調査を依頼。自分たちで調査に乗り出す。

教育委員会にも訴えるが、何もできないと言われる。
背 景 前日まで中間テストで疲れ気味だった。
当日の練習プログラムは生徒が決めていた。
2週間ぶりの練習だったにもかかわらず、準備運動もおこなわず、いきなり750メートルを2周する練習を行っていた。
それまで、朝練で外周を走ったことはなく、いつもはコートの中で軽くラリーを行っていた。

竹内くんは、ペア替えや部活動のことで悩んでいて、学年主任の教師に相談していた。
(※ストレスが喘息発作の重大な引き金になることがある。)
顧 問 顧問は4月に他校より転任してきたばかりで、テニスの経験がなく、朝練に常時遅刻していた。テニスシューズさえ持っていなかった。
保護者たちは顧問の指導に不安を感じて、外部コーチの要請依頼をしているところだった。

竹内くんが喘息であることを知っていた。

生徒に相談なく急に、約1年近く組んでいたペア替えを行った。

事故当日(10/23)、顧問は午前7時35分頃登校。部活動の朝練には立ち会っていなかったため、健康観察も行っていない。練習メニューの変更があったことも知らなかった。

竹内くんが入院中、一度だけ病院に来るが、保護者と顔を合わせることなく、説明や謝罪もなかった。

竹内くんが亡くなった翌日から、いつもどおりの練習を再開。保護者に対する説明会も行われなかった。その後も、ソフトテニス部の顧問を続ける。

両親からの要望で、教頭と一緒に自宅に来て、淡々と質問に答えた。
その後も両親が「話を聞かせてください」と言ったときのみ、校長や教頭と来訪(計4、5回)。
四十九日や一周忌、三回忌などにいっさい顔を出すことはない。

2007/4/ 両親が相談していた市議と一緒に会いに行くが、「わざわざ家まで押しかけて何をしにきたのか」「私も苦しんでいます。辛いです」「前に申し訳ありませんと言いました」と言われる。

学校ほかの対応 竹内くんが入院中、教師は交代で病院に来る。面会謝絶にもかかわらず病室にノックして入室する。

全校集会で校長は、「たかひろくんは、みんなに命の大切さを教えてくれた」と生徒に話した。
名前が違っており(正しくは、たかゆきくん)、亡くなった日にちも間違っていた。
亡くなった経緯の説明はなく、亡くなった事実だけを伝える。

一週間たっても学校から事故の詳しい報告はなく、保護者の要請を受けてようやく、教頭と部活顧問が遺族宅を訪問。

事故のとき顧問が不在だったことについて、校長や教頭は、「部活動は学校管理下で行っていますが、教師のボランティアみたいなものですから、先生にきてもらうようお願いはできますが、強制はできません」と言う。

学校で当日の事故の検証も行われず、納得のいく説明もなかった。

2005/3/ 遺族に、卒業アルバム、卒業証書もない。

2005/4/ 事故から1年半後に、事故当時いた教師4、5人が転出。

2006/8/17 事故から3年後、遺族が調べた内容をもとに教師あての質問状を送付。

2006/9/12 回答を得る。

2006/11/20 教育委員会からの回答で、「部活動のあり方」「救急車要請時の対応」「緊急時に備える救急用品の管理」「自己管理能力の育成をめざした指導の徹底」「健康管理カードの刷新」などの危機管理の充実がはかられたこと、平成18年に保健室の移設工事をはじめたことを知らされる。

その後の
生徒の対応
竹内くんが亡くなった翌日、クラスメイトが集まって、どうしてこうなかったか自分たちなりに考えて話し合いをもとうと計画していたが、教師から「そんなことをしても孝行は喜ばない。部活をしろ」と怒鳴られて、泣きながら部活をしたことを聞く。

2003/12/5付けで、生徒会執行部が、「部活動改善案」出す。
1.ねらい
 今の部活動の欠点を改善し、より安全に生徒が活動できる環境を整える。

2.活動条件
・朝部の時間帯はかならず保健室の鍵を開ける(先生が1人つく)。 −事故後も開いていない。                    
・酸素の吸入器の場所を確認する。使い方や処置、対応の確認。
・先生がいない時の部活動はなくす。
・部活動ごとに保健係を作る。

3.これからの活動案
◎人工呼吸・心臓マッサージなど緊急時の応急手当のやり方を体験活動、講義等で、生徒一人一人が身につける。

生徒会が学校に提出するが、教師から「それはできない」と却下される。数ヵ月後に突然、改善案に沿った取り組みが許可される。
これらのことを竹内くんの両親は、学校からではなく、生徒たちから聞く。

2003/12/11 事故から4ヶ月後、子どもたちの協力を得て、遺族宅で当時の状況について聴く。

2005/3/ 卒業式のときに、仲のよかった友人が遺影をもってくれる。

三回忌に50名ほどの生徒が遺族宅を訪問。教師からは誰一人連絡がなかった。
毎年の命日には大勢の子どもたちが集まってくれる。
その後の
保護者の活動
真相究明のための第三者機関の設置を求めて、文部科学大臣に質問書を提出するなどの活動を行う。
参考資料 「君に逢いたい。 竹内孝行思い出集」、2007/7/17中日新聞、ほか



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