わたしの雑記帳

2006/7/10 服部太郎くの裁判(2006/7/10)傍聴報告


今日(2006/7/10)、東京高裁824号法廷にて、服部太郎くの裁判が結審した。
今回も、原告の太郎くんは法廷に来て、当事者席でじっとやりとりを見守っていた。
原告側から提出予定だった前回の証人・白川美也子先生が引用した論文の日本語訳が提出される予定だったが、間に合わず、代理人弁護士が「今日中には必ず提出します」と頭を下げていた。

最後に房村精一裁判長が被告代理人弁護士に、和解の可能性について確認した。少年らの代理人は「とうてい呑めない」とはっきりと拒否した。
9月27日(水)1時15分から、判決言い渡しと決まった

わずか10分程度で閉廷。その後、代理人の杉浦ひとみ弁護士から説明があった。
高裁に入って4回。裁判所から言われて、和解の話し合いにのぞんだ。
そのなかで、原告側としては、心からの謝罪と、事実を認めることを一番に望んだ。「真摯な謝罪があれば、金銭条件はつけない」というところまで譲歩した。
裁判官も、この事件に関しては、金銭のみで解決しないほうがよいのではという考え方だった。

しかし、被告の少年たちは裁判所に出向いて謝罪することを断固として拒否。とくに、直接暴行をふるったわけだはなく、マンションに大勢でおしかけた少年たちは、自分たちは事件になるようなことは何もしていないという思いが強い。そのことが、太郎くんにどれだけの恐怖を与え、心に大きな傷を残したか、思いいたらない。

集団暴行事件で、周囲を取り囲んでいた子どもたちが、自分たちは手を出していない、見ていただけ、それのどこが悪いと主張するのと同じだ。
周囲の子どもたちにとっては単なる見物であっても、やられているほうにとっては無言の圧力になる。反撃すれば、周囲からボコボコにされるのではないかと思えば、気力も萎える。集中力も分散する。
見ていただけ、直接、手出しはしていない場合、少年法では無罪放免なのかもしれない。
しかし、本当にそれでよいのだろうか。

太郎くんの事件でも、おそらく、加害少年たちをきちんとサポートする大人たちはいなかったのだろう。いまだに何の自覚もない。せっかく、親子して生き方を見直すチャンスを与えられた。しかし、被告側にそれを生かそうという思いはない。
そのことは、被害者にとってだけでなく、何より当人たちにとって不幸なことだと太郎くんのお母さん、そして原告の弁護士らは嘆く。

和解には、民事裁判で請求できる金銭以上の条件をつけることができる。再発防止や謝罪などを求めることができる。金銭目的の裁判でない以上、和解にもっていきたかったというのが、裁判所や原告弁護士らの考えのようだ。

しかし、たった1回、たとえば裁判官のいる前で、謝罪の言葉を口にし、頭を深く下げたとして、それがほんとうに真摯な謝罪といえるのか、私は疑問をもっている。
裁判が終わったとたん、「終わった、終わった」と肩をたたきあい、ケロリと帰る加害者たちの話をいやになるほど聞いている。そういった子どもたちは、必ずのようにまた同じことを繰り返す。
麻痺した感覚は、さらに行為をエスカレートさせ、一度目より二度目は取り返しのつかないところまで行ってしまう。そのときになって後悔しても遅い。

形だけの謝罪で、なかったことにしてもらえる。大人はだましやすい。子どもたちにそう思わせてしまうだけだとしたら、和解などしないほうがよいと私は思っている。
子どもだけでなく、大人たちもわが子のしたことの重大さを今もって認めようとはしない。ただ、請求された金額にのみ驚き、自分の子どものしでかしたことの意味を深く考えようとはしない。
親も子も、金銭的なことでしか、自分のやったことの責任を感じられないのだとしたら、金銭という形ででも、責任を感じさせるべきだと思う。自分たちのやった行為は何らかの形で、償わなければならないレベルのものだと知るべきだと思う。

一方で、加害者も親も反省がないというところに、太郎くんのPTSDが今もって完治しない理由がある気がする。「あいつらはきっと逆恨みするだろうな」。言葉だけでなく、実際に死ぬほどの思いを経験した彼は、きっと恐怖を感じているのに違いないと思う。
加害者が心から反省しない。再び繰り返すおそれがある。そう感じられるかぎり、本当に心の傷が癒えることはないかもしれない。安心して生きる権利は今も脅かされたままだ。

ただ救われることがある。太郎くんにしても、そのお母さんにしても、理不尽に受けた一方的な暴力をただ恨むのではなく、自分たちの生き方に反映させている。なぜ、このようなことが起こるのかをずっと考え、一個人のこととしてではなく、社会問題として捉えなおし、地道な活動を今日まで続けている。自分たちの得られなかった安全、安心を地域のなかで、連携することでつくっていこうとしている。

裁判所にできることはきっと限られていると思う。
しかし、裁判所には、体への暴力だけでなく、心への暴力をきちんと傷害として認めてほしい。
大勢でやれば、誰も責任を問われないという現状から、一人ひとりの責任をきちんと認めさせてほしい。
今も苦しんでいる多くの被害者たちに力を与えるような判決がほしい。





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