2006年2月21日(火)、午前10時30分から、横浜地裁503号法廷で小森香澄さんの裁判が、ついに結審を迎えた。
香澄さんが自殺をはかったのは、1998年7月25日。亡くなったのは2日後の27日。
それから約3年後の2001年7月、不法行為の時効ぎりぎりに、民事裁判に踏み切った。
それから4年半。弁護団は最後まで気を抜くことなく、この日、提出された最終準備書面は161ページにわたったという。
その要点だけを簡潔にまとめて、原告弁護団を代表して栗山博史弁護士が、意見陳述を法廷で口頭で述べた。
この裁判の特徴として、
1.言葉による「いじめ」であるということ。
被告側は、「注意」や「叱咤激励」「要求」「意見」の範疇であって、「いじめ」ではないと主張した。
実は、女子間の「いじめ」の多くは、言葉や態度によるものであり、法務省人権擁護局が1994年に中学生1万3444人を対象に行った調査でも、「いじめ」の内容は、女子の場合、「口をきいてくれない」「自分に聞こえるように悪口を言われる」「陰で悪口を言われる」の3つが全体の8割を占めたという。また、過去の報道でも、言葉による「いじめ」を苦に自殺した例が数多くある。
こういった現実から、暴力さえなければいいなどとのん気に構えるのではなく、暴力を伴わない言葉のやりとりのなかに、「いじめ」が潜んでいる可能性を認識して、大人が介入することが必要な「いじめ」か見極めなければならない。
2.被告らは「目撃者がいない」ことを理由に、「いじめ」はなかったとしている。
犯罪であっても目撃者がいないことは多いが、間接証拠や被害者の供述によって事実が認定され、犯罪の証明が行われる。
「いじめ」は陰湿、隠微なもので、人目を忍んで行われる。そして、被害者の香澄さんは自死により亡くなっており、語ってもらうことができない。
しかし、香澄さんは生前、友だちに相談していた。香澄さんの先輩も指揮者のH氏のところに何度も相談に行っている。また、母親の美登里さんにも訴えていた。メンタルクリニックや青少年相談センターでも話していた。
7月24日の電話は録音されており、香澄さんは亡くなる当日、友だちに「いじめられている」と相談した。
「いじめ」は、なかなか被害者が打ち上げることができないものだが、香澄さんの場合はさまざまな形でメッセージを発していた。そのメッセージが嘘ではないと、真剣なものだと受け止めたからこそ、友だちや先輩は相談したり、注意したりという行動に移していた。
目撃者がいないとして「いじめ」を否定することは、香澄さんが発していたSOSのメッセージをすべて否定することになる。
3.香澄さんの自殺に関する法的責任について、香澄さんは学校に行けなくなっていた最中であり、現象的には家族に最も近接した時間的、場所的関係のもとで起きていることから、被告らは家族の責任が問われるべきだと主張している。
しかし、香澄さんは高校1年生で、友人、仲間を特に重視する年代。とりわけ、吹奏楽部にあこがれて野庭高校に入学した香澄さんにとって、学校に行けないということは苦痛だったはず。
だからこそ、母親の美登里さんも、「いじめ」解決のために何度も学校に通い、青少年センターやメンタルクリニックにも通わせた。
香澄さんが学校に行けなくなれば、とくに母親の美登里さんは専業主婦なので、香澄さんに関わる時間は必然的に長くなる。互いに衝突することもあった。しかし、「いじめ」で学校に行けないという異常事態に、常に「親子仲良し」「円満」ということのほうが、親子関係としてはいかにもうそ臭い。
香澄さんと美登里さんの親子関係が良好だったからこそ、カッターナイフのエピソードのあとも、たとえば21日には、美登里さんが夜、コンビニに買い物に誘うと香澄さんは喜んでついてきた。
またそのときには、香澄さんは「優しい心が一番大切だよ。その心を持っていないあの子たちのほうがかわいそうなんだ」と美登里さんに語った。
このように、香澄さんのために努力してきた原告らに比べて、学校側は努力しなかった。本気になれば、「いじめ」の事実を容易に知りえたにもかかわらず、何もしなかった。被告生徒らに指導ができるのは学校だけなのに。苦しんでいる香澄さんを受容するという最も基本的なことさえしなかった。
亡くなる1週間前の7月18日、香澄さんは、被告Aさんを「沈めたい」と言い、しかもAさんは変わらないから、自分が変わるしかないというあきらめともいえる心情を告白した。
しかし、学校の先生たちは、「様子をみる」といえば聞こえはいいが、ただ聞き流した。
もし、このときに学校の先生たちがAさんからどんなことを言われていたのかを具体的に尋ね、「それは本当に辛かったなぁ。でも、そんなに思いつめるなよ。先生が必ずもう二度とそんなことを言わないよう指導するから安心しろ。お前は絶対に間違っていないから」といったように、香澄さんを受容してくれていたら、香澄さんはどんなに救われたか。
学校が何もしないから、「いじめ」は継続し、香澄さんは学校に通えるはずはなく、苦しみ続けた。香澄さんを支えるのは家族だけになってしまい、常に家族が矢面に立たされた。
香澄さんの悩みの根本原因を解決できる立場にいる学校側が解決のために何もしなかったということが、本件の最大の特徴であり、法的責任を厳しく問われるべき。
裁判所には、無念にも15歳の若さでこの世を去った香澄さんの思いに応えていただきたい。
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そのあと、香澄さんの父親、小森新一郎さんが意見陳述を行った。原告側が申請していたにもかかわらず、法廷で証人として証言の機会が与えられなかった新一郎さんの唯一の機会だった。
陳述書には、この7年半の夫妻の生き方がよく表れていると思った。
香澄さんの死を一個人の死として捉えるのではなく、いじめ社会のなかで生きるすべての子どもたちの叫びとして捉えた。香澄さんの死を背負うと同時に、多くの子どもたちの死を、その思いを背負ってきた。
1998年7月25日、香澄さんが自死をはかった日、新一郎さんは部活動に向かう香澄さんと一緒に家を出た。階段のところで、香澄さんは「こわい」と言い、歩けなくなった。
その香澄さんを背中に背負い、新一郎さんは自宅に戻った。高校1年生。年頃の娘が父親の背中におぶさって帰るなど、よほどのことだろう。そして、親子の信頼がなければ、素直におぶさるはずもない。
帰宅してすぐに香澄さんはトイレに入り、そして、制服のネクタイで首をくくった。
法廷では時間の関係で、当日の詳しい様子などは一切語られなかった。新一郎さんは用意した文書を淡々と読んでいた。「私自身が自殺当日に直接香澄の口から聞いた『怖い』という言葉も、まさに彼女の最後の悲鳴であったと思います。」
きっと、当日の様子が脳裏によみがえっていたと思う。
感情を押し殺して、裁判官に、被告席に訴えかける新一郎さんとは対照的に、母親の美登里さんは、陳述の間中、席の後ろで泣いていた。
今も、夫妻は香澄さんをその背中から下ろすことはない。ずっと、どんなときにも背負い続けている。
「重い」「疲れた」と弱音を吐くこともしないで、その重みを唯一の形見として、大切に背負い続けている。
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裁判のあと、報告会が会場を変えて行われた。
弁護団はけっして楽観視していない。学校を相手どった裁判のきびしさ、いじめ裁判の難しさをよく知っている弁護団だ。
ある面で、最初から負けることも覚悟のうちで、それでも何もせずにはいられない、香澄さんの死をなかったことにはできない強い思いに支えられた裁判だった。
美登里さん、新一郎さんの口から、思いを込めた弁護団への感謝の言葉が何度も発せられた。
私自身、いじめ問題をこれほど真剣に、子どもの人権という視点で取り上げている弁護団をそう多くは知らない。しかも、ほかの子どもの人権を考える弁護団に比べると、栗山弁護士をはじめ平均年齢がぐっと若い。いつもいつも、弁護団からは熱い思いを感じとることができた。仕事としてというより、自らのライフワークとして真剣に取り組む姿勢が強く感じ取られた。
こうした弁護士たちがまた新たに核となって、子どもたちの人権を守る活動を推進していってほしいと願う。
小森さんの裁判の判決は、3月28日。午後1時30分から。おそらく503号法廷にて。
異例の速さで判決が出る。おそらく、この裁判に長くかかわってきた裁判長が、移動する前に自ら判決文を読み上げたいという思いがあるのではないか。
それだけ、裁判所にとっても、注目すべき裁判だったと思う。傍聴人も毎回、多かった。
そのことが吉と出て、よい判決が出ることを望む。
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