2015/5/1 | 「小さな命の意味を考える 〜あの日の大川小学校の校庭に学ぶこと」 佐藤敏郎先生の講演会(4/29)に参加して。 |
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4月29日、KIDS NOW JAPAN 主催の佐藤敏郎先生の講演会に、NPOの理事たちとともに参加した。 佐藤敏郎先生は、2011年3月11日発生した東日本大震災による津波で、全校生徒108名(当時、欠席や迎えに来てもらった校庭にいたのは70数名)中74名の児童が死亡・行方不明、10名の教員が亡くなった大川小学校で、愛娘・みずほさん(当時小6)を亡くしている。 そして、おととしまで女川の中学校で教員をされていた。今年、3月に教師を辞められた。現在、KIDS NOW JAPAN の活動やパーソナリティーをしている。 「小さな命の意味を考える会」http://311chiisanainochi.org/ 代表。 大川小については、池上正樹さんと加藤順子(よりこ)さんの「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」(青志社)、「石巻市立大川小学校『事故検証委員会』を検証する」(ポプラ社)を読んだ。 第三者委員会の報告書(http://www.city.ishinomaki.lg.jp/cont/20101800/8425/20140303164845.html)も読んだ。 また、NPO法人ジェントルハートプロジェクトで、昨年(2014年)8月24日に仙台で、11月23日に東京で、大川小のご遺族をお呼びして、ともに、『「学校事件事故に関する第三者委員会のあり方を考える」 〜第三者による調査委員会や検証委員会から何が見えてくるのか?〜』というテーマでシンポジウムを行っている。(雑記帳me141218参照) 様々な情報はすでに得ていたが、今回の講演のなかで、改めて自分のなかで少し整理ができた気がした。 佐藤先生の講演からポイントをいくつかピックアップする。 ■子どもたちの力 震災後、子どもたちを起きてしまった事実とどう向き合わせたらよいかわからなかった。 女川の中学校で、震災後の5月、生徒たちに俳句を作らせようということになった。 家族を亡くしたものもいるなかで、子どもたちの心の傷を心配したが、子どもたちはすぐに5、7、5と指を折りながら、言葉を紡ぎ始めた。子どもたちの思いに蓋はできないと思ったという。 継続していくと、子どもたちの心の変化が見えてきた。 事実や悲しみと向き合うきっかけになった。心のケアにもなった。 子どもたちは自ら、今は震災後ではなく、大震災前と捉えて、防災対策について考え、「千年後の命を守活動」をはじめた。 ■大川小の当日(2011年3月11日)のこと 3月11日、体験したことがないような大きな揺れが襲った。しかし、 @時間はあった。 地震が発生したのは14時46分。津波到達は15時37分。51分あった。 しかし、子どもたちは1分程度、先頭の児童で約180メートルしか逃げていない。しかも、津波が遡上している川に向かっていた。 A助かる手段は全員が知っていた。 学校のすぐ近くには授業で登っていた裏山があった。 スクールバスも待機していた。バス会社から津波が来るから子どもたちを連れて逃げろという無線が入っていた。 (バスの運転手も津波で流された) 「ここにいたら死ぬ」「山に逃げよう」と、言っていた子どもたちもいた。 B情報もあった。大津波警報は全員に伝わっていた。 大津波警報が鳴り響いていた。 ラジオが指揮台の上あった。迎えに行った保護者からの情報もあった。広報車や防災無線も「津波が来ます。高台へ」と言っていた。 地区民の人からの情報もあった。ただし、地区民は「ここにいたら危ない」と思っている人はすでに逃げており、「大丈夫」と思っている人が残っていた。 @大津波が来ているという情報、A避難する時間、B安全な避難方法と場所など、子どもを救う条件は揃っていた。にもかかわらず、なぜ50分間も校庭にとどまっていたのか。 @組織としての意思決定ができなかった。 A判断ミス。(山ではなく川に向かった。しかもルートを間違えて行き止まりの道) これらがなぜ起きたのかを遺族たちは検証してほしいと要望していた。 ■事後対応について 学校や教育委員会の説明は何度も変わった。 2011.4.9 「地震による倒木が多く、山へ避難できなかった」 ⇒ 実際には倒木はなかった。 唯一生き残った教師の説明は矛盾だらけだった。 ⇒ 1回の説明の後、いろいろ働きかけているが、会わせない力が働いており、今だに話を聞くことができていない。 2011.6.4 「倒木があったように見えた」に訂正。 説明会での読み原稿は、聞き取り調査をもとにしたとのことだったが、聞き取り調査のメモ等の資料はすべて廃棄したという。 2012.5. 2011年3月16日付けの市教委への報告に「引き渡し中に津波」と書かれていたことが判明。 「山へ逃げよう」と言った子どもの証言がないことにされた。 市教委は押さえていない→「『ここって海沿いなの』という女子と書くと、『山さ逃げよう』とかいう男子と書きたくなる」→子どもの記憶は変わる(実際には一貫している)→「『山さ逃げよう』という子どもがいたかどうかは重要ではない」→子どもの証言ではなく、保護者に聞いたのかもしれない。 文科省が主導した検証委員会が1年かけて出した結論は、 @意思決定が遅れたため A避難ルートをあのようにとったため ⇒はじめからわかっていたこと。結局、一歩も先には進んでいない。「なぜ」そうなったのか、この先を考えてほしかった。 ・大川小は津波ハザードマップの想定外だった。 ⇒しかし、自然災害というものは常に想定外。想定外を想定するマニュアルが必要。 学校、教育委員会は、今だに向きあおうとしていない。 ■組織として意思決定ができなかったことについて あの時の意思決定は「ここにいてはだめ」という意思決定。 マニュアルにない。反対されたらどうしよう。責任を取らなければならなくなったらどうしよう。覚悟がなかった。 組織として動いていなかった。 川の様子をもし見に行っていれば、ただならぬ様子がわかったはず。 最初に大丈夫ではないかと結論を出したあとに、集まって議論していない。 教頭は地域の人に聞いた(危ないと思っている人は逃げている。大丈夫だと思っている人がそこにいた) 命を守るための議論がなされていなかった。 普段の学校経営の中で、事なかれ主義だった。よけいなことはするな。責任がとれないことはするな。 覚悟して言ったり、やったりすることがタブー視されている感じだった。 リーダーは不在の時ほど影響は大きい。 学校の先生はこうなりがちということをきちんとまとめるべきだと思う。 いざという時に、子ども第一、命第一を支柱とすべき その後の教育委員会の対応と同じ。あいまいに対応していればそのうち収束するだろう。 そうしているうちに取り返しのつかないことになる。 「もし津波が来たら」ではなく、「もし津波が来なかったら」と考えたのではないか。 どちらもキーワードは「責任」。 命を第一優先にできない足かせがあったなら、それを変えていかなければならない、 マニュアルについて、備えるべき備えをしていなかった。ずさんな備え。津波のマニュアルはあったが、どこに避難するか書いていなかった。防災マニュアルがこれだけずさんなので、ふだんの学校経営がずさんだったのではないか。 震災後、細かいマニュアルを作らされている。小手先だけの細かいマニュアルが、子どもの命を救うためではなく、教育委員会に提出するためのマニュアルになっているのではないか。 今の先生方はいろんなものを背負わされていて、いざという時に子どもに手を差し伸べられない状況になっているのではないか。そこを変えていかなければならない。 失う前に気づいてほしい。 |
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今回の話を通じて、私が考えたこと。 命が失われる現場には、多くの共通していることがある。 ・いじめ自殺事案に際して、学校・教師は、「いじめの相談は受けていました。でも、様子を見ていました。」 ・スポーツ事故に際して、学校・教師は、「今までも似たようなことはありました。でも、大けがをするとか、生徒が亡くなるというような大きな事故にはならなかったので、今度も大丈夫だと思っていました」 ・虐待死に際して、児童相談所は、「虐待の通報はありました。でも、確信がもてなかった」 ・原発事故に対して、「あれは想定外だった」。でも、「今度は万全を期しているから安全です」 人間は誰しも面倒は避けたい。深刻に考えるより、楽観視したい。万が一のことは、その時に考えればよい。 そして、起きてしまったら、「想定外」として、誰かの責任を追及するより、いやな事はさっさと忘れて、一日も早く日常生活を取り戻したい。 きちんと向き合わなければ、同じことは必ず起きる。そして、それは私たちが思っているよりずっと短いサイクルでやってくる。 校長が不在のなか、意思決定できなかった教師たちの話を聞いて、ある教員研修を思い出した。 年齢や役職もばらばらな、人権担当の先生方の研修で、グループごとに話合いをしてもらった。 知り合い同士が同じグループになりにくいように、こちらでグループ分けをした。 指示はA4用紙1枚。子どもからのいじめの相談。このような相談を受けたら、どういうことに気をつけて、どう行動するかを話し合ってもらった。 実はこの相談内容は、実際にあったいじめ自殺事案の生徒の相談。教師が適切に対応できなかったために、子どもがせっかく勇気を振り絞って相談してくれたのに、救えなかった事案。 この手の研修は企業では新入社員によく行う。研修を通じて、学生気分を一掃させるのがひとつの目的である。 一方、こちらの研修は、ベテランの先生方ばかり。 最初に上がった声は、「これだけの情報だけでは何もわからない」と、出題の不備を責める発言。 企業研修では、講師は何も答えないのが原則だが、サービスして、「情報が足りないのであれば、その情報を集めるところから話し合ってください」とヒントを与えた。 話合いの様子を見てると、グループで大きな差が生まれていた。 誰かひとりリーダーシップをとる人間がいると、議論が活発化する。中には、他校の利害関係がない人たち相手だからか、若い教員が臆することなく、熱心に議論をひっぱっているグループがあった。 結果的に、このグループが一番、様々なことを検討し、どうしたらこの生徒を救えるかのアイデアを出してきた。その内容も妥当と思える内容だった。 かと思えば、実際のいじめ事件で、もっとも教職員がやりがちなこと。「もう少し様子をみましょう」でさっさと結論を出してしまって、時間が余ってしまったグループもあった。 一番、衝撃的だったのは、女性ばかりが集まったグループで、傍で見ていてもグループ全員黙りこくって、全く会話をしている様子がみられない。せいぜい手元の紙にじっと目を落としているだけ。このグループは結局、「何の結論もでませんでした」と平然と言った。 2006年4月13日、東京都教育委員会は、「学校経営の適正化について」の通達を出した。校長・副校長。主幹らによる「企画会議を中心とした学校運営を徹底する」こととして、「職員会議で挙手、採決等の方法を用いての意向確認は行わないように」と指示。その後も、文科省の通知もことあるごとに、校長のリーダーシップを強調している。 自由闊達な意見交換がないなかで、上意下達に慣れてしまうと、きっと思考も停止してしまい、自分の頭でものを考えられなくなってしまうのだろう。 それが、子どもや自分たちの命がかかっているときでさえ、指示待ちに慣れてしまうと、命令があればそれが危険であってもやってしまうし、なければただじっと待ってしまうことにつながるのではないか。 子どもの教育には、そのコミュニケ―ション能力の低下を憂いて、積極的にディスカッションを取り入れようとしている。 コミュニケーション能力の低下はむしろ、大人のほうが深刻ではないか。まして、これからの人材を育てなければならない教師という職に、いちばん欠かせない能力ではないか。 教師間を階層によって分断し、評価によって萎縮させ、多忙化によって機会を奪い、人と人とがつながる能力を根こそぎためにしようとしているのは、教育行政ではないかと思う。 学校現場で、子どもの命が失われたときに、必ず大人たちが口にする言葉。「命の大切さ」。 しかし、そういう大人たちが、全く命を大切にしていない。子どもの命を預かっている教師たちが、子どもの命を大切にしていない。 子どもの心やからだよりも、学校の規律を守らせることや教師の命令に従うこと、学校のために貢献することが優先されている。 そして、教師が子どもの方を向くことさえ、今の教育制度は否定している。評価によって、教師は常に管理職の意向を、管理職は教育委員会の意向を、教育委員会は自治体の長や国の意向を第一優先するような仕組みがつくられている。 政治家たちが大嫌いな言葉は、「子どもの最善の利益」。自分たちのために、教育を、子どもを利用することばかり考えている。 学校事故事件を突き詰めていくと、結局は国の在り方、子ども観にたどり着いてしまう。 学校事故で子どもを亡くしたある母親は、「事故が起きたから、学校・教育委員会がこのような対応をとるのではなく、このような学校・教育委員会だからこそ、事故が起きたのだと知りました」と話された。 まさしく、大川小学校にも言えることではないかと思う。 そして、「今は震災後ではなく、大震災前だ」と話した中学生の言葉は重い。 震災後だと思っているところに、次はもうしばらくはこないだろうという油断が生まれる。 同じことが他のことにもにも言える。今は未曽有の原発事故後ではなく、破滅的な原発事故の前だということ。 今は戦後ではなく、戦前であるということ。 改めて、大川小の悲劇は、大川小だけでなく、全国のどの学校でも起きうると思う。 命の大切さは道徳の教科書をいくら読んでも身につかない。大人たちが子どもたちの命を大切にしてこそ、自然に身につくものではないかと思う。 |
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