2014/5/3 | 「佐世保小6同級生殺害事件」から10年。 「謝るなら、いつでもおいで」(川名壮志著/集英社)を読んで |
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きっかけは、指導死裁判のあとの報告会だった。友人たちを伴って出席していた亡くなった男子生徒のお兄さんに対し、ある遺族が「きょうだいの気持ちを知りたい」「息子は何も語ってくれないけれど、どう思っているのだろう」という質問を投げかけた。他の参加していた遺族からも、同じような悩みが話された。結局、その場で明確な答えは見つからなかった。 その質問をした遺族に、参加していた記者さんが帰りがけ、「もうすぐ出るこの本に亡くなった少女の兄の回想も書かれています」と言って小さなメモを渡した。私も関心があったので、その書籍名をメモさせてもらった。 「謝るなら、いつでもおいで」(集英社)。あとになって、その記者さんが、この本の著者で、毎日新聞の記者の川名壮志氏だと知った。(以前にも会っていて、名刺もいただいていたけれど、私は人の名前も顔もかなり致命的に覚えられない!) その亡くなった少女とは、2004年6月1日に発生した長崎県佐世保市の同級生殺害事件(040601)の被害者・御手洗怜美(みたらい・さとみ)さん(当時小6・12歳)。 この事件については、「佐世保事件からわたしたちが考えたこと―思春期の子どもと向きあう ―」(保坂展人・岡崎勝編著/ジャパンマシニスト)と、「追跡!『佐世保小六女児同級生殺害事件』」(草薙厚子著/講談社)を以前、読んだ。 怜美さんの父は当時、毎日新聞の佐世保支局長だった。そして、「謝るなら〜」の著者・川名氏はその直属の部下だった。当時の支局員は、わずか5人。しかも御手洗さんの自宅は佐世保支局があるビルの3階にあった。 妻を癌で3年前に亡くして家事全般をこなす御手洗さんの手料理の夕食を、独身の川名氏は怜美さんやその兄とよく一緒にし、毎日のように顔をあわせていたという。 そういう背景と、おそらく川名氏自身の共感力の強い人柄を反映しているのだろう。この本は、報道記者という職務との間で葛藤しながらも、遺族に極めて近い心情で書かれた本だと感じた。 ●報道被害について ある日突然、身に降ってくる災害は相手を選ばない。ほかでも、報道関係者がまさか自分が、遺族として報道される側になる日が来るとは思わなかった。はじめて逆の立場で、マスコミから取材を受ける辛さを知ったという内容が報道されていたことがある。御手洗さんもまさしくそれを実感した一人だろう。 取材する立場であったからこそ、事件直後の気が動転して、まだ娘の死の実感もない事件当日に、メディアの要望を受けて最初の記者会見を開いている。 このことについて、本書では実は「ある秘密も隠されていた」という。「御手洗さんは、怜美ちゃんの遺体の搬送からマスコミの注意をそらすことも意識していたのである」と書かれている。 メディアに傷つけられる遺族は多い。 被害直後の自分が混乱していて冷静に対応できない時期にワーッと波のように押し寄せて来て、ぶしつけな質問をする。とくにテレビは、撮りたい絵のために、わざと遺族の怒りを煽るような質問をしたり、泣かせるような言葉かけを、これでもか、これでもかと繰り返す。 ある犯罪被害者遺族は、テレビのレポーターが葬儀関係者に身内だと嘘をついて、棺のなかの遺体を確認したということを強い怒りとともに話していた。 スクープを目の前にしたときのレポーターの興奮。どんなに隠そうとしても、歓喜の感情が見えてしまう。 また、自分が言ったことの意味が取り違えられてしまったり、相手方の言い分や悪意のある噂話などを情報源にした間違った情報が報道されることも少なくない。 御手洗さんのようにメディアの人間として、自分の気持ちをきちんと他人に伝えることに長けている人の言葉さえ、違ったた意味に受け止められてしまうことがあったというのだから、素人であればなおさらだ。 御手洗さんは数年後、川名氏に次のように話している。(「謝るなら〜」(P220) 「取材の要請がきているということを聞いて、逆のことを考えた。もし取材を受けなかったらどういうことが起こるか、それをまず考えた。 もし断った場合に、メディアがどういう風に動くかというのを考えたら、家族に向かうんですよ、やっぱり。だから、僕以外のところに触れられたくない。触らせないぞという意識はあったと思う。その代わりこちらから出せるものは出そう、というのが一番強かった。 それと、僕が何も言わないで勝手に記事を書かれるよりは、僕への取材をベースにして書いてもらった方が、こちらにとって、嫌な感情を抱くような記事やニュースにならないのではないかとも思った。」 メディアの人間だからこそ、マスコミの怖さをよく知っていた。 当時、被害者の父が毎日新聞の記者であるということは、報道で知っていた。毎日新聞社からすれば、独占記事にできる内容をそうしなかったことを、少なからず不思議に思っていた。 そこには、社の方針と配慮があったという。事件のあった日、毎日新聞は「記事の公平性、中立性を保つため、被害者が社員の娘である事実を利用しない」ことを申し合わせ、「御手洗さんに直当たりするな」というお達しがあったという。 一方で、支局にはすぐに、沢山の応援のベテラン記者たちを派遣し、それとは別に、遺族の身の回りの世話をする人間が社から派遣された。 このあたりは、事件事故が起きたときに、何が機能しなくなり、どのような支援が必要になるのか、業種がら事件事故と常に身近に接しているだけに、想像力が働くのだろう。危機管理がなされていた。他の業種ではなかなかこうはいかないと思う。 ●遺族の心情について 事件直後、「涙も見せず、言葉をえらびながら慎重に」記者会見をこなしていた御手洗さんが、事件から1週間後、メディアから要請された記者会見に臨もうとしても、出席できる状態でなくなっていたという。 代理人として記者会見に臨んだ弁護士は、「御手洗さんは事件当日よりも、今の方がずっと憔悴している。2、3分前に考えたことも思い出せない。涙ぐまれることもあるし、実際に涙を流すこともある。」「新聞やテレビの報道を『頭ではわかっているつもりだけれど、体で理解できない』と何度も繰り返している」と説明したという。 この時から、ドクターストップを理由に、弁護士が代理人として記者会見に出席。御手洗さんは手記を公表するスタイルが定着したという。 最近では、大津事件でもそうだったが、被害者遺族が最初から弁護士を代理人として依頼し、記者会見や取材の申し込みなどにも対応してもらうスタイルが増えた。 遺族を守るうえで有効な手段だと思う。 事件の受け止め方や冷静さは、遺族によっても異なる。最初から大きく取り乱すひと、冷静に行動できるひと。 一見、冷静に見えても実は、まだ子どもの死を現実のものとして受け入れられていないからだったりする。感情が麻痺していて、ほとんど表情に出ない人もいる。 こういう状態の遺族がテレビ画面に映ると、「子どもが死んだのに親が悲しんでいない」「冷たい親だ」と誤解を与えたり、はては虐待説まで浮上したりする。 感情が解け出す時期も人それぞれで、葬儀の時、いよいよ遺体を焼く段階になって、子どもの死を実感し、取り乱す人もいる。1年以上、涙1滴流さなかったという母親もいる。泣く代わりに、原因不明の高熱が出て、体の震えが止まらず、病院に救急搬送されたという。 子どもが亡くなった直後は原因解明に奔走しバリバリ動けていた人が、1年を過ぎた頃から急に、外出さえままならなくなる人もいる。 御手洗さんは事件後しばらくたってから、川名氏に話している。 「遺族がいつも同じ気持ちでいるかというと、それもそうではないわけです。難しいよね。」(同P223) 遺族もその時々によって気持ちが変わる。事件が起きる前と、事件が起きてから10年という継続した時間のなかで、外側と内側の両面から事件を見ている。そういう意味でも今までにないルポルタージュだと感じた。 ●きょうだいの気持ち 被害者の親の気持ちを書いた書籍は数あっても、きょうだいの心情を描いたものはほとんどない。 一方で、私自身、多くの遺族と付き合いのあるなかで、最も身近にいる自分の親にさえ気づかれることのないきょうだいたちの深い心の傷を知ることは少なくない。 親たちは、被害にあった、あるいは亡くなった子どものことで頭がいっぱいで、それを知るのはどうしても遅れる。親が気づく頃には、問題がかなり深刻化していることもある。 御手洗さん自身、息子さんについて、次のように語っている。(同P227) 「家族で怜美の話をすることはないね。ほとんどないというべきかな。息子には、何回かこっちが水を向けた。でも、アイツも何も話さないからね。」「具体的にどういうことを思っているとか、こういうことを書いてくれということもないし。それ以上、何か言えというのもちょっと無理だしね。」 多くの親が、不安に感じながらも、どう接してよいのか戸惑っている。 事件のとき、怜美さんの兄は中学3年生。14歳だった。 母親が病気で入退院を繰り返していたため、兄が2年生の時から5年間は祖母と暮らしていた。 父親は単身赴任だったので、家にいないのが当たり前だった。 その母親は、兄が小学校6年生、怜美ちゃんが小学校3年生の秋に亡くなった。 母親の死から半年後、佐世保に来て、父親ときょうだいとの3人暮らしが始まった。 きょうだいは仲が良く、怜美さんはしょっちゅう学校のことも話していた。加害少女のことも随分前から知っていて、一緒に遊んだことがあったという。 「事件当日のことは、よく覚えています。むしろその日の方が、記憶が鮮明。それから1カ月先の方がぼやけている」(P289)と話す。 「怜美が死んでからの親父さんは、今まで見たことのないような親父さんで、やっぱり堪(こた)えました。それを見たら『自分がこの時どうなるか』より、『親父さんがどうかなっちゃうんじゃないか』の方が心配でした。『怜美の後を追うんじゃないか』って思っていましたから。」(P296) 学校事故事件で被害にあったきょうだいから、同じような内容を聞くことがある。 「あの時の両親は普通じゃなかった」「このままではお母さんも死んじゃうんじゃないかと思って不安だった」「私のことなんて全く眼中になかった」。 事件の直後、ずいぶん大きくなった子どもとまでが、母親と一緒のベットで寝たり、手をつないで寝たりするという話もよく聞く。あれは、きょうだいの死で不安になっていることもあるが、それ以上に親まで失うのではないかという強い不安にかられているからではないかと思う。 「親父さんとホテルで会ったときから、僕は感情を殺しちゃった。」「でも、僕がそんな風に思っていたことに気づいていた人なんて、だれもいませんでした。みんな親父さんの方にだけ注目していますから。」「だから僕は全部自分でため込んでました。人に話すことはありませんでした。」(P296) 「親父さんを見て、『余計な負担をかけてはいけない』と思い込んでしまったところがありました。」 事件事故のあとしばらく、きょうだいは忘れ去られた存在になりがちだ。 親たちに聞いても、あの頃、子どもたちはどうやってご飯を食べていたのか、どうやって生活していたのか、まるで覚えがないということも少なくない。 この時期、きょうだいたちは、ものすごく我慢をしている。 だからあえて、私は親たちに言う。きょうだいたちの「大丈夫」の言葉を信じちゃだめだよ。親に言えないところで、きっといっぱいいっぱいつらい目にあっているからね。できるだけ気をつけてあげて。 実際に、周囲の大人や子どもから、「お前のきょうだい死んじゃったんだって」「ほら、あの子が今話題の家の子だよ。こんな時によく学校に来られるよね」などと心無い言葉を投げかけられたり、担任教師からしつこく家庭の事情や裁判の意思などを聞かれた子どももいた。しかし大抵、その時には親に言えていない。 弔問に訪れる人たちの言葉もほとんどパターン化している。「○○ちゃんの分もあなたが、お父さん、お母さんを支えてあげるんだよ」。「○○ちゃん、いい子だったのにねぇ」。 悪気はなくとも、亡くなったきょうだいと比べられている気がする。亡くなった子ではなく、あなたが死ねばよかったのにと言われたように感じる子どももいる。「がんばれ」「もっとがんばれ」と言われている気がする。 お土産も、大抵は亡くなった子どもへの御供えもの。おやつはそのお下がりばかり。 だから、弔問に行くひとには、亡くなった子どもとへの御供えとは別に、きょうだいに対し、「これはあなたに」と言って土産を渡してほしいと言うことがある。私自身、できるだけそうしている。 子どもが亡くなると、親は自分がおいしいものを食べること、今まで続けてきた趣味、楽しい場所に行くことさえ、「亡くなったあの子はもうできないのに」と、罪悪感を抱くことが多い。そして実際、かつて楽しかった思い出の場所に行っても辛いだけで楽しむことなんて到底できないという人は少なくない。結果、旅行もしなくなってしまう。 しかし、亡くなった子どもにきょうだいがいる場合、とくに幼いきょうだいがいる場合には、気をつけてほしい。 親には、できるだけ今まで行っていた誕生日会やクリスマスなどの家族行事をやめないでほしいと言う。それでなくとも辛い日々のなか、きょうだいは自分が楽しむことさえ禁じられた気がしてしまう。 子どもは親とは違う。きょうだいの死をどれだけ辛く悲しいと感じていても、テレビを見たり、マンガを読めばつい笑ってしまう。友だちと遊べば楽しい、嬉しいと感じてしまう。しかし、大人たちの対応によっては、そのことに罪悪感を感じてしまうことがあり、それがストレスとなる。 旅行も、親が無理なら、親戚に頼んででも、長期の休みなどには、楽しいところに連れて行ってあげてほしいと言う。亡くなった子どもと比較しないであげてほしいと言う。 きょうだいたちには、「あなたは今まで通りのあなたでいいんだよ」というメッセージを周囲の大人たちがきちんと伝えてほしい。 怜美さんの場合もそうだったが、いじめ自殺の場合も、きょうだいには生前、いじめのことを打ち明けていることがある。 しかし、本人からは言えない。言ってよいかどうかの判断がつかない。言ったら、今まで黙っていたことを親からも責められるのではないかと恐れる。言えば、親をさらに悲しませるのではないかと気を遣う。 親もまた、なかなかそのことを聞けない。聞けば、子どもが傷つくのではないかと心配する。周囲も、時にはカウンセラーなども、聞いてはいけないという。 でも、言えないことがもっと苦しくさせるのではないかと私は考えていた。もちろん、その子どもにもよると思うが。少なくとも、話したいか、話したくないかを聞いて、話したい時には、いつでも聞くよという姿勢を子どもにもはっきり示すべきではないかと思っていた。 怜美さんの兄は当時を振り返って言う。「ネットでのトラブルについては、事件より前に怜美から何度か聞いていたんですよね。『やっぱり原因はこれなのか』と、自分に腹が立ちました。」「ニュースで流れているような内容は、全部知っていました。」 「怜美はネットの履歴を消さないから、何をやっているか、すぐわかりました。でも、その辺のことをしゃべろうにも、警察も家庭裁判所も、だれも僕に聞いてこなかったです。もし聞いてきたら、ちゃんと話したと思います。自分の心の整理にもつながりますし、話したい気持ちもありました。」(P301) 「怜美の同級生に臨床心理士がついてケアをしていたのは知っていましたけれど、なぜか僕には臨床心理士がいなかった。静観していたんでしょうね。でも、僕だって平常を装っているだけなんだから、おかしくならないわけではないんです。さらけ出す場面がなかっただけで」(P305) 「あのころの僕に一番必要だったのは『話をすること』だったんじゃないか。事件の話。怜美の話。そういうのを話した方が、楽だった。」 今は、きょうだいにも事件後、カウンセラーをつけることも増えてきた気がする。しかし残念ながら、スクールカウンセラーの場合、善意に見えて、学校側の情報収集に利用されてしまうこともあるので、注意が必要になる。 カウンセリングにはお金がかかるので、経済的に余裕がないと、個人で依頼することは、現実には難しい。犯罪被害者への支援制度がいろいろできているので、それが利用できるとよいと思う。 子どもの場合、大人以上に、その不安や怒りを言葉で表現することが難しいため、症状が出るまでに時間がかかったり、周囲が気づくのが遅れたりする。 怜美さんの兄の言葉。 「あのころ僕は、そうとう我慢していました。ぶつける相手がいれば、思いっきり感情をぶつけていたと思います。きっと、思いっきり叫んでいたでしょうね。」 「ただ僕は、なぜか彼女に対して、憎いとは一度も思わなかったんですよね。怒りをぶつけるべき相手が違うような気がしました。」 「それでも、何かイライラするんです。何に対して怒っているのか、ぶつけるべき怒りが何なのか、自分でもわかっていなかったです。怒るのは間違いなく怒っている。でも、それをぶつけるところがわからなかった。」(P308) ようやく、日常生活が回りだした頃に、様々な形で現れることがある。多いのが、不登校。本人にさえ、なぜ、自分が学校に行けなくなってしまったのかがわからない。 しかし、怜美さんの兄は、それをきちんと言葉で表現できていた。 「急に考える時間が増えてしまった。時間が増えて、考えを深く掘り下げる時間ができてしまったんです。」「バケツの中にためていた水が、全部ひっくり返って、受け止められなくなった感じです。」「今まで脇によけていたことが、一気に目の前に来ちゃった。事件のこと、その一点だけをどうしても考えちゃう。何もやる気が起きない。」 「『何で僕こんな風になっているんだろう?』。考えるしかないから、ずっと考え続けてしまう。いつかは事件に向き合わなければいけないと思ってはいたんですが、それまではシャットダウンしていたというか。高校に入ったら、倉庫に入れていたものが急に全部出てきた感じですね。そのときが一番きつかったです。」 「熱がないのに頭が痛い。だるくて、やる気が起きない。典型的な鬱みたいな感じです。」 「自分がそういうふうになっていることを、親父さんに知られたくなかった。なんか、言えなかったですね。」「親父さんが、『少しでも前を向こう』という気持ちだったのがわかっていたから、ここで僕が後ろを向いちゃいけないなって思いました。」 「うちの家族は、みんな一緒に悲しむってのはなかなかなかったですね。少なくとも親父さんと僕とは、ショックが来たタイミングに時差がありました。」 高校受験はクリアしたにもかかわらず、入学してから学校に行けなくなり、単位が足りなくなる。親たちの多くは、ここでようやく、きょうだいの異変に気付くことが多い。 しかし、親自身もそうであるように、きょうだいもまた、一旦は立ち直りかけては、また逆戻りするを繰り返す。それは、自分でコントロールしようにも難しい。いつまた落ち込むかわからない不安を抱えつつ、とにかく前に進む。 単位制の高校に入りなおして、何とか卒業した。大学にも入った。「でも、『立ち直っているか』と聞かれたら、立ち直ってはいないです。」「ずっとこういう状態がつづくんだろうな、と思います」(P314) 心の傷が完全に癒えるということはないかもしれない。ただ、親や本人が、これはごく当たり前の反応であると知っているだけで、辛さが少しは和らぐのではないかと思う。 そういう意味で、被害者の親やきょうだいには、ぜひこの本を読んでほしいと思う。 ●加害少女について 加害少女が「(怜美さんに)会って謝りたい」と話したという報道を見て、私が当時思っていたのは、少女も事件後、冷静になってみれば、とんでもないことをしてしまったと強く後悔しただろうということだった。 しかし残念ながら、この本を読む限り、そのような姿勢は感じられなかった。そして、それが何より周囲の大人たちを驚かせ、悩ませた。 「審判の場でも、くり返し反省や謝罪の言葉を促そうとするが、その呼びかけに少女は応じない」(P189) 「少年法は古くから、非行の原因はその『成育環境』にあると考えてきた。しかし、今回の少女についてはそれを踏襲せず、共感性に乏しいという少女の『個人的』な特性を凶行の基盤だと判断した」(P191) 周囲の大人たちが自分に何を求めているのかを察知して、反省を演技するよりはマシだとは思うが、相手への共感力だけでなく、他人が自分をどう思うかを想像する力にも欠けているとも言える。 「追跡!『佐世保小六女児同級生殺害事件』」(講談社)の著者・草薙厚子氏は、少女が送られた児童自立支援施設「国立きぬ川学院」で、「アスペルガー症候群」という診断名がつけられたことを突き止め、「A子と御手洗さんの感情のすれ違いを、アスペルガーというフィルターを通して見ていくと、ある程度は筋道が見えてくるように思う。」(「追跡!〜」P194)と書き、その解説を詳しく行っている。 「アスペルガー症候群を持つ人間は、相手の感情を理解して臨機応変に対応することができず、決まったマニュアルに沿って行動することを好む傾向があるというのだ。生得的な脳機能の異変とは、生まれつき脳のどこかに異変があるという意味である。」(同P191) 「診断の手がかりとなるのは、集団行動や、感情が絡んだり臨機応変さを求められる場面でつまづきやすいかどうかということです。」(P192) 「アスペルガー症候群には、『狭い範囲に没頭する形で何かに興味を持ち』、『有用性のない生活上の決まりや儀式的行動に固執する』という特性があるが、A子のオカルトやバイオレンスへの偏愛ぶりは、これに当てはまるといえはしないか。」(P163) 「担任教師によると『成績は中の上』だった。しかも、彼女はクラスで指折りの読書家でもある。なのに『ヒマワリ』や『モンシロチョウ』の名称を知らなかったのだ。」(P162)これについても、「アスペルガー症候群の人は関心領域と非関心領域のギャップが大きいのが特徴です。関心のある事柄には高度な知識を持つ反面、それ以外のことについては、初歩的な常識すら欠落することがあってもおかしくないのです」(P196)という医師の言葉を引用している。 一方で、草薙氏は「アスペルガー症候群は自閉症とともに広汎性発達障害を代表する疾患です。」「広汎性発達障害は、いまだ不分明なところが多い疾病であり、そのため、どうしても『病名の一人歩き』がしやすくなる傾向がある。これは、非常に危険なことだ。とくに『アスペルガー症候群の子どもは犯罪者になりやすい』『A子は病気だから事件を起こした』といった短絡的な思考は、危険であるばかりか明らかな間違いだ。十一教授もアスペルガー症候群はあくまで事件の間接的、副次的な要因であると強調している。」(P192) 川名氏も、「謝るなら〜」のなかで、「少年事件が起きたとき、その原因はおそらくひとつだけではない。だから、少女個人の特性だけを原因に帰して、特異な事件だと切り捨てるのはやっぱり乱暴だ。そして、ちょっと姑息でもある。ただ、事件ほ解き明かす場合に、犯行の性質を成人と同じように扱って不可解な殺人、動機なき殺人、ととらえ、加害者を狂人のように扱うよりは、発達障害という新たな視点を盛り込んだ方が、より理解が深まるというだけだ」「(P202)と書いている。 そして、加害少女と一緒に遊んだこともある兄は、少女について、川名氏に次のように語ったという。(P314) 「少年審判で女の子のことを『共感性に乏しい』と書いていたみたいだけど、僕からみればあの子はグループに入ろうとして失敗した子だと思う。自分のことをアピールしすぎて、うまく溶け込むのが下手な子。仲間には入れるけど、目立ちすぎて周りから浮いてしまうような……。やっていることをいろいろ見る限りでは、『私を見て!』って、自分の特徴は覚えさせようとするけど、まねをされたら怒るという感じ。僕も当時はそこまで感じ切れてないですけど、あらためて考え直したらそういう子かなと思います。」 年齢が近く、身近に知っているだけに、その見方は正しいかもしれない。アスペルガー症候群という診断名がついていようと、いまいと、少なくとも少女の身近にそのように理解し、支えてくれる大人が一人でもいたら、結果はここまで悲惨なものにならなかったかもしれない。 加害少女の償いや更生について、御手洗さんは次のように話している。(「謝るなら〜」P239) 「僕はそこに期待をかけたくないわけですよ。期待をかけて、『あっ、そうじゃないな』という行動に出られたときに、また裏切られる。裏切られるのはイヤだから。」「彼女がきちんと罪を償って更生して……、というのは加害者側が負うべき義務であって、僕が直接かかわる話ではないと思う。」 これは、多くの事件事故の現実を見てきたからこその言葉ではないかと思う。 多くの被害者たちは最初、加害者に謝罪なんてされても困る、謝ってすむことではないから、許すつもりなどないから、と思う。しかし現実は、いつまで待っても相手は謝罪に現れない。むしろ、せめて一言、亡くなった子どもに「すまなかった」と言って謝ってほしいとすがりつきたくなるのは、遺族のほうだ。 子どもの命が奪われた親たちは、せめて、それを無駄にしてほしくない、加害者には反省して更生してほしいと願う。一方で、自分の子どもの命を犠牲にした相手が、幸せな人生を歩んでいくのも割り切れない。心のどこかで、不幸になればよいのにと思ってしまう。 どんな結果であろうとも、子どもの命を奪われた親にとって、納得のいく答えなどどこにもありはしないのだろう。 「子どもを亡くしていちばん辛いことは、ひとを信じられなくなったこと」とある親は言った。 事件が起きると、それまでの人間関係が大きく変わるという。信じていた人たちから裏切られる。一見、親切そうに手を差し伸べてくれた人からも、その手をつかんで、引き上げられると思った途端、奈落の底に落とされる。 信じていた人にまで裏切られたとき、「こんな世界に自分はもういたくない」「死のう」と思ったという。 期待して裏切られると、自分が立ち直れないほど深く傷つくのがわかるから、もう期待しない。そう宣言しつつ、やはり人はどこかで、人の心に期待してしまう。 「謝るなら、いつでもおいで」。これは実は怜美さんの兄の言葉。きっと父親も心の奥底では、いつか少女が謝りに来てくれることを期待していると、知っているのだと思う。 |
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