世界保健機関(WHO)が「世界自殺予防デー」と定める9月10日(土)、NPO法人 自殺対策支援センター ライフリンク主催の緊急フォーラム「自殺総合対策のグランドデザイン」に出席した。
フォーラムには、日本各地から、研究者や心理療法士、自助グループの主催者、命の電話や自殺防止に取り組んでいる民間団体の関係者など100名を超える「自殺対策関係者」が来ていた。
代表の清水康之さんは、NHKのディレクターをしていたとかで、「クローズアップ現代」で自殺遺児について取り上げたひと。
WHOでは、「自殺は防ぐことのできる公衆衛生上の社会問題である」と定義している。
日本でも、7年連続して年間の自殺者が3万人を超えるなか、政府も自殺総合対策に取り組むことをはじめるという。
最初に2人の遺族が話をした。また、それ以外にも、多くの遺族が発言をした。
そのなかで、いくつか気づかされたことがある。
ほとんどの自殺遺族が、自責の念をもっているということ。気づいてあげられなかった、止められなかった、話したそうにしていたのにじゃけんにしてしまった。それが最後になってしまったなど。
そして、なぜ死んだのか。何年も何年も問い続けて、わからないことは、わからないままだった。10年たってようやく、忘れようとするのではなく、悲しみとうまくつきあって行こうと思ったという。
また、自殺者の家族にも後追い自殺があるということ。自殺の連鎖は、どうやらけっして少ない数ではないらしい。
父親が自殺したあと、母親が後追い自殺をして、自分もいつか自殺するのではないかという恐怖を抱いている女性もいた。
そして、今だ「自殺者」に対する世間の偏見は根強く、遺族が「自殺だった」と言えない状況にあること。それは、私の想像以上だった。
結婚、就職にさしさわると言って、親からは絶対に「自殺だったと言ってはいけない」と強く言われ続けたこと。葬式にも、親が病死だとウソをついたこと。
家族や親戚のなかでさえも、「自殺」がなかったことにされる。あるいは、そのひとの存在さえなかったことにされてしまうように、語ることさえタブー視されてきたということ。
友人にさえ、親の死を病死とウソをつかなければならなかった。そのことで自分を責めてきたという。
そして、その体験は、ひとりやふたりではなかった。足長基金のキャンプで親の自殺を語るひとがいて、はじめて、ひとに話してもいいんだと驚いた。ようやく、自分も話すことができた。それでも、それは遺族間のなかでしか、やはりなかなか語れなかったという。
一方で、こうした遺族に対して、公的な支援はほとんど何もない。
少ないながらも各地に、体験を分かち合う自助グループもできはじめた。しかし、機関との連携はほとんど取れておらず、存在もあまり知られていない。
身内を自殺で亡くした家族の心の傷はずっと長い間、無視されてきた。現場では、そのケアの必要性を感じながらも、縦割り行政のなか、誰も手をつけては来なかった。
周囲の不適切な対応が、傷ついている心の傷をより深くしていく。
警察の対応のひどさも上がった。
捜索願いを出していたのに軽くあしらわれきちんと捜索がなされていたかどうかさえ定かではなかったこと。いきなり、財産のことを聞かれたこと。親の自殺に直面したばかりでショックを受けている子どもに、いきなり詳細な目撃証言を求めた警察官。
また、カウンセラーについても、できるだけ早い段階でケアをしてほしいという意見が出る一方で、不満もあった。話を聞いてくれるというので、一生懸命に話していたら、50分から1時間で打ち切られて、「はい。この話はまた来週」と言われたときの割り切れなさ。時間で計算されるお金のこと。わかってはいても、冷たい対応だと感じた。
いくつか、遺族の実態が明らかになる一方で、自助グループにしても、対策団体にしても、立場が違えば考え方も大きく異なること。時には、対立する概念もあるということが見えてきた。
親を自殺で亡くした遺児と、子を自殺で亡くした親とでは、自殺に対する考え方も大きく異なると知った。
今回のフォーラムでは、「自殺者3万人」の中心が30代、40代の働き盛り、中小企業経営者も多いということで、絶対数の多い大人の自殺が中心であり、ほとんど全くといっていいほど、子どもの自殺には触れられなかった。
それでも、19歳以下の子どもという括りにすれば、年間500人から600人の子どもたちが自殺をしている。1日に1人から2人の子どもが死んでいる。この少子化の時代にけっして少ない数ではない。
手持ちの資料から参考までに、ここに掲げると
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平成10年 |
平成11年 |
平成12年 |
平成13年 |
平成14年 |
平成15年 |
大人の自殺
(厚生省資料より) |
32,863 |
33,048 |
31,957 |
31,042 |
32,143 |
34,427 |
19歳以下の自殺
(警察庁資料より) |
720 |
674 |
598 |
586 |
502 |
613 |
(単位は人)
自殺するひとの気持ちについて、ほとんどの自殺は、死にたくて死ぬわけではない。ただ、楽になりたかった。そして、誰からも理解されないという孤独のなかで亡くなっていった。自殺の多くは社会的他殺である。何とかできた死であるという意見が出された。一方で、尊厳死的な自殺もあるのではないかという意見もあった。
自殺を防ぐためには、うつ病対策やカウンセリングの充実を言うひと、中小企業への融資制度を言うひと、教育の大切さを言うひともいた。
一方で、「自殺しない子どもに育てるべき」という意見も出た。ただ、それに対しては、「違う」と思う。
ひったくりにあったひとに対して、「そんな大金をもって歩いているのがいけない」、男性に襲われた女性に対して、「そんな肌を露出するような服装をしているのがいけない」と責めるようなものだ。
まして、自殺と他殺は表裏一体であることはすでに知られている。
大切に育てられて、自分がこんなにも追いつめられた状況下でさえ、相手の痛みを思いやってしまうからこそ、相手を殺すか、自分を殺すしか、この苦しさから逃れる方法はないと追いつめられたときに、相手の死ではなく、自分の死を願ってしまう。
「死ぬのは弱いからだ」と言えば、子どもたちはきっと「ひとを殺す強さ」を手に入れようとするだろう。
うつ病も、自殺念慮も、結果でしかない。いくらケアしたところで、根本にある「生きづらさ」をなくさない限り、解決にはならないだろう。まして、深い心の傷は、1年や2年で治るものではない。5年、10年、何十年も、あるいは一生涯引きずることもある。
「そもそも論」と名うって、なぜ自殺を防止しなければならないのか、をテーマとして議論を持ちかけながら、結局は、うまく議論が噛み合わないまま、流れてしまった。
立場が違えば、考え方も180度違う。「グランドデザイン」としながら、今回はまだそこにまで至らなかった気がする。
それでも収穫はあった。貴重な話も聴くことができた。
正しい情報を知ることが、リスク回避になるという発言には、私も賛成だ。まずは、もっと日本の現状を正しく知ることから始めなければいけないのではないかと思う。
現状を見誤ったまま対策を立てれば、役に立たないどころか、害になることさえある。
そして、今回は、残念ながら、自殺の予防をしたいのか、遺族のケアをしたいのか、方向性が今ひとつ見えて来なかった気がする。ほんとうは、遺族のケアをし、協働することで、予防につなげられればと思うのだが、現実には、「自分たちを利用してほしくない」という考え方もある。そして、一般のなかには、なぜ、自殺の遺族だけに手厚くしなければならないのという考え方。
3万人という自殺者の数。未遂者は10倍はいると言われる。そして、強い、弱いに関係なく、誰でもがなりうる「うつ状態」。もっと身近なこととして、一人ひとりが考えてみるべきではないかと思う。その中から、個人に何ができるのか、行政にしかできないことは何か、見つけていければと思う。
追記:2005年9月20日 自殺防止に役立てたい情報源 をUPしました。
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